フィールドワーク通信

広島を拠点にフィールドワーク。カンボジア、インドネシア、市民まちづくり

作り出される憎しみ1217

2006-03-05 16:30:58 | フィリピン通信
 17日は、サガダに泊まり、この日記をつける機会をもてなかった。いまバギオのコンコルド・ホテルでこの文章を書いている。

 17日は7時スタートでカリンガへ行った。途中、道沿いに銃を持った人々をみた。反政府ゲリラだという。カリンガの村の入り口には、「我々はフィリピン政府の行うダム開発に反対し、このカリンガの文化と伝統を守る」と書かれた石碑が立っている。「反対のためには実力行使も辞さない」とも書かれている。その表れが、あの銃を持った男達である。

 村には、かつてマルコス政権時に銃殺された村長の家がその当時のまま残され、家の前には石碑が置かれていた。その当時の記憶を風化させないためだという。また、家々には、銃が一丁ずつ装備されている。家の人に聞けば、それはボントック族との集落境界を巡る争いのためだという。

 いずれにしても、銃を常備し、警官以外の人間が銃をもって歩く光景には尋常でないものを感じる。実力行使を伴う民族紛争の現場ということだが、そういった歴史を身近にもたない日本人にとってはなじめないものを感じる。

 カリンガやボントックはサガダに比べて好戦的だと、サガダの人はいう。しかしそれだけが理由ではないと感じる。こういった紛争は世界各地で起こっている。
すぐ思い起こされるのは、ツチ族とフツ族の紛争であるが、近い民族どうしが、その近さゆえに、ささいなボタンの掛け違いによって憎悪が肥大化していくさまを見て取れる。

 憎しみというのは、おのずと生まれるものではなく、自ら作り出すものだ。同じこと同じ軋轢が生じても、それを平和的に解決する方法もあれば、憎しみをもって武力行使する方法もある。憎しみを作り出すことはある意味簡単だ。その邪悪な気の流れに乗っかればいい。流されればいい。しかし我々は想像力をもって、その流れにあらがう術をもたねばならないと思う。

 カリンガではブグネイbugnay村に訪れた。かつては八角形の住居が一般的であったが、今では一棟残るのみである。多くの住居はトタン葺きの住居に建替えられている。木造の構造のもので一般的なのは、矩形の高床の住居である。辺の真ん中に入り口をもち、左側に寝床、真ん中つきあたりに炉を構える形式が一般的である。炉を生活スペースと同一の空間に置くのを嫌うため、隣り合わせにもう一棟釜屋を建て増しし、外側のベランダ空間で連結した形式の住居も多く見られる。

 集落自体は、山の斜面地に形成され、周辺には、棚田が広がる。棚田と同一の手法で、斜面地を整地し、そこに集落をつくったと考えられる。

 小学校にも訪れた。1学年につき1クラスが設けられ、全部で6クラス、中庭を挟んで、3クラスずつが向かい合わせに配置されている。作業室、図書館が別棟で建てられている。学生数に比較して部屋の大きさが小さいこと、いすなどの家具が不十分なことが問題点として挙げられるという。政府の初期投資ならびに保護者等の寄付によってなりたっているという。

 ここカリンガでは、我々はお礼にマッチをあげることを教えられた。お金よりもマッチのほうが重宝するので彼らもマッチを望むという。村の入り口でマッチを大量に購入して村へ臨んだ。

 ものを与えることについての問題は、金額の問題と同様ナイーブな問題であると思っている。ものを与えるという行為は、持てるもものと持たざるものとの関係を明確化する行為だと思うからである。つまり上下関係を顕在化させることになるわけである。

 ものを与えるケースは2つある。一つは、ほどこしとして与えるケース、一つは、何かのサービスの対価として与えるケースである。今回は、家を見せてもらったり、話を聞かせてもらったりした対価として、マッチをあげることにしたわけである。日本でも何かお願い事をするときに菓子折りを持っていくようなものである。お金を渡すよりはよいと考えてよい。彼らの生活を営み上で必要なものを与えることができるということは、適切な支援ともいえる。しかし、マッチを渡すことで、火をおこす技術や文化を廃れさすことに一役買ってしまっているわけで、望むものを与えればそれでいいというわけではない。

 カリンガをあとにして、ボントックの伝統的集落に向かった。村中を歩き回ったが、結局伝統的な住居をみることはできなかった。茅葺きの家を2棟みつけたが、ひとつは荒れ果て、ひとつは中を見ることができなかった。見ることができたものも、住居内に倉もたいない形式のものであった。穀倉を見ることができた。穀倉は2階建てになっており、2階の天井はボールト屋根の特徴的な形式であった。全体的には、切妻、平入りの形式である。現在は、集落内にはほとんど穀倉はなく、集落周辺部にまとめて配置される形式をとっている。

 カリンガでもそうだったが、トタンを屋根や壁に頻繁に用いられている。トタンは熱容量が小さいため、昼間の熱射を容易に室内に伝導しやすく、夜の寒気もまた室内に導きやすい。また雨季の雨が屋根にあたる騒音はかなりのものだと予想される。我々には欠点ばかりが目につくのであるが、いずれの家も、木造をやめて、コンクリート造のトタン葺きの屋根、トタン貼りの壁の家に建替えられつつある。キナドにその疑問をぶつけると、長持ちすることが評価されているからだという。茅葺きであれば、何年かに一度は葺き替えをおこなわないといけないが、トタンだと数十年はもつという。値段は高いが多くの家でトタンが使われている所以である。しかし、トタンのねずみ色でかたちづくられる集落景観は異様である。

 カリンガは、独自の文化や伝統を守ろうと武装までしているのに、伝統的な住居はかたちを大きく変え、RC造トタン葺きが主流を占めつつある。文化や伝統というときに、住居の形態が認識されないのはなぜだろうか。一方で、トラジャやバリのように伝統的な住居のかたちが存続している例もある。住居は意味の総体であり、住居の建設プロセスそのものにも様々な意味が込められている。毎年の儀礼の中には住居を舞台におこなわれるものも数多く、伝統的な住居のかたちがあってこそはじめて成り立つものも多い。東南アジアの住居が、近代建築・近代住居とは異なり、コスモロジーやシンボリズム、自然や生業や家族形態と密接につながっているため、その民族や地域ごとに独自の形態をもつことになるのであるが、その民族の文化や伝統の中で住居の占める位置はそれぞれに異なり、その位置づけ如何で、かたちの継承がおこなわれるかどうかが決まってくるように思える。

 ボントック博物館では、ボントック、イフガオの伝統的住居のレプリカをみることができた。かつての写真もいくつか展示してあった。カリンガの住居は、もともと8角形のものであったと説明を村で受けたが、その通り写真にも8角形の住居のみで集落が構成される写真が展示してあった。確か20世紀はじめのころのものだったと思う。

 夜は、サガダに泊まった。昨日お願いしていた家についたのは、5時をまわったころだったと思う。既に日が暮れかけていて、キナドは、暗闇の中の運転を危惧して、飛ぶように帰っていった。当初は、2軒の家に男性女性と別れて2人ずつ泊まろうと考えていたが、2軒のうちの1軒が年老いた夫婦の住まいで、しかもおばあさんは病気で寝込んでおり、かつおじいさんは英語をしゃべれないことが判明したので、コミュニケーションのとりやすさと先方への負担を考えて、1軒に4人泊まることにした。その代わり、女性達は床上に寝ることができるが、我々男性陣は床に直接寝ることにした。

 しかしこの経験は貴重であった。サガダの家は、住居の中に穀倉をもつ形式である。3層で構成される。人の生活する穀倉の床下空間と、穀倉空間と、穀倉の屋根裏空間である。さらに人の生活する空間が2層にわかれるわけである。20cm程度の高さをもつ床が入って右に設けられており、そこが寝床になっている。土間はかまど部分だけで、あとの部分には、床が敷かれている。我々はその床に寝たわけであるが、やはり地面に近いために虫や小動物が接触しやすい空間になっていて、夜中中、虫のごそごそする音が気になった。また寒気を直接受けるのも特徴である。つまり生活面の20cmの床は、そういった悪影響から生活面を切り離すための工夫なのである。

 それと一泊して一番貴重だったのは、サガダの夜の寒さを経験できたことである。東南アジアの住居をイメージするとき、我々はどうしても熱帯地域の住居としてひとくくりに理解しようとする。しかし、サガダは必ずしもその範疇に入らない。この時期の夜中は4~5度だという。Tシャツ、長袖シャツ、毛布2枚でなんとしのげる寒さである。夜中もうだるような暑さの地域とは同レベルで理解することはふさわしくない。詳細な検討を要するが、例えば土間をかまど部分だけに限定し、板を貼る形式は、この寒さへの対応として理解できないだろうか。

 夕食は、この一家の一族の家でごちそうになった。もてなしてくれたのは、主の男性であるが、韓国に2年ほど行っていたという。いまは久しぶりの帰国だが、また来年になると韓国へ労働に行くという。多くの借金を抱えているため働かざるを得ないという。韓国ではかなりの重労働を体験しているらしく、大変だ大変だと繰り返し述べていた。

 海外へ労働へ出るモチベーションは、自分のこととしては理解することはできないが、毎年多くの東南アジアの人々が海外へ肉体労働のため渡航しているのは事実である。一度ロンボク島バヤン村のジャナからも韓国へ行こうかと考えているという手紙を受け取ったことがある。多くの畑や田んぼをもち、食べるには困らないはずだと思っているのだが、それは私が現実を直視しえてないからであろうか。本当に必要があるのかどうかがわからないのと、そのモチベーションがなぜ芽生えるのかも理解できない。

 彼らは自らを貧しいといい、我々は彼らを豊かだという。それは切実なる現実を直視しない、たわごとなのだろうか。それとも彼らは自らの豊かさを理解せず、近代世界が用意した価値観に振り回されているだけなのであろうか。お金なんかなくったって、近くの山の木を切って、自分達で汗水流せば、立派な家は建つし、家の畑や田んぼから食うには困らない食糧は入手できるはずである。なにもRC造トタン屋根の家を韓国にまでいって建てる必要はないはずである。それとも、子どもの学費や、携帯電話の料金やガス代など、貨幣経済が彼らの生活を侵してしまっていて、お金を稼がずには生活を営んでいけないような状態になっているのだろうか。

 確かに、サガダやボントックの人々でさえも、携帯電話をもっていて、我々が泊めてもらった家では、家長がバギオでドライバーをしていて、家には奥さんと子ども一人が残されているのだが、楽しそうに、だんなさんと携帯電話でしゃべっていた。毎日の夜の日課のようであった。

 電話線を引くためには大々的なインフラ工事が必要なので、おそらく衛星を利用しての携帯電話が普及するのであろうが、当然その通話料は現金支払いであり、現金を入手する方法を持たざるを得ないわけである。

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