明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

人生の3大発見その1:魂の行方・前編

2024-02-28 16:46:00 | 私の意見

1、問題の自覚
若い頃、死ぬことは「眠っている」のと同じだと考えていた。だが、もし眠っているのだとして、自分が死んだあと、無意識の状態がずっと続いたままで「永遠に目覚めない」ことに言い知れぬ恐怖を覚えるようになった。つまり私にとって、「自分という存在が、世界からたった独りで取り残される」ことを、どうにも受け入れることが出来なかったのである。自分が死ぬということは、「世界から見捨てられる」ことに他ならない。そのあとは「永遠に暗黒の無の中を漂う」魂だけが残る。何百億年経っても何も起きないし、私自身は消滅したまま目覚めることは決して無いと思うと、考えれば考えるほどに居ても立ってもいられなかったのだ。その頃から「魂というもの」の存在問題に興味を持つようになったのだ。私は、世の中に流布している魂の説明に、徐々に疑問を持ち始めたのである。もし人々が信じているように、肉体が滅びても魂が残っているとしたら、その魂は本当はいったいどうなるのだろうか。よく、人間は死んだら何処に行くのか?、という定番の質問がある。宗教の世界では、天国や浄土に行って皆んなと幸せな生活を送る事になっているそうだが、そんな話を真に受けるほどの「阿呆じゃない」私は、より科学的なアプローチで解決したいと思っていた。

2、魂の場所
世に言う「死後の世界」という考え方は、昔から根強く残っていて、今でも大概の宗教では、死後に「別の場所」へ行くようになっている。ただ、我が国の神道などではそのへんが曖昧なようなのだが(私の不勉強で、間違っていたら誤って訂正させていただきたい)、何れにしても、肉体と精神(魂)は別と考えられているようだ。死とは肉体のみが滅びることであり、死後に魂は肉体から「魂そのもの」として離脱し、遥か彼方に飛び去ってゆくと説明されている。アメリカでの実験によれば、人間は死ぬと「21g」体重が減るそうだ。これが魂が抜けた結果体重が減ったと考えて、魂の存在を立証できたと発表した。慌てて本当なの?と言う前に、まず魂の定義を考えてみよう。魂という曖昧なイメージをやめて事象を正確に表現するならば、魂とは、表面的には「自我の意識」である。魂には目や耳や体の感覚器官が存在しないだろうから、目をつぶって無重力の宇宙空間を漂っているような感覚としようか。何も動かず、何も感じず、生きているか死んでいるかの感覚自体が無く、ただ真っ暗闇の中で「自分という意識」だけがポツンと存在する、そういう感覚である。これを便宜的に「魂」と呼ぶとして、では生前はどういう状態にあるだろうか。普段我々は色々な情報を脳で処理し、目や耳や鼻で外界を認識し、手足を動かして行動し、食事をして栄養を吸収し、排泄をする。この外界と接触して行動し食物を得て、さらには種の保存を図っている「主体」はなんなのか?。生物学的には、それは「腸」である。

生物の進化の過程を観察すれば、生物の基本は「栄養を消化吸収して、細胞を再生産する」ことにある。NHKでやっていたが、世の中には「脳も心臓も血管も無く」て、口と肛門と腸だけで生きている生物が存在するらしい。主体は言うまでもなく、腸である。これに餌を取るために口と手足をつけて、目と耳とそれを操作する神経と脳が発達し、必要なエネルギーを供給するために肺と心臓と血管を獲得した。それに付随して胃・肝臓・腎臓・膵臓などの分業が進み、ついに五臓六腑を備えた現代の人間が誕生した。それらの後付器官は行動範囲の拡大と外界情報の入手と、雑食による機能拡張の進化の結果である。その最大の特徴は「脳の驚くべき発達」にある。外界の情報を記憶するのみならず、言葉の獲得と情報を整理・類推して演繹的に思考する「考える力」を備えた脳は、今や人間を動物から区別して、「全世界を、神のように支配する存在」にまで上り詰めた(と言ってもいい)。では「脳に魂が宿っているのか」と言えば、存外多くの人は「魂は心臓にある」と答えるのではないだろうか。脳は思ったほど重要とは考えられて居ないのである。だがこれは、西洋の文化が入ってきてから広まった考えであり、キリスト教では、サタンは心臓を好んで食べるそうだ(ホントかどうかは知らない)。それに比べて江戸以前の日本では、人の魂は「腸」に宿っていた。「ハラワタが煮えくり返る」とか、「腹が座った男」とか、「腹が立つ」とか、腸にまつわる言い回しは、枚挙に暇がない。脳が煮えくり返るとか脳が座っている、なんて話は余り聞かない。ちなみに切腹は、自らの腸をさらけ出して「己の真心」を示す古来の方法だ、と言う人もいる。一応、この問題の答えは「魂は腸にある」としておこう。ちなみに、どんな生物でも「一番大事な器官=本体」は身体の真ん中にあって、最も厳重に守られているようだ。もし頭が「本体」だとすると一番身体の先頭の目立つ場所にあって、戦闘時は真っ先にやられちゃうような気がするんだけどなぁ。

3、人間の死
腸に魂があるかどうかは一先ず置いといて、人間の死は「どういう状態になったら」死と言うのだろうか。テレビドラマなどでよく見るシーンでは、心臓が停止したら死亡と診断しているようだ。脳死は正式な死亡とは、みなされてはいないようである(これは判断がしにくいという面もあるだろう)。血液が循環しなくなったら体はすぐさま酸欠になって、臓器は壊死し始める。そういう意味では、心臓の停止が「最も分かりやすい」死だと言える。但し、心臓が一時停止してもAEDで動き始めることがあるから、厳密には死とは言えない。基本的には、完全に生命が失われた時を言うとすれば、「腸が生命活動をやめた時」に死と判断することになるだろうか。何故なら、他の臓器の場合は「移植や機械で代用」すれば、何とか生命を維持することが可能だから。現在移植出来ない臓器は「脳と腸」の2つだけである(と思う)。まあ、脳死と診断されても心臓が動いていれば、少なくとも生命は維持されることを考えると、脳は生死の絶対条件ではなさそうである。そうなるとここからが本題になるが、腸が死んだ時に「魂はどうなる」のか、だ。

私の考えでは、人間は死んだら「他の何千何万種の生き物と同様に」、ただのタンパク質と骨になって、もときた土に帰るだけである。魂もへったくれもない。地球上にある有機化合物が、DNAを介して細胞の再生産という生命活動を行っていて、それがある日老化して限界に達し、機能停止するというだけのことなのだ。それは太古以来、連綿と続いてきた生命のサイクルであり、死とは「自然界の日常」でしかない。人類という視点では個々の人間は生まれて子孫を残し、役割を終えたら死ぬ。それが正解なのだろうが、人類という全体像以外に我々個々の人間には、「自分自身」という、他人と異なった自我意識が存在している。といってもこれは当然の話で、生物全般は「自我と対象物」という構造の中で、必死に生命活動を行っているのだ。自分を他者と区別する「自我」は、生命活動の根幹である。そうでなければ捕食者がウヨウヨいるこの世界で、生き残っていくことは出来ないだろう。どんなに下等な生物であっても、自分と他者の最低限の区別はあるだろうと思う。例えば右手を動かそうとして、その結果「他人の腕」を動かしてしまった、という人はいないだろう(当たり前だ)。動かせるのは「自分の右手」である。自分の右手は痛覚を含めて、自我の範囲内にあるはずだ。目や耳や口などの五感は、常に「自己」という意識なしには存在し得ない感覚である。これは免疫システムにも言えることであり、免疫とは究極の「自己認識システム」なのである。人間を含めて全ての生物の免疫システムは、体内に他者が入り込んでくると、免疫細胞タンパク質が寄ってたかって殺してしまう。それで生命が正常に維持されるのだ。細胞レベルでの「自己と他者の区別」が、生物の生命根源のシステムである。案外「魂」とは、人間の存在そのものである「自我」と切っても切れない関係があるのではないだろうか。

4、自我とは
我々人間は、自己は「世界でたった一つだけ」の存在であり、「他者」と決定的に違う唯一無二の存在だと思っている。だが私はある時、それに疑問を持つようになった。あなたの「自我」は、私を「他者のうちの一つ」と認識する。例えば私の死は、あなたにとっては単なる他者の中の一つの消滅だ。つまり私の魂はあなたにとって、極論すれば「数ある外界の一部」でしかないのである。「自己という感覚」は、手足や心臓や目などの肉体を全て「外界」と捉えることが出来る程に「超越的・精神的」なものである。健康な人間の精神は何物にもとらわれず、世界を見渡す「神の能力」を持っている。私が神のような存在だと自覚するのと同じように、あなたもそのまた別の人も、人間の数だけ「神のような存在」が存在するのも事実だ。自我は人間にとって、単独では唯一無二の存在なのに、実は世間では「ありふれた機能」なのである。誰もが持っている筈の「魂」も、自我と同じように「ありふれたもの」でしかない。この「世界を見る目」という別格の能力は、全員が身につけた「基本的な能力」なのだ。つまり、その神のコピーのような能力が、実は心臓や肺と同じ「臓器=器官」の一つだと知ったのは、実はつい最近のことである。

うつ病や認知症など多くの精神疾患が、「肉体的な器官の機能不全=病気」であると言う医学的な知見も、最近の研究の成果である。怒りっぽい人や無気力な人もまた「遺伝子の違い」で説明出来ることが段々と分かってきた。精神が脳の機能と深く関わっていることは当然のようにも思うが、「脳自体」は勿論臓器の一つである。色々な活動を行っているが、自分の肉体をコントロールして「意のままに動かす」のが第一の役目であろう(無意識で行っている様々な活動も、もちろん重要であるが私には余り知識がないので割愛する)。だが例えば腎臓が、身体の各部に色々な違った物質を送って、各器官の「行動の調整役」を担っている、ということも徐々に分かってきた。その中でも随意的・能動的・意識的な身体の活動を総合的にコントロールしているのが脳である。脳は考えて、意思を持って命令を出す。考えるためには記憶を呼び戻し、想像し、コミュニケーションし、類推や演繹を活用して判断するという様々な機能を総動員する。それが脳の機能だ。だが最近、脳が自由にものを考えて「自分の意思を決定している訳ではない」ということが医学的な知見から分かってきたのである。細かい説明は私も詳しくないので省くとして、要するに脳も与えられた条件の中で、最も「自分が求めるもの」をチョイスしているに過ぎないのだという。身体が風邪気味で具合が悪くても、会社を休めないから無理して出社する。これも取捨選択の結果であり、「海にサーフィンに行く」というような自由は選択肢にはない。あなたの「欲望」がサーフィンに行きたくても、脳は結局は現実的な選択をするのだ。そのほうが「最終的には」あなたが生きていくのに有利だと判断した結果である。つまり、あなたの脳はあなたの自由意志ではなく、「自分の生物としての意思」に従ったのだと言える。これが生物の「生き延びる作戦=本能」である。本能が「腸の指示」であれば、言わばあなたは「腸を快適にするため」に働いているのだ。人間にとって、一番我慢できない痛みは「お腹が痛い時」というではないか。脳は腸の命令には逆らえないのである。(つづく)



最新の画像もっと見る

コメントを投稿