明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

土曜日は研究の日:私の人生3大発見(その2)社会保障費をタダにする方法(後編)

2023-04-06 17:20:00 | 私の意見

1、社会保障費とは何を指すのか?

人間が社会生活を送る上で一番大事なことは「安定・安全・安心」である。人生で何をするにしても、その目的の足元を掬うリスクというものはついてまわる。災害・事故・疾病・貧窮などなど。この「後顧の憂い」を断つことが出来れば、心置きなく頂点を目指して行けるのだ。安定・安全・安心を約束してくれる信頼出来る「巣」があれば、後はひたすら夢を見据え未来に向けて才能を開花させるだけだ。その仕組みづくりの第一歩が「社会保障の充実」になる。というわけで私の考える社会保障とは、次の各費用を「保証する」ことと考えたい。

a. 病気の時の医療介護費
b. 働けない時の衣食住費
c. 社会活動するための教育費
d. 子供が成長までの育児費
e. 人間としての最低限の娯楽費

以上である。これらの生きていくのに必要な費用の全てを、日本国民が平等に得られれば、日本は世界で最も住みやすい「幸せの国」として、あのギネスブックにも載るだろう(This Is a Joke ! )。

これらの給付は年齢性別に関わらず日本人全員が平等に受ける権利を持つ「基本的人権」としての給付である(今流行のユニバーサル インカム に近い考えだが、その財源の捉え方は異なる)。これらの制度改革に伴って、今まであった「年金」という考えは無くなる(同時に、年金資産も消滅・解散し、新しい社会保障基金になるわけだ)。一生懸命働いた後にやっと貰えるのではなく、日本人であれば平等にこの基本的給付を一生受け続ける訳だから、年金という「老人だからどうこうという区分け」は存在しなくなる。当然、65歳以上などという資格もなくなるわけだ。一月10万円として国民全体で13兆 ✕ 12ヶ月=156兆円。この費用の大半を、遺産没収で得た財源で賄うという計画である。

この計画を仮に「社会共通循環金」と名付けようか、メリットはもうお分かりだろうが、最初から貯金をする必要がないから「恐ろしいまでの消費欲が爆発する!」。どのくらいの爆発かと言うと、もう想像できないぐらいの天文学的数字になるのは火を見るより明らかである。と言うか、日本人全員が「宵越しの金は持たねぇ」江戸っ子になっちゃうわけだ。こりゃあ使うわねぇ。人間誰しも「万一を考えた貯蓄」として、何らかの保険を考えない人はいないだろう。アメリカなどでは医療はものすごく高額なため、保険に入っていないと「助かる命も助からない」のだという。アメリカあたりは個人の意志を尊重する考えだから、言わば人の命でさえ「自業自得」の社会である。しかしそれは大きな視点でものを見ると、全体としてのパワーは「社会全体で後押しする」国民国家という考え方には劣っている。なぜなら後者のほうが「資金の循環速度」が段違いに速いことが分かっているからだ。この循環速度が速いほど、全体の消費額が「指数関数的に」増加する。これはもう「消費爆発ならむ宇宙爆発」である。つまり資本主義社会においては、「最高最大の理想の市場環境」が現出する!(おおっ)。

2、使い方の一例

例えば教育費は「すべて無料」にする。現在、教育の無償化が徐々に浸透しているが、それを一歩進めて、全員が一人前になるまでの 全ての教育費を無料にするのだ。そして、それぞれの年齢に応じてエントリー級3年・レギュラー級3年・シニア級3年に組み換えて、社会人として実際的な一般教養(つまり、躾けだ)を教えてしまう。勿論躾けが最大の教育目標だから、社会に出て皆んなと上手くやっていける「礼儀と自己主張術」がメインになる。この勉強がちゃんと出来ないと、社会に出てから周りについていけなくなり、ドロップアウトに陥ってしまうのだ。これが今の教育に欠けている「最大の欠陥」である。だから人間関係以外の必要な技術や学問の方は「専門学校」で、並行して行うことになる。こちらは年齢は関係なく、それぞれの実力に応じてクラス分けされていく。だから小学生で寿司職人の学校に行くことも出来るのだ(自分の進路を見切ってしまう天才小学生もいる)。最初のうちは10歳で大学並の最高学府に入る天才も出れば、18歳になってもまだ「初級学科」でウロチョロしている落ちこぼれも出てくる。だがその内に自分に合ったレベルの学科に進学したほうが「得」だ、ということが分かってきて、もっとストレスのない「実際的な勉強」が出来るようになると思っている。要は、受け入れる社会の側が学校を「より専門的に技術を習得する場所」と捉えれば、何も全員東大を目指す必要も全然ない。だから専門的な学校を職業に就く前の準備期間、言わば「インターン」と考えるのである。

つまり一方の「躾け」で礼儀作法とコミュニケーションの能力を磨き、一方「IT・建築・エネルギー・電気とか、料理・芸術エンタテイメント・スポーツとか、数学・物理・化学・天文」など、分野を細かく明確にした専門学校で訓練すれば、当然即戦力として社会で活躍出来るのは理の当然と言える。そうすれば現在の「いい大学」などという曖昧なラベリングではなく、もっとハッキリした「例えばラーメン学校とか宮大工学校」とかに学ぶことが出来れば、卒業学生を採用する企業側も「スクリーニングの手間が省けて」メリットも大きいのではないだろうか。勿論、大学入試などといった「無意味なふるい落とし」は必要ない。希望者は全員入学である。その代わり、規定の技術が「習得出来なければ」卒業は出来ない。だから「例えば魚を捌く学校」を卒業すれば、一通りの「魚や」にはなれるわけである。勿論、技術だけがあれば誰でも魚やになれるわけではない。経営の基礎知識を学び、ある程度の人間関係の技術も必要である。それは「別の学校」で学ぶべきだ。学校というのは目的を明確にしなければ「学校」にならない。例えば「建築」を学ぶ学校があったとする。しかし、その学校を出ているからと言って、「人格」が優れているとは言えないのだ。人格を学ぶ学校は「別にある」。

つまり、学生の評価は〇〇大学を出ている、ではなくて〇〇建築大学て○級・〇〇経営大学で○級・〇〇教養大学で○級だからこの人は〇〇に向いている、という評価が与えられる。それじゃ今の総合大学の学科分けと同じじゃないかと思うかも知れないがそうではない。例えば東大理科3類卒業といえば「へぇーっ」となるが、実際会ってみると「常識が全然無いダメ男」だったりする。公務員に多いタイプだ(ちょっと恨みそねみも入っている?)。細かく目的技能を分けた学校になれば、片方は優秀だとしても、片方は落第となる。より全体の能力が「明らか」になるのだ。これが資格の本当の意味である。今の大学は「資格を求めているのに、実際は潜在能力を比較している」わけだ。無意味である。電気の成績が中程度でコミュニケーション能力が優秀なら「電気メーカー」に入って活躍できるだろうし、電気の成績が優秀でコミュニケーション能力が落第なら「超伝導の研究」に進めばいい。要は自分の適性を「より明確にする」ことで、無用な競争を避け、受験地獄といった「才能の馬鹿げた浪費」をこの世から一掃することが出来、より社会の活性化を図ることが可能になると思う。教育とは、必要な技術を習得するための訓練機関であるべきだ。訓練する前の高校生の段階で「優秀かどうか」を競わせることは、逆に考えれば「教育の機会」を閉ざすことになる。第一、頭がいいからといって「役に立つ」というのとは、決してイコールではないのだ(皆さんも身の回りの人で実感しておられるであろう)。そのことにもっと早く気付くことが、社会に出て「幸せな仕事環境を得る」ために必要な第一歩である。

そういう適性は、普通は身近にいる「父親」が子供の能力を判断してアドバイスしてくれる(別に母親でもよい。私はどっちでもよい派である)。しかしそれが上手く行かないと、親子の軋轢が子供の心に無用な圧力を生む場合もある。だから「学校」であり、「社会」なのだ。働いている会社が自分に合ってないと思う場合、会社の方も転職を勧めるだろうし、自身でも検討する方が「より幸せになる確率」は高くなるだろう。基本的な生活の費用は「国で保証」されている。後は楽しく仕事をして、夢に向かって努力できる環境を「見つけるだけ」なのだから、こちらの方が圧倒的に心の余裕があるではないか。つまり、就職した企業が思っているような会社じゃ無かった場合、人々はどんどん転職して、一番自分に合った理想の環境で労働するようになっていく。これが労働力の「最適再配置」を実現・加速し、国民全体の技術向上と幸せな人間関係を約束する「秘策」なのだ。それを可能にするのが「やめた時の生活の安定保証」である。

無職でも生活できるのなら、皆んな働かなくなるんじゃないか、って?。そう、別に働かなくても構わないのである。90歳の老人のような生活で満足する人は、それでも全然構わないだろう。だが健康で少しでも楽しく生きようとする人は、きっと「何か、自分の力を発揮したい」と思うはずである。自己実現こそ、万人の希求する人生目標の筈なのだ。今回私が提案する「社会共通循環金」とは別に、個人の獲得した資産は「際限なく許される」のである!(まあ今でも出来るがね)。例えば一本のワインに1億円払っても、誰も文句を言う人はいない。確か、マグロ一匹に3億払ったアホな会社があるが、あれは「原価適正法(私が将来導入しようと考えている法律)」に従えば、宣伝広告費として計上するべき性質のお金である。もしそれが商品仕入金額であれば「必ず市場価格に転嫁しなくてはいけない」のでである(原価適正法)。そうなれば無謀な仕入れ金額で「宣伝しよう」などとは思わないであろう。

なぜなら当然仕入れであれば小売価格に反映して「バカ高い寿司」になってしまう。そうなれば一貫10万円などという異常値しか付けられなくなって、企業イメージが悪くなるだろう。だが広告宣伝費に計上すれば、その分「税金がかかる」のだ!(私の税法です)。上手く出来ているよね〜。要するに、知恵と才覚で企業運営するのが商人である。色々税法を工夫して商売をコントロールするのも才能だ。こういうことを考える人は公務員に向いているから、学生の時から「政治学校」に入学するといいだろう(私もそうすれば良かったと思う)。すべては資本主義社会における必要な技能である。この技能教育を「無料」にすることで、社会全体を底上げすることが出来るのである。例えばいわゆる犯罪者なども、中には普通の人よりも「悪知恵に長けている」人がいる。これを教育で「普通にお金を稼げる」ように仕向けることが出来るのであれば、彼らだって無駄に悪事は働かないであろう(割に合わない)。そうすれば、我々の生活も「より安全・安心・安定」なものになる。良いことづくめである。

まあ、結果として「究極の無駄遣い」が日本中に氾濫するだろうが、何れ「真の価値」というものが分かってきて、ようやく文化の花が開く時が来るだろう。その時は「江戸期・文化文政の栄華」などと言う風に 、今に「令和の栄華」と呼ばれる時代が到来する気がしてならないのだが。

このように、一例として教育費を説明したが、他の医療費や衣食住費でも同じである。一義的には個人への給付だが、それらは遺産禁止による貯蓄回避の働きによって「自動的に、消費増として社会に還元される」わけだ。つまり社会保障費をタダにするつもりが実は、「消費を活性化してGDPを倍増させる秘策」になっているのである(チョー頭いい!)。私としては、早く「法改正」して貰いたいのだが、今の菅首相には「わっかんない」だろうなぁ、ああ困ったもんだ。

なお、企業を抜け道として遺産を子供に残そうとする「醜い老人」が必ず出てくるから、それを見つけて処罰する「遺産Gメン」が必須だろう。とにかく国民である以上、何人であろうとも「例外」は禁止である。じゃ、天皇でも遺産は禁止なのかというと、まあ私の口からは何とも言えないと濁しておこう。ただ現在の天皇は世襲制ではあるけども、「私有財産の継承」は無いみたいなので許されるだろうとは思う。生活は恐ろしくハイレベルだけど、あんなに「がんじがらめな生活」なのに勝手気ままに町の居酒屋で気炎を上げることも出来ないと言うんじゃあ、残念ながら私はご遠慮申し上げる(勿論お声も掛からないわけだが)。平成天皇も楽しみは植物研究だそうだから、穏やかな余生を過ごされているものと存じ上げる次第です。

私の「人生の3大発見の1、魂の行方」で説明したように、人間は死んだらタンパク質の残骸となって、土に帰ることになっているのだ。つまり、オギャーと生まれてそれぞれの能力に応じて精一杯人生を楽しみ、誰の世話にもならず国民全員が幸せを享受し、いよいよ死んだ時には全てを返還して、次世代に財産を役立てる。素晴らしい仕組みではないか。個人の力で思いっきり稼いで美味な食事を楽しみ、豪華な家に住んでメイドを雇って王様気分に浸ってもいい。高性能な車をドライブして走りを堪能し、ヨットで美女とワインを酌み交わすのもいいだろう。働いて稼いだ金を何に使おうとあなたの勝手である。一度しか無い人生だ、思う存分生きたら良い。但し、死んだら遺産なぞ我が子に残そうなどとは思わずに、全額国庫に返納すること。

贅沢三昧の富裕層が羨ましいって?。それはしょうがない、努力したんだから。その代わり、誰もがスタートラインは横一線である。その後の稼ぎは本人次第だが、ヨーイドンの時点では「皆んな一緒の横並び」である。これなら公平な競争と言えるんじゃ無いかな。中にはその後に事業に失敗する人もいるだろう。そう言う人に対しては、最低限の生活と少々の娯楽は保証しよう。病気になっても国が面倒見てくれるから心置きなくハメを外して楽しみなさい。但し、あなたが死んだら「何十億あろうとも、1円たりとも遺産はなし」である。これも公平の極みでは無いだろうか。最初も公平なら、最後も公平だ。

人が人生で生み出した付加価値は全部、死んだら国が回収する。これが私の究極の資本共産主義、「社会共通循環金」の創出である。私の遺産禁止法、案外行けるんじゃないかと思うけど如何?



最新の画像もっと見る

コメントを投稿