明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

久しぶりにクラシックを聞いてみた(前編)ポゴレリチ、チョ・ソンジン、そしてポリーニ

2020-04-05 19:48:36 | 芸術・読書・外国語
という訳で、今日も家の中籠り人生を謳歌する方法を考えてみた。勿論、読書は最高の娯楽である。だが求めている本に出会えなければ、読書は単なる退屈な暇つぶしでしか無い。では映画はどうかというと面白いのは面白いが、見終わった後に感じる「日常とのギャップ」が激しくて、折角昂まった「心理的高揚が一気に落ち込んで」しまって逆効果である。やはり最後の瞬間を最高度に充実させるためには、今ある現実を豊かにする事なくして、本当の意味での人生を謳歌することにはならないのだ(ちょっと偉そう・・・)。そこで選んだのが「肉体強化エクササイズ」か「後々まで余韻が残る芸術鑑賞」の二択である。これが最後という時に肉体強化して何になる?と言う人もいるだろうが、せめて美しく人生を終わるとしたら「肉体強化に行き着く」のでは?。そうは言っても私はとても肉体強化するほどナルシストではないので、今日はこのうち「芸術鑑賞=クラシック」を選無ことにする。で、以下に挙げる演奏家は、たまたまCSなどからテレビ録画しておいた番組を中心にして、勝手に私が選んだものである。特別人気がある人ばかりではないが、それぞれの演奏を聞いて何を感じどう思ったか、拙い文章ではあるが「感想」を交えて「ソリスト評」を書いてみたい。

1、イーヴォ・ポゴレリチのショパンソナタ第2番第3番
何と言っても驚くのは、実に軽やかに動く指である。やや手首を立て気味にしたポジションで、ピアノソナタ第2番の最初の速いパッセージを「鍵盤に触るか触らないかの微妙なタッチ」でアッという間に弾き切るや否や、一転してゆったりとした重々しい主旋律を奏でてゆく様は、それだけで音楽の中に引き込まれてしまう。見事なまでのリズム感の切り替えである。とにかくポゴレリチは手が大きい。ユーゴスラヴィアのベオグラード生まれだから、ウクライナ生まれのスヴャトスラフ・リヒテルと距離的には近いようだが、何か背負っている文化が似通っている印象を受けるのは、単に私の個人的な想像にすぎない。演奏は超絶テクニックもさることながら、それを感じさせない「作曲家内面の奥深い部分に沈潜するかのような哲学的な瞑想」が全面に現れていて、聞くものをまさに「沈黙の恍惚」の世界へ誘ってくれる。特にショパンのピアノソナタ第3番は、ショパンのピアノ曲の中でも「私の大好きな作品」だが、定番のポリーニに比べてポゴレリチの演奏は「それに負けず劣らず」素晴らしい出来と言える。私が聞いたのは髪の毛がフサフサしている頃の若い映像だが、歳を重ねた円熟期の演奏はどうなのかと YouTubeで探してみたら、なかなか思い通りの映像が見つからない。やはりレコードで探すしかなさそうである。それにしてもポゴレリチの演奏する音「一つ一つに込めた」音楽的感情の「大きさ・重さ・そして深さ」には、改めて凄いなぁと驚いた次第である。やはりポゴレリチの並外れた個性、只者ではないピアニストである。ちなみにこの映像のほかに「奈良の古寺」にポゴレリチがやってきて演奏してる映像ががあったように記憶しているが、どうしたことが私のレコーダーに「保存されてない」のだ。何という事!。多分、大したことないと思ったんだろうが、惜しいことをした。いくら好きなピアニストであっても、楽曲との相性ってもんがあるから曲目が気に入らなかったんだろう。ポゴレリチ最高の出来!って言われても、曲がムソルグスキーじゃあねぇ・・・。

2、チョ・ソンジンのショパンソナタ第2番
たまたまショパンコンクールのエントリー者全員を、予選から優勝まで、連夜に渡ってCSで映像を流していたので録画しておいたものである。彼の演奏は、一言で言えば「優等生」だ。丹念に楽譜をなぞる弾き方は、好感が持てる。ただ表現に今ひとつメリハリというか、ポゴレリチに見られるような「旋律を際立たせる優雅さ」が足りない気がする。余裕が感じられないと言ったほうがいいだろうか。これは若さによるというよりは、本人の資質の問題だろう。東洋人は何にしても「体に染み付いた伝統」がない。ポゴレリチとの比較で申し訳ないが、音の強弱はまだしも、「旋律を前面に出し、リズムの変化で表情を変える」ことがまだまだ出来ていない。強弱に関して言えば、ワルシャワのショパンコンクール会場は、ピアノソロにはちょっと大きすぎるかも知れないのが仇となった。ポゴレリチの使った古い教会風のサロンなんかのほうが、音響的には優れているように思う。いずれにしても生涯一度のコンクールである。緊張は極度のものがあるだろう。音楽自体は見かけや名前で変わるものではないと思うが、そこは凡夫の浅ましさ、これから登竜門を駆け上っていく若手を見る目はどうしても「巨匠」と比べれば、「厳しくチェックする」ことになるのは仕方がない。どちらにしても曲の解釈というか、「演奏全体が浅い」のは否めないであろう。「いっぱいいっぱい」って感じ。まだまだショパンを弾くには経験が足らないようだ。

テクニックは並み居る世界の芸達者の中でも全く引けを取らないところは流石優勝者だけのことはある。2次予選で弾いたスケルツォ第二番のように、華麗で大向こうを唸らせる煌びやかな作品では、彼のテクニックとパフォーマンスが活きてくる。これらの魅せる楽曲では「イケイケドンドン」で弾きまくればいいのだからある意味簡単なのだ。だがソナタのような「重くて深い」作品に向かい合った時、若さが弱さとなって「目の前に立ち塞がって」来るのである。このような難曲では「ごくごく細部の音形に渡って」タッチや強弱やタイミングを変えていかなくてはならない、しかも「恐ろしいスピードの中で」行わなくてはならないのだ。多分習いたての初心者ならいざしらず、ショパンコンクールに出ようというピアニストは皆「各国で一番上手い」人たちなのである。言うならばオリンピックで100m決勝に出るファイナリスト「8人」なのだ。それでもテープを切る時には「2、3m」もの差がついてしまう。それくらい「超人」でなければクラシック界では生き残れないのである。その超人たちの中でも飛び抜けて「頂点」に立つのが、「ポリーニとアルゲリッチ」であることは誰しも異論はないであろう。チョ・ソンジンはこれからのピアニストである。温かく見守って行こうではないか。彼は優勝後日本にも演奏に来たそうである。私は残念ながら聞きそびれたが、日韓関係が悪化する中、こういう才能を拒絶するようでは日本の将来も大したものじゃないような・・・。それはそうとショパンコンクール2020は開催されるのかな?。そろそろ第一次予選が始まる時期だけどねぇ。

3、マウリツィオ・ポリーニのショパンソナタ第2番第3番(レコード録音)
これはスマホに入れてある音源で、昔私が持っていた1984年録音のドイツ・グラモフォン版だ。何を隠そう、最初にこれを聞いた時、矢も盾もたまらず「これだ!、これこそ最高のショパンだ!」と叫んでしまったのだ。勿論心のなかで、である。とにかくポリーニはリズムとタイミングが完璧で、ピアニストとしてのテクニックも難しいパッセージを物ともせず、メランコリックな優美なメロディも、期待を盛り上げる上昇下降の圧倒的な音形の連続も、何もかもが完璧なのである。誰かの演奏でショパンのピアノ曲を聞くとしたなら、私は迷わずポリーニを選ぶだろう。だが聞き終わって何かが足りない。そう、あの「感情の大波にさらわれて、無限の大海に呑み込まれる」ような揺さぶられる感動が、彼の演奏には「無い」のである。ポゴレリチにはハッキリとどことは言えないが、聞き終わった時に「確かに心に残る、何か得体のしれない脈動」が感じられた。ポリーニには、それが無い。2009年にバッハの平均律を弾いた時もそう思ったし、世間の評判も余り良くなかったと記憶している。だがポリーニの平均律は一時的な感動はやや薄いかも知れないが、くり返し聞くうちに「段々と心地良く」なり、最後には「壮大なバッハの宇宙観」に取り込まれて「自己の存在が消え去ってゆく感覚」に包まれるのだ。音楽を聞いているのに音楽を超えた世界に浸ると言おうか、無機質な鍵盤の煌めきの「その上に」、ポリーニは何かを見ている筈なのだ。

それが何であるかは、残念ながら私には分からない。ただポリーニがショパンを弾く時には、ショパンとショパンを弾く自分とその全てを上から見下ろしている「神の視座」を想定している、と私は考えている。彼と同じようなタイプのピアニストは沢山いるだろうが、テクニックの限界から「その視座を保てない」のだ。ちょっとでも演奏上でミスタッチやタイミングの狂いが出た途端に、聴衆は思いがけなく我に返ってしまい、あの宇宙空間を漂っている「夢遊状態」から、一気に現実に引き戻されてしまう。ポリーニは完璧なのだ。ここでアタックが欲しい!、という絶妙の瞬間を「見事なまでの一撃」で打ち抜き、聴衆を完全に魅了するのである。私はポリーニは感情移入が足らない、とは思ってはいない。ポリーニがまだコンクールで優勝して間もない頃に、アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリの教えを請いにいったことがあって、その時にABMが彼に言った言葉が「君にはもう教えることはないようだ」だったそうだ(私の記憶です)。これは勿論ポリーニの完成されたテクニックを褒めてのエピソードと一般的には受け取れるだろう。だが同じようなピアノの巨人であるスヴャトスラフ・リヒテルは、彼の演奏を評して「つまらない音楽だ」と言ったそうだ(と記憶しているが出典は忘れてしまった)。年を取ってからポリーニは深みを増したという人もいるが、機械的で面白くないと「切って捨てる人」も多いと聞く。しかしピアノのテクニックを超えた所にある「理想郷」に遊ぶ感覚は、ポリーニの超絶技巧があって初めて味わえる「至福の時」であろう。

感情豊かな演奏は確かに音楽の持つ魔力を存分に楽しませてくれる。だが聴衆がいつもの日常に戻った時、それは泡沫のように消えていくしかないのだ。ポリーニの音楽は逆である。日常に疲れた時、人々はいつもの教会に集まるように、社会の絶え間ない戦いで負った傷を癒やしてくれる「神の愛」のような、戻って行くべき安住の場所が「ポリーニの音楽」なのだ。私の録画リストに、ベーム指揮のウィーンフィルとモーツァルト19番を弾いている映像がある。これが私にとって何か疲れた時に「心が癒やされる一曲」となっていることは、彼の音楽性と無関係ではないだろう(それにしても、やはりモーツァルトは最高だよね)。ついでに私が好きなピアニストを挙げるとするならば、ルドルフ・ゼルキン、クラウディオ・アラウ、ヴィルヘルム・バックハウス、ABM、スヴャトスラフ・リヒテル、アレクシス・ワイセンベルク、そしてマウリツィオ・ポリーニ、である。・・・何だか、自分の買ったレコードと同じメンバーじゃないか?(てへへっ)。ちなみに最近CSに良く出てくるバレンボイムとかアンドラーシュ・シフとかは全く聞きたいとは思わないので、ご承知おき下さい。何を隠そうクラシックファンは、今や「全員オタクと思って間違いない」のでした(マジです)。実はクラシックファンにとって「一番話が合わない」のがクラシックファンだというパラドクス、これ普通の人に信じてもらえるかな?、

最新の画像もっと見る

コメントを投稿