明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

私の選ぶ新百人一首(5)三条院

2023-11-29 15:56:00 | 芸術・読書・外国語
第5位 心にも あらで憂き世に ながらえば
    恋しかるべき 夜半の月かな

三条天皇は村上・冷泉・円融・花山という、世の中が末法思想で一色となった平安中期の天皇である。三条天皇の外戚は藤原兼家だが、此の頃は藤原氏の権力基盤も確立し始めていて、安和の変などで左大臣源高明が太宰権の帥に左遷されたりと藤原色が強くなり、藤原氏内部の闘争が激化し始めた頃でもある。最初は兄の関白兼通から疎まれて政権中枢から退けられていた兼家だが、兄弟の仲の悪さは兼通が重病に陥った時、見舞いもせずに兼通の家の前を通り過ぎたという異例のエピソードが残っている程であったという。兼家は上昇志向の強い男で、策略家という印象があり私は好きではないが、とにかくトラブルメイカーなのは間違いない。この辺は藤原氏の「悪い方のDNA」だと私は思っている。とにかく天皇の力はどんどん弱くなって名目だけの存在になり、外戚の藤原氏が権力を握って政界を牛耳る方向に時代は進んでいった。

天皇位は冷泉の次に円融が継ぎ、冷泉の息子の花山の次は、円融の息子の一条が天皇位を継ぐといった風に、皇位は冷泉系と円融系とで両統迭立がはかられた。冷泉天皇と兼家の娘の女御超子との間に生まれた三条天皇は、父の冷泉天皇が精神病を患っていたため外祖父兼家が実質的な後見となり、兼家の強力な後押しもあって一条天皇の東宮になる。兼家の系統は政権をほぼ手中に収めていて、政治は長子道隆が切り盛りしていこうという状況だ。兼家にしてみれば冷泉・円融の両方に娘を入れており、両統迭立はどちらでも良かった筈だが、このころは次第に、冷泉系に肩入れしたようである。長兄の藤原伊尹から次兄の兼通に渡った権力は、兼通死去のあと頼忠そして義懐と移っていたが、花山天皇が兼家の策略で出家させられた事から、兼家は政界中枢に返り咲き、ようやく長年の夢であった摂政となって同時に氏の長者にもなった。此の頃から兼家の権力への執着は激しくなり、弁官をすべて自分派閥に差し替えるなどの強引なやり方も目立ってくる。つまり、兼家のやりたい放題である。永祚元年に長男・道隆を内大臣に据え、自らは太政大臣に就任して、翌年には関白に任ぜられるが3日で道隆に関白位を譲り、自分は出家する。そうやって自分の家系を政権中枢に押し上げたのち、まもなく病没した。享年62。願いが叶った人生だったと言えよう。

こうして長々と当時の政界事情を書いたのは、居貞親王(三条天皇)が置かれた時代というものを、よりよく理解するためである。一条天皇の後宮には、清少納言や紫式部という一代の才女が筆を競っていて、平安文化が最高に華やかなりし時でもあった。一条天皇が崩御して三条天皇が即位し、東宮には中宮彰子の子の敦成親王が立つ。此の頃には疫病が流行ってライバルが次々と倒れ、辛くも何を逃れた道長の時代が来ようとしていた。そんな中で仙丹という薬の服用で眼病を患った三条天皇は、そのせいで道長からしきりに譲位を迫られ、息子の敦明親王の立太子を条件に敦成親王に皇位を譲ったのである。敦成親王(後一条天皇)に譲位して太上天皇となった後、翌年に出家。程なく42歳で崩御した。この譲位の時に詠んだとされるのが、今回の歌である。一粒種の敦明親王は、後に道長の執拗な嫌がらせに遭って、東宮辞退に追い込まれている。三条院がこの事実を知る前に世を去ったのは、不遇な彼の人生への「せめてもの慰め」であった。

この歌は、何と言っても上の句と下の句のギャップが素晴らしく、疎外された孤独な心を揺さぶる「名歌」である。第4節の「恋しかるべき」は、古語的にはどういう意味なのか不勉強でまだ知らないのだが、私は「手の届かないところにあるものへの限りない憧れ」を表していると思っている。周囲の醜い政権争いの真っ只中に生まれて、何も知らないうちにその抗争に巻き込まれてしまった幼い天皇。その無力な天皇が成長してようやく自己のアイデンティティを理解し、政治になにがしかの足跡を残そうとしたその矢先、服用した薬の副作用で失明してしまったという悲劇、運命の悪戯である。道長からの圧力で譲位という不如意な人生を送らねばならなかった三条天皇は、その無念の人生を振り返って「恋しかるべき」と歌ったのではないだろうか。

「心にもあらで」という歌い出しは、三条天皇の本心であり、純粋な気持ちであったと思いたい。東宮時代から道長派閥ではない別系統の藤原済時の娘・娍子を皇后としており、道長に押し付けられた娘・研子を中宮として二后並立とした。一条天皇も定子と彰子の二后並立で、道長の権勢が強まっていく中、二人の天皇が何とか「抵抗している」のは、せめてもの彼らの自己主張だと思う。もし三条天皇が失明などにならなくて、色々策略を巡らすタイプのやり手だったとしたら、道長政権もあそこまで独占状態にはならなかったと思うのだが、歴史にIFは禁物である。

これは私の想像だが、初冬の、空気が冷え込み始めた頃に夜眠れなくてふとベランダに出て、見上げる空に雲ひとつ無く輝き渡る明るい月を見上げる時、無性に胸の内に込み上げてくる切ない感情が、この歌の描き出しているものだと思う。三条院は、じっと無言で月を眺めているうちに、心の中の叫びを抑えられなくなり、ついつい思いの丈を吐露したのではないだろうか。勿論、三条院は眼病を患って失明していた筈だから、どんなに明るくても彼の目には「さぞかし美しいであろう月の姿」は、見ることは出来ない。だから「恋しかるべき」なのである。

譲位を決断するまでに、相当の逡巡・葛藤が三条院の脳裏をよぎったことは疑い得ない。せめて敦明親王を東宮にすることで自らを無理やり納得させ、全ての望みを我が子に託して、政治の世界から身を引いたのである。上の句は、これと言って特別に何かの感動を与えるほどの内容や技巧があるわけではない 。下の句も、時間軸を取って「月の変わらぬ輝き」を歌って自分の人生を嘆いたり、人事の醜い争いを描いて「汚れなき月の美しさ」を歌うことも出来よう。それらは、自らと月とを対等のものとして、「月よ、お前はこうこうであるが、それに比べて私は云々」という構成の歌になる。嘆きや愚痴を「物いはぬ月」に託した歌は他にも数限りなくあって、余程の出来でなければ「これ程のインパクト」は与えられなかっただろう。

三条院の心は飢えていたのだ。それは自分が愛すべき女性、守るべき女性であり、しかも手の届かない高い所にある高貴な女性を象徴するのではなく(三条院は自分より高貴な・・という感情は持っていなかったろう)、私はその対象は「自分を守ってくれるべき母親」であり、権力基盤で言うならば「外祖父」役の兼家・道隆であったろうと思っている。三条院より精神的にも強く社会的にも老獪で、迷える彼をしっかりと支えてくれる存在、それが「恋しかるべき」の意味ではないだろうか。その守ってくれるべき存在が「もうこの世にいない」という丸裸の疎外感を感じ、茫漠たる夜の空にポツンとかかる月の美しい姿に、声を出して叫ばずにはいられないのである。何と言って三条院は、月に想いを伝えたのであろうか・・・。

それは今となっては、誰にも分からないのである。あるいは声には出さずに、その「つのる想い」だけを心の内に一杯に溜め込んで、物言わぬ月の光に独り涙した、そのようにも私は考えたい。最後の「〜かな」と詠嘆調に留めたあたりに、流れる涙を拭き取って、自己の境遇を改めてしっかりと受け止めた男の、「ロマンチックな諦念」を感じるのである。全ては世の中の、怒涛のような流れなのだ。そう三条院は諦めた上で、恋しかる「べき」夜半の月と表現した。守ってくれる「べき」存在の母は、残念なことに自分の事を守ることは出来なかった。そうある「べき」ことが、世の中の偶発的な出来事が重なって、誰のせいでもないのに「守ることができなかった」のである。「そうじゃないですか?」と問いかける三条院の心には、もう責任を問い詰めるような気持ちは消えていると思いたい。ただ全てを受け入れて諦めた心には、澄み切った夜空ときらきらと輝く静かな満月が見えていた。

恋す「べき」ではなく恋し「かるべき」夜半の月。それは個人の力ではどうにもならない世の中の争いごとにあって、「母もまた」守るべき役目を果たすことが出来なかった。それでもなお、彼にとっては「頼るものはただ一人、貴方だけ」なのである。彼もまた人生が過去形の中に埋没していくのを黙って見ているしかなかったのだ。何を言っても「詮無いこと」と集約される今、彼は「恋しかるべき」と、月に役割の一端を担うように求める。物言わぬ見えない月に向かって・・・。

以上は、私が三条院の「たった一つ残された歌」に込められた真摯な想いを、私なりに解釈したものである。なお、三条院というのは後世追贈された院号だが、宮内庁は大正時代に何をトチ狂ったか、院号を廃止して、もとの三条天皇の呼称に戻してしまった。理由はよくわからないが、宮内庁が未だに「あの平安朝の豪華絢爛な宮廷文化」の勢いのまま、重々しく役目を執行していると勘違いしているのなら、言語道断も甚だしいと私は強く言いたい。君たち有象無象の低級公務員の連中に、三条院から院号を取り上げる権限など「金輪際有り得ない」と思い知れ!、この身の程知らずがぁ!!

・・・と、柄にもなく興奮して下品な言葉を投げつけてしまったが、私の「三条院への共感」がそういう激しい怒りを導いているのだとしたら、それも已む無しである。この歌、技術的には見るものはないが、「恋しかるべき」の一言で、燦然と輝く名歌となった。この評価の高さを持って、三条院の浄土での冥福を祈る献花としたい。


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