明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

古代史喫茶店2

2019-01-25 23:12:38 | 歴史・旅行
副題は「蘇我氏の双墓」と予告したが、広瀬氏に限らず「定説を覆す理論を好む人」は往々にして自己の新説に固執する余り「その説に特徴的なこと」を何にでも当てはめて解決しようとする傾向が見られる、というのがある。広瀬氏の記事の半分は非常に示唆に富む新しい見方だが(これは私が知っている限りで、他にも似たような認識があるかもしれない)、残り半分は「どうも眉唾」みたいに思えたので途中で読むのを止めた。大体に於いて古代史は「つまみ食い」が新説の正しい読み方だと思っているので、その線に沿って感想を述べていきたい。

1 牧野古墳
ホームページの「古代妄想」を1番から順を追って読んでいったが、まず牧野古墳を見ると、広陵町に大きい古墳があるとの紹介である。広陵町というのは葛城連峰の二上山を望む奈良盆地の西端で、香芝・高田・大和八木・田原本・王寺などと隣接する平野部である。飛鳥地方からは西北に位置し、北側に法隆寺・南側に橿原神宮があって西に行くと、竹内街道や暗闇越えなどの峠を介して大阪側にいく「交通の要衝」でもある。奈良は勿論どこに行っても古墳だらけなのだが、このエリアにはメジャーな「馬見古墳群」がある。早速ネットで検索してみると、この辺り一帯の古墳群の総称みたいである。大塚山古墳215m、島の山古墳190m、巣山古墳204m、ナガレ山古墳105m、佐味田宝塚古墳、新木山古墳200m、乙女山古墳130m、新山古墳137m、狐井城山古墳109m、築山古墳210mなど、一級の古墳が立ち並ぶ歴史の宝庫だということが分かる。その中で牧野古墳(「ばくやこふん」と読むんだって!)は丘陵部西端に位置し、墳丘部の大きさが最大級であることから大王級の被葬者と考えられていて、時代から見て「押坂彦人多兄皇子だろう」と比定されているという。この墓の大きさは、あの馬子の墓といわれている石舞台古墳と同等というから、被葬者は相当な地位にあった人だということが分かる。では押坂彦人大兄皇子とは何者なのか。

2 押坂彦人大兄皇子
まず定説では「敏達大王の皇子」となっているが、自分の妹を3人も后にしていること(糠手姫皇女・桜井弓張皇女・小墾田皇女)、孝徳天皇が発した大化2年3月の詔に「皇祖大兄」とあり「彦人大兄をいう」と註がついていること、延喜式に墓域が東西15町南北20町と「最大」であること、などを「妙だな」と広瀬氏は不審に思っている(このほかにも2点、不審な事実を書いているが割愛)。また、推古天皇の娘のうち2人(桜井弓張と小墾田)が彦人大兄に嫁いでいるが、権力者の蘇我馬子には一人も嫁いでいない点、蘇我と物部の戦いの3か月前に中臣勝海連は彦人大兄と竹田皇子を呪詛しているが蘇我馬子には何もしていない点、中臣勝海を斬殺したトミノイチイ(漢字変換が出来なかった)は押坂彦人大兄または聖徳太子の舎人ということになっているが蘇我馬子の命令で動いている点、彦人大兄の墓(成相墓)は大方の見る所では牧野古墳となっているが多くの古墳があるにも関わらず近辺に飛鳥時代の古墳が無くしかも巨大である点(この時の最大の権力者は蘇我馬子)など、その存在が謎に満ちている。

3 田村皇子(舒明天皇)
推古天皇の崩御後に即位した田村皇子は日本書紀によれば蘇我氏と血の繋がりはない。だが蘇我蝦夷は蘇我氏系の山背大兄皇子ではなく叔父の境部摩理勢を殺してまで田村皇子を即位させた。大王位というのは極端に言えば部族・血族の権力闘争の結果である。血の繋がりのない人間を大王位につけるなど余程のことがない限りあり得ない。また馬子は崇峻天皇を弑逆しているが、歴史的にも異常事態であるにも関わらず日本書紀では「何のお咎めもなし」である。なお、ついでにこれは証拠とは言えないが、乙巳の変直後の詔で孝徳天皇は蘇我稲目・蘇我馬子の仏教への貢献を称えているが、蘇我氏を倒したクーデターの後にこれは妙だ。さらに天智天皇が病に倒れた直後、飛鳥寺に珍宝を奉納(病気平癒と思われる)しているが百済寺や川原寺ではなく飛鳥寺というのが不思議。さらにさらに天智天皇の崩御の直前に大友皇子は重臣を集めて忠誠を誓わせたがメンバーは右大臣中臣金以外は蘇我系(蘇我赤兄・果安・巨勢人・紀大人)ばかりである。天皇の墓の形状が舒明天皇以後墳丘の形が方形から8角形に変わる。さらにいえばこれは全然説得力のないことだが天平6年4月に聖武天皇が地震による被害を調べさせた陵墓が8ヶ所で、元正・元明・文武・天武持統・天智・斉明・孝徳・舒明となっている。推古まで届いていないのは、舒明天皇から王統が交代したからではないか、と広瀬氏は考える。まあこれはご愛嬌だが、広瀬氏の疑問にも一理あると思わざるを得ない。

押坂彦人大兄皇子は詔勅で皇祖大兄と呼ばれていた。とにかく証拠めいたものは色々あるが、これが一番の重要なファクターであろう。継体天皇が天皇・太子・皇子倶に死すという事件にあった後、息子(とされているが疑問)の欽明天皇が即位し、そのころから蘇我氏も活躍しだした。次の代では敏達大王・用明大王・崇峻大王・推古女王と兄弟即位が守られたが、推古女王が次の王位を誰に譲るか決めてなかったために争いが起きたという。蘇我蝦夷と境部摩理勢とが戦って蝦夷が勝ち田村皇子が大王になったわけだが、私はここで欽明天皇の系列から蘇我の系列に替ったのではないかと読み解いた。順序から言えば用明天皇の息子の厩戸皇子が崇峻天皇の後に位を継いでもおかしくない。推古女王の摂政を努めたと言うから年齢は問題ないと思われるのに崇峻天皇の後に推古女王を立てたとのは大王位を巡っての争いを避けるためだというが、聖徳太子ですんなり決まりそうにも思えるから説明が弱い。厩戸皇子以外にも春日・大派・難波・来目・当麻・埴栗と大勢いたのだから誰でも良かったはずである。後継者争いは何時の時代にもつきもので、これを避けていては権力者にはなれない。実際、馬子は崇峻天皇の後に大王位をついだのだと思う事も出来る。推古女王は蘇我馬子が大王だったことを書けない理由があって日本書紀が生み出した「実在しない大王」だったというのが結論である。蘇我馬子が押坂彦人大兄皇子だとすると、崇峻天皇弑逆も「大王位を身内で争った」のだから普通のことで問題がない。蘇我氏が滅亡した時に邸宅から国記がみつかったとあるが、その国記は聖徳太子と「蘇我馬子」が作っていたとされ、これも蘇我氏が大王位にあったとすれば不思議でも何でも無い。事実は敏達大王のあと用明天皇・崇峻天皇と続き、そのあと推古ではなく「押坂彦人大兄皇子が皇位継承した」のではないか?。つまり蘇我馬子大王である。これは歴史を素直に読めば納得の展開であろう。

では私の好きな「乙巳の変」をこの視点で読み解くと、欽明天皇の後、敏達天皇・用明天皇・崇峻天皇と続くが、欽明の後は敏達の系統と用明の系統と「2つ」に分かれる(崇峻天皇は殺されてしまうから断絶)。用明の系統は聖徳太子・山背大兄王と続いて断絶。敏達の系統は押坂彦人大兄皇子・舒明天皇と続き、その後に古人大兄皇子と皇后の宝皇女が生んだ葛城皇子(中大兄皇子=天智天皇)と孝徳天皇との「3つ」に分かれる。孝徳天皇は舒明天皇と兄弟の茅渟王の息子で古人大兄皇子とは同世代だから一応「三つ巴の構図」である。舒明天皇の次は蝦夷の考えでは「古人大兄皇子」だった筈。乙巳の変では入鹿が殺された時には古人大兄皇子も皇極天皇の近くにいた。皇極女王の補佐役で最も権力の座に近いのが古人大兄皇子である。傍系の系統である孝徳が馬子直系の古人大兄から権力を奪うには実力行使のクーデターしか無い。葛城皇子は年少のため母である皇極の側、つまり孝徳側に付いたのは当然だろう。蘇我氏の内部での権力争いの結果、生まれた政権が孝徳天皇である。蘇我氏の派閥も古人に蝦夷・孝徳に蘇我倉山田石川麻呂と分かれたが、古人大兄皇子が早々と剃髪し抵抗を止めたために蝦夷は御輿を失って滅んでしまった。これが大凡の乙巳の変の顛末である。本来は「古人大兄皇子がターゲット」ではなかったか。結論が出た。

なんか私的には蘇我氏の専横を中大兄皇子が誅したという話よりも、蘇我氏内部の「権力争い」という流れが一番理解しやすい。ここでの肝は孝徳天皇が「舒明天皇の皇后の弟」ではなく、舒明天皇の父である「押坂彦人大兄皇子の孫」であるという点だ。皇極天皇の兄弟では印象が薄いが、舒明天皇の子の古人大兄とは「いとこ」である。馬子から3つに別れた系統は、舒明天皇・古人大兄(蝦夷・入鹿)が断絶、茅渟王・孝徳天皇は孤独死、皇極天皇・斉明天皇の系統が残って天智天皇と続くわけだ。すべて「蘇我一族」である。孝徳天皇は押坂彦人大兄を皇祖大兄と呼んだ。蘇我氏の系統だから当然である。舒明天皇の系統は外して自分の正当性を主張し、なおかつ蘇我氏をまとめるには祖父を持ち上げるのが一番正しい。一方で天智天皇は桓武天皇から皇祖と扱われている(どこかで読んだ、が思い出せない)が、色々ゴタゴタあったが1つにまとめた功績を認められてのものだろう。押坂彦人大兄皇子の墓である牧野古墳が広陵町にあり、孝徳天皇の勢力は河内に本拠を置いていて、蝦夷の邸宅が明日香の甘樫丘にあったというのも、三者三様、別々の系統なら当然である。

と、ここまでいろいろ書いたが、頭が混乱してきた。それに広瀬氏の押坂彦人大兄皇子が「蘇我馬子だ」という説は、ちょっと疑問に思えてきたのも事実である。最初はワーッと読んで興奮していたのだが、資料をよく見ると「氏の上げている証拠」がそれほどでもないかな、とも思えてきたのだ。ここはもう一度、じっくり読み直さないと「うかつ」には信じてはいけないなと思う。という訳で、もう少し読み進めてから再度感想と総括を書くことにして、今日はこれにて失礼するとしよう。やっぱ、新説に飛びつくのはまだ早い、ってことみたい、気を付けなくては!

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