明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

(木)古代史刑事(デカ)柚月一歩の謎解きは晩酌の後で(22)一条このみ「万葉の虹」を読み直す(その7)白村江海戦・後編

2021-01-28 18:57:29 | 歴史・旅行

2、白村江の海戦

白鳳3年(663年)2月、新羅軍は避城の南に攻め込み1700余の首級をあげた。歴史の頁はいよいよ最後の戦闘へとなだれ込んでいく。知らせを受けた倭国は3月19日、2万7千の軍勢を急派する。前将軍は上毛野君稚子・間人連大蓋、中将軍は巨勢神前臣訳語・三輪君根麻呂、後将軍は安倍引田臣比羅夫・大宅臣鎌柄である。ところが書紀はこの大軍がその後どうなったか、一切書いてない。結局、余豊璋は周留城に戻ったが福信とは溝が出来てしまい、後に福信が謀反を起こすが逆に殺されてしまう。そんな百済再興軍だが、8月13日には新羅の満を持した侵攻が周留城に迫る。倭国からも救援将軍蘆原君臣の400艘をこえる船団が海を渡り、余豊璋は白村江まで出迎えた。17日、新羅と唐の連合軍が周留城を取り囲み、27日には唐の軍船170艘が展開する白村江の河口に、倭国軍400艘も到着する。すぐさま第一軍が突入したが、破れて退いた。これが白村江海戦の始まりである。

翌日唐軍の中を目掛けて攻め込んだ倭国軍は敵軍の堅い防御と海流に阻まれて、ついに身動き取れないまま全軍火の海に飲み込まれて壊滅した。余豊璋は船で逃げ、秦造田来津は討ち死にして、生き残った兵士は周留城の王族子女や百済残兵と共に、唐に捕虜として連行されてしまった。これが白村江海戦の顛末である。ところが3月に出兵した2万7千の将兵については、書紀・唐・新羅共に消息を何も書いていない。

まず、鬼室福信が倭国へ使者を送った日の記述が、660年10月と661年4月に重複して載っている。前回の「白村江前夜」で説明したように、その使者に答えて余豊璋を送る記述も、661年9月と662年5月と2回重複して書いているのだ。この662年5月の記事では、大将軍・大錦中安曇比羅夫が「大錦中」という位にあるように書かれているが、この位は「二年後に天智天皇が作った冠位」であり、年代に錯誤が見られると一条氏は指摘する。またこの大錦中とは「上から7番目」の低い位であり、百済国王に位を授けたり鬼室福信の肩を撫でさすることなどは「あり得ない」と言う。辻褄を色々と考証すると、この送り出しの記事は661年9月が正しいようである。なぜなら同月に「倭王が吉野に行幸している」からだ(これは一条氏の説による)。倭王は吉野から余豊璋を送り出している・・・と一条氏は書いている。国を挙げての戦闘に軍を送るのであるから、それを王が閲兵するのは納得が行くのだ。この閲兵は書紀の描いている「斉明天皇」などの記事にはない。私が思うに、この時倭国の軍船団は、どうやら「有明海から出港」しているようである。つまり倭国の主要部分・首都機能は博多湾岸・太宰府から、筑後川一帯の「久留米・佐賀」あたりに移っていたのではないだろうか。もしそうであるなら、倭国軍が有明海から出港するというのも頷ける。これは「倭国の実情」を考える上で非常に重要である。何だか「壬申の乱は九州で起きた」というのも満更ではなく思えてくる新しい見方で、真実味が出てきたようで嬉しい。

そして天智二年(663年)3月、追加で2万7千の軍勢を送ったが、その後の消息は書紀にはない。書紀の記述は無いが、万葉集199番歌・高市皇子尊の城上の殯宮の時に柿本人麿の作る歌、として載っている歌が「謎を解き明かす」決め手になった、と一条氏は書く。これも古田武彦大魔王が発見した「古代史の真実」である。彼が古代史に果たした前人未到の功績は称賛するに計り知れない(おっと脇道に逸れてしまった)。この歌は、実は壬申の乱の時の高市皇子の活躍を歌った歌ではなく、倭国の皇子が「百済の原に葬られた悲しみを歌った挽歌」だ、というのである。その皇子とは、万葉集に出てくる悲劇の皇子「明日香皇子」である。皇子は狛(百済)の倭蹔ヶ原で戦死し、殯宮で葬送、城邉(九州下座郡)の常宮に葬られて、最後は「麻氐良布神社」に祀られた。この明日香皇子の名の由来となった明日香河は、大和の甘樫丘の脇を「チョロチョロと流れている」小川などではなく、レッキとした大河・暴れ河だと言う(現在、宝満川として甘木と鳥栖・小郡の辺りを流れて筑後川へと注いでいる)。この199番歌は万葉集最大の長編であり、歌聖人麿の気迫の隠った大作だそうだ。ここでも書紀は高市皇子の話として流用・改竄しているのである。これは知らなかったというのではなく、「意図的な改竄」と言える。書紀編纂者は歴史事実として「ある範囲で」この白村江の海戦を描こうとしているが、どうしても「九州」と言うワードは消したかったとしか言いようがない。それが「万葉集」と言う別資料から明らかになってしまったのだ。万葉集は「高市皇子の挽歌」として扱っているが、実は色々と「内容に齟齬が出てきている」のである。むしろ「そういう不整合をそのまま載せること」で真実を炙り出しているかのようである。

さらに、万葉集3329番の挽歌に「9月の決戦」が偲ばれている。663年8月13日の条に、余豊璋が「大日本国軍万余」が海を越えてやってくるから「我自ら白村江で待ち饗へむ」と言ったとある。この時、既に倭国は自分たちを「大日本国」と称していたというのだ(何と言うことか!)。日本という呼称が倭国自身の発案というのはチョー驚きである。まあそれはそれとして、3329番の夫は出征後8月28日の白村江大海戦に破れ、戦死したのであろう。9月7日に周留城は陥落した。3月に2万7千の大軍を送り出した倭王は、多分「その後の戦況」の報告を逐一受けていて、ついに乾坤一擲「最後の大勝負」に挑んだのではないだろうか。書紀の書き方では天智天皇は出征せず、近江大津宮で自国防衛に腐心したことになっている。実際は倭王サチヤマが万余の精鋭を引き連れて臨んだ白村江だが、強大な唐軍の前に敢えなく屈し、亡国の憂き目を見たのであった。潮流と風向きを読み間違って4回戦い4回負けたとあるから完敗である。それにしても陸の王者・唐と戦って完敗するとは、海戦には慣れているはずの「島国」倭国軍らしからぬ戦いぶりではないか?。この完敗には「何か裏がある」と思うのも無理はない(私はそうでもないが)。そこで荒山徹の小説「白村江」が注目を浴びているのだ。とても人気があるらしく、図書館でも貸出中で予約待ちである。いち早く読んだ友人のSN氏によれば、面白くて一気呵成に読み進み「あっという間に」読み切ってしまったそうだ。70歳過ぎてこの読書力!、見上げたもんだと感心した。私など、読んでいると目がショボショボして来て「せいぜい1時間」が限度だというのに、である。若さというのは「こういう所に現れるんだなぁ」と、慨嘆頻りだった。古代史を勉強する人間としては、読書力というのは「若さ」の象徴である!

さて話を戻すと、この白村江大海戦で「サチヤマ」は捕虜になって唐に連れて行かれ、倭国は「てんやわんや」のコントロール不能の事態に陥ったのではないかと思われる。では倭国側はこの間何をしていたのか、まず「斉明天皇の行動」から解明して行こうと思う。どうも書紀の書き方は「どこか他人事」のように思えるのだが、この戦いは大和朝廷が「当事者では無いですよ」と言っているようである。要は、百済の戦いに引きずられて已むなく出兵したが「本気じゃ無かったんです」式の言い訳とも取れる書き方だ。その後、唐の郭務悰らが船団を組んで博多に来た時も「敗戦国」としての態度ではなく、対等の外交と描いているのが特徴だ。では実際はどうだったのか、次回は来週の木曜日「幻の斉明天皇」と題してお届けしようと計画中です。お楽しみに。


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