明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

土曜日は研究の日:私の人生3大発見(その2)社会保障費をタダにする方法(中編)

2023-04-06 17:18:00 | 私の意見

資本主義での財産権は所有者が死亡すれば遺産として継承される。これは太古の時代から面々と続く「集団の財産」という意識の名残である。集団は徐々に「国」から「氏」そして「家」という風に狭くなっていくが、基本的には財産は個人のものであり、公共のものとは考えられていなかった。歴史的には公地公民とか共産主義とか財産を集団共通のものとする試みが出てきたが、しばらくすると元の私有財産に戻るのである。大きく言えば社会の幸福に役立てようという公徳心よりも、「自分の稼いだものを他人に渡したくない」という所有欲が上回っていた、というのが歴史である。本当の意味での「社会平等・財産共有」という形態は、例え共産国家でも現代においては存在していない。これはつまり、経済活動は「競争によって活性化」されるということだ。人間は、知らない他人の幸せのためには働らこうとはしないのである。

しかし個人資産を他人に渡さないで家の中で継承していったら、親が裕福で無い者はゼロからスタートせねばならなくて不利な競争を強いられる。勿論、国家財政も貧弱になり、国際競争で遅れを取る。この富裕層と貧困層を固定する仕組みが、実は「身分社会再編の動き」になっているのだ。既に財産を築いた富裕層は、その社会的地位を守るために政治を利用するだろう(それが安倍政権であり、自民党である・・・ちょっと横道に逸れた)。この格差社会を逆転し、貧困層を「もう一度中間層に押し戻そう」という試みが「資本社会主義」だ(これ、私の造語です。どうも適当な言葉が思いつかないので)。稼いだお金は勿論個人がどう使おうが勝手だが、使いきれずに残ったら国に返して「社会保障費に充当」する、という方法である。生きている間はバリバリ資本主義だが、死んだら財産は社会主義で行く。つまり資本社会主義である。

その中核となる考え方が「遺産相続の廃止」だ。

1、財産を個人のものに限定する
前項で私有財産が経済活動には必須だと言った。それは個人が夢を追いかける「自由の象徴」である。個人が一生懸命働いてカネを稼ぎ、努力と才覚で財産を築くことに反対する気持ちは私は毛頭ない。大いに働いて、思う存分稼げば良いのだ。それに文句を言うものは自分の努力の足りなさを恥じるべきだろう。だがその個人が死んだ後まで「遺産として子供に残す」のは、「ちょっと待てよ」と一言文句をつけたい。黙ってその遺産を受け取る家族は「お前は全然努力してないだろう!」と言いたいのだ。だから遺産は廃止して国庫返納とする。

a. 夫婦
個人が財産を所有するのはオーケーだが、死亡時に残った財産は全額没収とする。つまり遺産は禁止、但し夫婦だけは遺産の半分を貰える。これは夫の生前は豪勢な暮らしをしていたのに、未亡人になったら4畳半のアパートで細々と暮らす、なんてことにならないためである。まあ、保護とでも言おうか。但し上限を設けること。どうせ遺産禁止で没収されるくらいならと、夫の残した莫大な遺産を「狂ったように使いまくる若い妻」がいっぱい出てきそうだから。まあ夫婦が力を合わせて成功する、というのがサクセスストーリーでもあるわけだし、そこは少し緩やかにしてもいいだろうとは思うけど。

b. 子供
遺産没収逃れを防ぐために、子供に贈与することは禁止。子供は教育レベルも含めて、全国民平等に扱うのが基本である。たまたま親が裕福だったら、家のプールでワイン片手に日光浴、なんて生活は可能かもしれないが、誕生日にフェラーリやポルシャをプレゼントってのは出来なくなる。まあアルバイトでお金を貯めて買うしかないだろう。子供が自分のために使える金額は一律「いくらまで」に限定される。子供は親の遺産を当てにしてはいけないのだ。そこで障害となるのが「親の七光」問題だ。人様より能力がない子供だが、何とか自分の会社を継がせたい、というのは人情であろう。だがこれは「未来の収入の遺産継承」となる。実際これが昇進や役職面で大きな不平等となっている例が多く見られるのだ。人は能力や人格で「正当に評価される」ことが望ましい。だがこの問題は一筋縄ではいかないので、一旦ペンディングとしておこう。

c. 企業
個人の遺産を国に取られちゃうからってんで、それならいっそ会社に増資しちゃう、という人が続出しそうである。これは税金で対応するしかない。会社の利益がいったん個人資産に入ったら、何かに使わない限り、最後に残ったら全部国に戻る。何とかこれを逃れようと「次から次へと秘策を考える」だろう。相当頭を使わないと没収する遺産が「殆どない」なんてことになりかねない。まあこれは国税庁の利口な役人に必至に考えて対策を練って貰うとして、考え方は「個人として夢を追求する」ことは全面的に認める代わりに、「死後の遺産は公共の為に差し出して」自分の家族で独り占めしない、ということにあるのだ。その理念をよく理解してもらって、正しく返納してもらうのが理想である。個人の所有する株式は、国庫に返納されて売却される。

d. 寄付
余りバンバンされると国の社会保障費に回るお金が減ってしまう。ここは税金で対応するのが良い。まあ寄付をしたら、その金額の70%も取ればいいだろう。もしそれが人類のために役立つ団体で、寄付が高邁な理想からなされたものの場合は、「改めて国から70%を補助」してあげれば良いのじゃないか。世の中いい人ばかりじゃないので注意が必要である。

e. 他人
富裕層は必ず遺産没収を回避する手段として「相互贈与」を仕掛けてくる。これはAさんがBさんに20億贈与したら、今度はBさんがAさんの子供に20億贈与するやり方である。これを無限にループすれば、直接ではないが「結果的に遺産相続を同じ」ことになる。これは税金で対応するより「禁止」したほうが「遺産禁止の趣旨」に合致しているようだ。まあ飲み屋でちょっと奢るぐらいは構わないとして、10万以上のカネを配るのはちょっと趣旨と違うんじゃないかな。やはり人は、自分で努力して稼ぐのが一番幸せだと思う。

以上、

人間の欲望というのは限りがないものだ。この欲望から諸悪が生まれる。しかし欲望を止める方法は世界中の宗教が昔から取り組んできて、長い長い修行の果てに結局は得られなかった「最も達成するのに困難な目標」である。どれほど偉いお坊さんでも年をとってようやく到達できるか出来ないかの境地だと言うのに、凡夫の衆生に出来るわけがないではないか。だから私は仕方がないので、生きている間は「せいぜい欲望まみれの人生」を送ってもいい、とした。その代わり「死んだら本人は意識がなくなる」わけだから、残ったお金は国が管理して「社会の為、貧困者の向上の為に」使っても良いのじゃないか、そう考えたのである。まあ実際に法制化するためには、相当色々な対策を検討する必要がありそうだ。とにかく個人の欲望と社会の幸福を両立するための究極のアイディアとして考えた。旧来の家の考えや「親の保護」と言う観念がなくなって、人はオギャーと生まれたら「個人と世の中」と言う2元競争社会に投げ込まれるしかなくなるのだ。これを受け入れるかどうかが、この政策の成功の秘訣である。果たして日本の富裕層が耐えられるかどうか・・・・。

今回、「中編」では遺産を国が回収する方法を書いた。「後編」では、回収したお金を「どう使うか?」を書いてみたい。いよいよ社会保障費に切り込むので、ご期待頂きたい。



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