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明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

私の提言(1)おばあちゃん理論が日本を救う

2021-04-07 18:24:04 | 今日の話題

人類が生き延びていく過程で「死」を成長戦略の一つと捉えていたことは容易に想像がつく。無性生殖から進化して有性生殖による多様性を獲得した人類が、二足歩行から器用な手を活用して武器を発明し、勢力を伸ばして他の生物を圧倒し始めた頃に偶然にも恐竜が死滅したのを契機にして、ついに自然界での食物連鎖の頂点に君臨することになった。つまり餌となる生き物は「取り放題」になったのである。

もし人類がポコポコ子孫を増や続けていたら、あっという間に地球上は「人間だらけ」になって餌の取り合いになるであろう。動物を取り尽くし、食物を育てる土地を開発し尽くして、結局は「増えすぎた人類」が淘汰され、急激な減少の後に一定の数に落ち着くのである。それが餌(獣魚鳥・植物)とそれを管理する奴隷、そして奴隷を武力で押さえつけて「優雅な生活を享受する支配層」という身分構成が生まれた。これは歴史上の過去の話のように思われる方もいるだろうが実は現代でも、これほど明確な区別は表面には出てこないにしても、理屈上は人類発生時から何一つ構造は変わっていない「生存の原理」なのである。

我々は「構造上は」奴隷の身分である。但し、江戸時代よりは相当マシだという意識はある(戦争中に比べれば確実に良い、と言える)。私事で言えば現在は「年金暮らし」なので何の義務もなく、働かなくても月々お手当が入ってくるという「最高の身分」に昇格してしまった(おおっ!)。これは単に健康で長生きしたご褒美である。勿論世間一般に言うところの贅沢は出来ないが、やりたい事は古代史の研究とゴルフのスイング理論の解明、それに「趣味で世の中の諸問題を見事に解決してみせる」という、健康でありさえすれば大してお金が掛からないものばかりである。これを悠々自適と言わずして何と言うのであろう。まあ話を元に戻すとして、たまたま「人はなぜ死ぬのか?」と言うNHKの番組を見たので、それに対する私の考えを述べてみたい。

まず動物というか、生物全般の流れを考えると、人間の数が増えすぎると「地球の生態系」だけでは食べることも住むことも出来なくなる日が必ずやって来るのは確かだ。日本人の「少子化」という問題は世間で何か悪のように論議されているが、これは単に一時的に人口分布が歪になっているだけで、放っておけばそのうち自然と正常な範囲に戻るはずである。だから、何も「有史始まって以来の国難」などと大袈裟に言って必死こく必要はさらさらないのであり、増えすぎたから少し減らそうという、言わば自然界に備わった「調節機構の発現」に過ぎないと考えた方が良い。その証拠に、結婚はするけど子供は一人か二人で良いという若者が増えているという。正しい反応である。

なお、おまけに「LGBTQ」などと言う、生物の論理に反するようなカップル行動までもが「憲法に定められた個人の自由」であると主張されるに至ったのは面白い。私はLGBTQを「やりたい人はやればいい」と思っていて、これに対して財産権や法的権利を認めないと言うのは、確かに憲法上の個人の自由の権利侵害だと思う。こんなカップルは昔から一定数は存在しているのであり、いちいち「めくじら立てる」ほどのびっくりするような変化ではない。だから法的にも認めておけば済むだけのことであり、反対するほどの「たいそうなもん」ではないと私は思うのである。しかしだからと言ってLGBTQが素晴らしいことであるかのように言い立てるのはどうかな、とも思う。やはり生物としての基本的な形態は「男女による子孫繁栄」だというのが正解だ。ただ、ちょっと繁栄しすぎたのである。

繁栄しすぎた民族を食わせていくためには、つまり1億2千万人がこの狭い列島で何不自由なく暮らしていけるようにするには、外交で国の領海を守ることも大事だが、第一に「これ以上人を増やさずに、しかも若年労働人口を確保」しなければならない。我々年金暮らしの老人には頭の痛い話だが、これが真実である。しかし70歳以上は「全て死ぬこと」なんて言うのも過激すぎる(私は死にたくない!)。そうなると次善の策として、今の頭でっかちな人口分布を長い年月をかけて「もっと緩やかに漸減していくモデル」に変えていく必要があるのだ。そのためには出生数を100とした場合、65才までは労働年齢だから「95」ぐらいのまま、殆ど減らないで維持しておきたい。それから65才以上になったら人数を徐々に減らしていきたいので、「自然減」を無理に止めないのが良いと思う(現在の医療体制が余り進歩しないとする)。そして90才を目処に「0」になるような減少カーブが理想である。つまり25年で0となる放物線グラフが、これから日本が目指す「計画的人口曲線」とし、法律で制定して、それを50年後に達成するように「国全体で」努力していくのである。これは、そんなに無理して頑張らなくても楽に生活していけて、老後も楽しく生きることができる「理想の人口分布」ということだ。私が思うに日本の国土と農畜水産業の生産力から算出すれば、ほぼ8000万人ぐらいがちょうど良いのではないだろうか。例えばスウェーデンみたいな、「落ち着いた成熟した国家」を目指すのである。だとすれば、今の出生率で多分大丈夫ということになる。

だが今回のブログの主題は「なぜ死ぬことが人類にとって必要だったのか」ということであった。動物の殆どは、生殖能力が終わると命も尽きると言う。生物は生殖することでより若い「生命力と運動能力に優れた個体」を得る事ができるので、子供を産み続けることが「種の存続の要件」なのである。だから子供を産めない老人は、種にとって「ただ資源を食い潰す有害な存在」でしかない。同じ食料を与えるなら、老人より「働ける壮年」が良いに決まってるではないか。勿論これは江戸時代以前の考え方である。15才から45才までの所謂労働人口は、意識するとしないとに関わらず「奴隷」として最も食料資源効率が良い年齢だ。15才までの幼年は将来労働人口の担い手になってバリバリ働いてもらわなければならないので、支配層にとっては成長に必要な食料は与えなくてはならない。家畜の子供は成年になるまでは大事に育てる理屈である。そのためには育てる人材、つまり「育児要員」が必要になってくる。子育ては将来の労働主体を育成することなので、育児要員は「子孫繁栄には絶対に欠かせない人材」である。昔は夫婦で農作業を営み、力仕事は男が分担して女は育児と家事全般を担当した「夫婦共同作業」の形である。戦後の昭和世代までは男は外に出て働いて金を稼ぎ、女が家に残って「ホームワーク」をするという「専業主婦の労働分業」が確立していた。平成から令和になって男女平等の考え方と、女性の社会進出が「当たり前」になりつつあるようだ。

現代ではややもすると個人の幸福の追求に紛れてしまい、子育ては「ついで」という感じだがこれは時代の要請でどんどん変わってくる部分だろう。今では子育てに加えて、幼稚園から大学まで18年間もかけてやっている「教育という修練」が、一人前の社会人として世に出るまでに必要な条件と考えられているようだ(私は無駄だなぁ、と思うけど)。ところが教育によるスキルの向上には「個人差が大きい」ことが段々分かってきたのである(遅いよ!)。15才から45才までの「生物本来の労働年齢」に必要なスキルを積むのが子育てつまり教育だとすると(今は科学の発達に従って、20才から65才に変化しているが)、卒業後に何を職業にするかによって「教育内容」を変えることがすなわち「教育効率」という観点から見ると「とても大事」になってくる。だからこれからは「高校卒業時」にはある程度人生目標なり職業意識を持って、それに沿った大学選定を行うことが必要になってくる。要するに大学は、目標とする職業に「必要なスキルを得るため」の職業訓練の場として考えることが求められる、というわけだ。そもそも大学生に課せられた一般教養などという社会人としての一般知識、つまり「躾けや礼儀作法、及び法律遵守の観念」などは、すでに高校に入る前に済ませておけ、というのが私の教育理念である(出来ていない若者には苦言であろう!)。大学は実務を学ぶ場であるべきだ。

さて、現代では昔のように働くのに「筋肉は必要ない」職業が増えてきた。勿論、建築作業や土木工事や倉庫配送や警備保障など、まだまだ男の筋力が必要とされる職業は多い。それでも一般のホワイトカラーと呼ばれるデスクワークであれば、男女平等の時代でもあり、男女差はほとんど無いと言っても過言ではない。いやむしろ製造業やサービス業や接客業など、男よりも女性の方が向いている場合が多く見受けられるのだ(接待を伴う飲食業は別である)。まあ男女差は今回考慮に入れないとすると、20才から65才までの「労働年齢」にそれぞれの仕事に就いて精一杯働いたら、あとは年金をもらいながら「余生」を楽しめばいいというのが今回のテーマである。まさに余生だ。

お役御免になった競走馬は種馬として新たな人生(馬生?)を生きることも出来るが、結局は馬主からすれば「あくまで役に立つ奴隷」である。働かなくなった65歳以上の老年は社会からは必要な存在と思われてはいないけれど、だからと言って「ポイ捨て」されるのは腹立たしい。役に立たない奴隷にだって、自由に生きる権利があるというのが「現代の人権思想の成果」である(奴隷でなければ、年齢に関係なく人生を楽しむ事が出来るのだ!)。だから自分で稼いだお金で好きなことしながら邪魔にならないように生きていくのであれば、誰に文句を言われる筋合いはないとも言える。つまり「奴隷解放」である!。これがつい最近まで私が考えていた人生だ。まあ私は裕福な支配者層ではなくて「奴隷」の身分ではあるが、憲法に保障された権利を行使して「自由を満喫」しているというわけである。

では奴隷かそうでないかを見分ける方法はあるか?と問われれば、働かなければ食っていけない人は「奴隷」だと言える。働かなくても食っていける、これこそが「本物の自由」であり「奴隷からの脱却」ということなのだ!(支配層は生まれた時から働く必要がない)。蓋し名言ではないか?

もう一度確認すると、動物は生殖活動が出来なくなると「寿命が尽きて」生命も終わりを迎える。これは自然の摂理である。人間もつい最近まで「人生50年」であった。信長が桶狭間で出陣する前にこのような内容の舞を踊ったとされて有名になった言葉だが、当時彼が50才だったわけではなくて、人生50年の間には一度くらい死を覚悟して出陣することもあって、それが今だなのだ!というほどの意味であろう。江戸時代までは、北斎のように90才をすぎてもなお絵に対する情熱を絶やさなかった人いたが、殆どの人は還暦ぐらいで死んでいたようである。女性が50〜55才くらいで閉経し、男性も人によるが「元気でコピーエラーのない精子」を作れる人は年齢と共に少なくなってくる筈である。ということはほぼ60才から65才以上の年齢の人は「用済み」になっていて、社会的に見ても「いつ死んでもおかしくない」ということになる。これ、不謹慎なように思えるかも知れないが、一応生物学上はそうなのだ。

ところが食べ物が良くなって栄養が足りてきたのか、それとも生活するのにストレスがなくなって病気になる人が減ったのか、とにかく「元気な老人」が増えているのである。本来は30代で産んだ子供達が同じように30代で結婚して孫を産むとしよう。我々が「おじいちゃん・おばあちゃん」になって、孫を見ながら「この子が成人するまでは生きていたい」と願うとすると、ほぼ70才位で孫が産まれて、その孫は90才の時に成人する、という図式が成立する。私のゴルフ仲間の「SN氏やSY氏」などは、ピタリ計算通りに孫が生まれた。これが健康でお金に不自由せず人生を楽しんで生きている「理想の姿」なのだ。お二人の幸せな人生に「乾杯!」。しかし、それにしても少し歳を取り過ぎている。もう少し若い年齢でこのような悠々自適の生活に入れないものだろうか。

ようやく今日のテーマに相応しい「理想の人生設計」が見えてきた。日本人が民族として若々しい活力のある人口構成を保ちながら、尚且つ精一杯働いた後は「豊かで自由な老後を楽しめる」秘策を考えよう。それは以下のように考えると見えてくる。

1、社会に出るのは17歳とする・・・社会全体が若返りを図らなくてはならないから、今のように22歳になって大学を卒業してから新入社員として社会人になる、というのでは遅い。せめて17歳くらいで学問は修了し、早いところ実務に入らなければ「人生を無駄にする」だけである。

2、子供を産むのは25歳が最適・・・生物学的には20歳ぐらいがベストだろうがそれは余りにも本人達の心情を無視しているであろう。だから一応、18歳から28歳までの間に子供を産む、としておこう。昔は炊事・洗濯・掃除・風呂から近所付き合いまで、全ての家事をこなして子育てまでやったものである。思えば母は偉かった。しかし、どんなに偉くとも男よりまだ下の最下層の奴隷であることには変わりはない。現代では、自分の食い扶持は自分で稼ぐのが当たり前だ。だから例え25歳で子供を産んだとしても、個人としては働き続ける必要があるし、自由に生活を楽しむことを諦めなくてもいい。若いうちにしか出来ない人生を子供のために犠牲にしたくない、というのが少子化の一要因であることは間違いない。では、どうするか。

3、そこでおじいちゃん・おばあちゃんの登場である・・・25歳で子供を産んだとすると、その子供達はまた25歳で孫を産む。祖父母は50歳だ。まだまだ働かなくては困る。新しい人生設計では、人々は「還暦過ぎて65歳で仕事を譲る」ことになる。だから曽祖父母の年代、つまり75歳のおじいちゃん・おばあちゃんが中心になって「生まれてくる曾孫=ひ孫」の子育てをする役目を担うのである。勿論、体力的なハンデがあるから本来の祖父母世代(=50代)も共同で世話をし、親世代も仕事を終えた時間帯や土日などの休日には思いっきりスキンシップを楽しんで親子の関係を充実させれば良いのではないか。言うなれば「4世代」に渡っての子育てである。

4、親は子供に過度の期待をしない・・・昔の支配層の子供、つまり将来の支配者となる子供は「英才教育」をした。それでも当然「出来不出来」がでてくるから、いっぱい作ってその中から優秀なものを選んで「殿様」にしたのである。今は一夫一婦制であるから、沢山作っておいてその中から選ぶ、といったリスクヘッジは出来ない。だから「自分の子」が優秀な人間になることなどは鼻から「諦めたておいた方がいい」のである。自分の子がどうしようも無いグータラで20歳になっても家でゴロゴロしているのに、隣の貧乏人の子の方が「若いうちからバリバリ仕事をこなす成功者」になることも、当然だがあり得るのである。これはもう生物の多様性と諦めて、「そういうもんだ」と観念するしか無いだろう。もはや「家」の観念は過去のものである。社長の子が犯罪者になって、平社員の子が「発明王」になっても何の不思議もない。それが民族としての力である。

5、では子育てとは何なのか?・・・真っ当で心根の正直な国民を育てあげる「国民の義務」である。オギャーと生まれて20歳で働き始め、65歳で年金生活に入り、そして75歳から「ひ孫を育てる」ことで国民としての「国家の維持」に対する義務を果たしたことになる。その後の15年間は、これこそ本当の意味での「余生」である。それから死ぬまでは初めて全ての義務から解放されて「本当の自分になり、自由奔放に生きる」ことが出来ると思う。まあ、「健康でいたら」の話だが・・・。

以上である。要するに25歳で産んだ子は曽祖父母に育てられ、食事の世話から学校の父兄参観まで全部の細々とした面倒を見るのである。これなら若い世代で子供を産んだ親も子育てを曽祖父母に預けることが出来て、もっと人生を楽しめると思うのだがどうだろう。この計画を予定通りに機能させるためには、歳をとって曽祖父母が「認知症になって介護ベッドに寝たきり」というのでは根本から全てが台無しである。少なくとも80歳くらいまでは元気でいてもらわなくては困る。子育てを任せるはずが、逆に介護で二重の苦労を背負わせられるのでは「たまったもんではない」だろう。遅かれ早かれ認知症になるのは脳機能の衰えだからある意味仕方がないが、少なくとも90歳くらいまでは元気で自分の足で歩きたいものである。そのための医学であり、病気にならないための健康法ではないだろうか。逆に言えば、散々体に悪いことをしてきた挙句に先進医療で何とか生きながらえている、といった生き方は「コストがかかりすぎる」のである。現代における日本人の医療費・介護費など社会保障費用の国民に対する負担額は今や恐ろしい金額になっているという。タバコなどもそうだが「こうすればこうなる」という意味では、「生活習慣病」と言われる病気などは一律に健康保険料をアップしても構わないのではないだろうか。またまた脱線した。

要するに25歳で子育てというのは、「余りにも女性の負担が大きい」のである。25歳で子供を産む場合、親世代は50歳だから働き盛りで手伝うというのは難しい。そこで「75歳のひいおじいちゃん・ひいおばあちゃん世代」が面倒を見るのが八方丸く収まる秘策である。勿論現代のように30代後半で第一子を出産という計算もある。そうすれば祖父母世代は70歳前後であるから、子育てをするには体力的にもまだ余力がある。全部の年齢が後ろにずれていくといった「こうした傾向」はしょうがないかも知れないが、そのせいで民族全体の「中心年齢」が後ろにずれていくのは必然の結果である。そのために民族としての「若さ」が失われるのはちょっと勿体ない。やはり25歳もしくは20歳くらいで産んでいくのが理想だと申し上げたい。

25歳の女性は出産後3ヶ月から半年の「子育て休暇」を取って保育に専念し、その後は現役の仕事に戻ってバリバリ社会人として応力を発揮してもらう。そして、何も働かなくて良い「曽祖父母」が中心になって、子供の面倒を見るのがいい。勿論仕事が終われば両親が交代して、たまには祖父母もそこに参加するのが良いだろう。男女が4人で2組夫婦が生まれるとする。その4人からそれぞれ2人ずつ4人の子が生まれて、また2組のカップルが出来て孫が4人産まれていく、というのが理想である。これは平均的日本人の出産モデルであり、実際は多少増減があって然るべきであろう。丙午などという馬鹿げた民間信仰も未だにあるみたいだから、それを考慮しても一旦8千万人位に落ち着いたらこの計画に従って、国民を維持するのがいいと思う。この考えが未来の日本人像になってくれると良いのだが。

おまけ:子供は女性の側の曽祖父母が育てる・・・これは母方の家で育てるということで、古来日本人の伝統的な考え方である。男は平安時代では通い婚だったというし、鎌倉・室町を通じて母方の外戚が力を持っていた。これは取りも直さず「育った環境が人を決定する」理屈である。私の計画通り曽祖父母が子供の育児を担当すれば、自然と子供は「曽祖母の家」に懐いてくる。女から女へと面々と引き継がれていくDNAの連鎖を思えば、女性家系というのは民族の理想ではないだろうか。男のDNAは時折必要となる「多様性の確保」程度の重みしかないのである。不動産などの資産は全て「女性」が相続し、母親から娘へと繋いでいくことで「男女の格差を無くす」というメリットもある。現代においては暴力で女性を狙う犯罪が後を絶たないことを鑑みれば、男の成功は個人の達成したもので「一代のもの」とし、女の成功は家の存続という考えで「末代までのもの」とするのが、バランスの取れた良い風習だと私は考える。何より男が、何もかも全部取っちゃうのはやはり「やり過ぎ」だろう。これでは民族は、長続きしないと思う。・・・そう思いませんか?


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