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明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

私の選ぶ新百人一首(6)小式部内侍

2020-08-12 22:14:10 | 芸術・読書・外国語
第6位 大江山 いく野の道の 遠ければ
     まだふみも見ず 天の橋立

小式部内侍は、有名女流歌人和泉式部の娘。皇后宮定子と華を競っていた中宮彰子に出仕していた女官の一人である。和泉式部と区別するために「小式部」呼ばれたらしい。まあ、この時代の女性には美醜の程を知る手がかりが全く無いわけで、小野小町などは例外として、彼女も美しかったかどうかは不明である。小式部内侍も「うら若き歌詠み」という以外は殆ど何も伝わってはいない。母親の和泉式部が奔放な恋愛遍歴で名を残している有名人であるから、彼女もそれなりに愛嬌のあるアイドル的存在だったのではないか、と想像されるだけである。・・・あくまで、想像だが。

15、6才で母親譲りの歌詠みの才能を存分に発揮し、宮廷のおじさん達に「才気煥発じゃん」と注目を浴びた彼女が、「どうせ和泉式部かなんかに代作を頼んでいるんだろう」と揶揄されたのは無理もない。そんなやっかみの言葉に対し、即座に歌を詠んで「悪意ある噂」を見事に打ち負かしたという、今で言えば「SNSの誹謗中傷を返り討ちにした」逸事である。このエピソードの主「藤原定頼」とは旧知の仲だったそうで、小式部内侍にやっつけられてスゴスゴと退散した彼を、「それみたことか!」と得意満面で見送った情景が微笑ましい。このあたり、宮廷女房の生活を満喫してる感じがありありと出ていて、小式部内侍の若さ溢れる魅力が爆発、といった痛快な場面である。

歌の内容は皆さん御存知の通りで、今更説明するのも何だが一応書いておくと、小式部内侍が宮中の歌合いに代作を頼んだと揶揄された母の和泉式部は、この時結婚して丹後の国に住んでいた。それで、その丹後に行く道の途中にある大江山と生野を「行く野」と掛けて上の句にし、下の句で「まだ踏みもみず」と歌って、「行ったことがない」というのと、まだ返事をもらってないという意味の「文も見ず」を掛けるという、ダジャレ連発の和歌を返したのである。ただ、そんじょそこらのつまらないダジャレと違い、ちゃんと旅の地名を読み込んで「名所旧跡を訪ねて歩く、読み手の臨場感」を歌に込めているからこそ、内容とともに「爽やかな紀行文」として、味わいが生きてくるのである。

特に最後の体言止めである「天橋立」は、当時から絶景として有名であり、宮廷に居並ぶ貴顕の面々にとっても、「歌枕としての名所」の一つであったろう。日本海に鳥の嘴のように細長く伸びる砂州と、そこに茂る松の緑。その名所へ旅することは、歌詠みにとっても一度は行ってみたい旅行ではあるまいか。その旅の象徴が、あの酒呑童子の伝説で名高い「大江山」である。この大江山を読み込むことで、何の変哲もないダジャレ和歌が「急に現実味を帯びた旅気分を醸し出してくる」のである。大江山と聴けば「ああ、あの名高い大江山か・・・」と、歌を聞いた人はすぐに思い浮かべるだろう。その大江山に都から行くとなれば、今でも五条通りから山陰道に入って沓掛ICで「京都縦貫自動車道」を走る、というルートになる。

ところが「生野」というのは Google Map を見ても丹波方面には見当たらず、もっと西に生野銀山というのがあるきりなのだ。勿論、大同2年に銀が出たというから存在は知られていたかもしれないが、丹波の奥深くある大江山と生野というのは、通り道でもなく「中々結びつかない」のである。とすれば「行く野」と生野を掛けた、とする現代の解釈は間違っていることになる。まあ、ここは単純に「遠い」という共通点と語呂だけで思いついたダジャレという解釈もあり、または山陰道とは別に鳥羽の辺りから船に乗り、大阪の生野を通って北に向かうルートがあったのかも知れない。何れにしろ、都を離れて遥々観光気分が横溢する天橋立を想像するだけで、都人には或る種のロマンが感じられたのではないだろうか。

私は50才台の夏休みに出雲地方へ旅行を計画したことがあり、前の日の夕方から中央道をひた走って、朝方早くには敦賀から若狭湾辺りの「静かな海」を眺めながらシーサイドランを楽しんでいた。それから舞鶴・宮津と海沿いを走り、鳥取を通過、米子を過ぎて夕方出雲に着くまで、丸一日車に乗りっぱなしでドライブを楽しんだものである。免許を取ったのが40才を過ぎてからと遅かったせいもあり、とにかく車を運転しているだけで楽しかったのを覚えている。毎週のように千葉にはドライブに行っていたのだが、この時は何故か「西に行ってみよう」と思い立ち、連休を使って出雲大社に行くことにした。結局、出雲大社には駐車場まで行って中に入らなかったまま帰ってきたのだが、その帰りに宮津から大江山あたりの山の中を走り、山陰道を南下して「電車事故で有名な福知山」を通った。

この時にはもう夜10時頃になっていたので、ずっと走り詰めだったし、ホテルにでも泊まるかと思って目に入った「〇〇ホテル」という看板を見て、車を止めて入っていった。周りは家族連れの温泉施設などもあり、普通の観光旅館だと思っていたのでチェックインしようとしたら、怪訝な顔をした男にあっさり断られたのである。満員でもないのに「何でだよ!」とむかっ腹を立てて車に戻ったが、実はそこはラブホテルだったらしい、ということに「しばらくしてから気が付いた」のだった。地方のラブホテルは東京などとは違って、普通のホテルと見分けがつかないもんだな、と妙に感心した記憶が残っている。まあ、大江山と言えば「こんなくだらない事」の思い出しか無いのだが、今でも不思議と「福知山を通過する暗い夜のカーブ」は脳裏に焼き付いているのだ。私の旅の思い出というのは、車で通った「道の景色」なのである。

例えば、仙台に行く途中の山の中にある「赤い丹塗の橋」とか、酒田近辺の港沿いを走った時の「夜の黒い海」とか、千曲川に出る田舎道の「広々とした畑の景色」とか、名前は思い出せないが皆不思議と記憶に残っている。千葉の山中の「ポツンと建った自動販売機の専用食事スペース」などは、出来たらもう一度訪ねてみたい私だけの秘密の場所だが、もう免許も返納したことだし、無理かなぁ・・・。

私はこの小式部内侍の小気味良い応答歌を読む度に、あの日の「天橋立を旅した記憶」が蘇ってきて、色々昔のことを思い出して「やさしい追憶の気分」に浸るのである。和歌には人それぞれに、人には分からない思い入れがあってもいいと思う。作者の小式部内侍には思ってもみない「意図しない副次的効果」だとは思うが、私にとって「まだ踏みもみず」という言葉は、まだ訪問したことのない「未知の風景への憧れ」でもあるのだ。そのような歌枕といわれる名歌に因んだ景色や「いわれ」の語り継がれた有名な場所は、全国にいっぱいあるのではないだろうか。百人一首の歌枕を一通り「全国旅した人」の話がネットに載っていた。私も遅ればせながらそれを訪ね歩けたらどんなに素晴らしいかな、と夢想することがある。とは言いながら、家で酒など喰らっているのが、また楽しいのだが。

さて、この歌本来の軽妙な男女の駆け引きは、勿論そのままで十分に魅力的である。男がからかい半分に歌の代作の噂を持ち出すと、すぐさま絶妙の「技法」を散りばめた和歌で「何言ってんのよ!」とバッサリ切って返すところに、相手の男への「愛情」が感じられるのではないだろうか。しかし、どちらが主導権を握っているかというと、頭が切れる小式部内侍の方である。これを見ると藤原定頼と小式部内侍は、恋仲というよりは「仲の良い悪ガキ仲間」のように、日頃ふざけあって青春を楽しんでいる若者、という図式が見えてくる。ここでは歌の内容はさておいて、丁々発止、当意即妙の掛け合いを楽しみつつ、華やかな一条天皇後宮のサロン的雰囲気を味わう、というのが正しい鑑賞方法だといいたい。この時代は藤原道長の栄華絶頂の直前であり、清少納言や紫式部といった女流文学者が覇を競っていた黄金時代でもある。天皇・貴族・女房達それぞれの人生は、或いは悲しみや不遇に打ちひしがれ、閉塞した環境の中で必死に藻掻いていた時代でもあっただろうが、それでもなお懸命に歌に命をかけた人々がいた、ということに「遠く淡い憧憬」を私は覚えるのである。

このように華やかな世界で浮名を流した小式部内侍だが、この時代に多かった「お産で命を落としてしまった」というのも、華麗な歌詠みの最後としては残酷な結末である。その時、母の和泉式部は、病床のわが子を必死に看病したが、甲斐なく最後を看取ることになった悲しみを、後日歌に読んでいる。自分の死期を悟って母への感謝を伝えた小式部内侍、命を燃やし尽くして消えようとする我が子への、やるせない思いで涙した和泉式部。それぞれが、悲しみの中にも深い愛情あふれる名歌を残している。二人の歌はあえてここでは取り上げないが、人生無常。華やかな宮廷世界の裏には、哀しい物語が表裏一体になって隠されているものだなぁと、しみじみ思う今日この頃である。

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