フィールドワーク通信

広島を拠点にフィールドワーク。カンボジア、インドネシア、市民まちづくり

バリの日本人1225

2006-03-07 18:46:08 | インドネシア通信
 みなは朝から市場にいったが、私たちは夢の中だった。朝は市場で買ってきたナシ・チャンプル、昼は豚の丸焼きをスライスしたナシ・チャンプル、夜は弁当型ナシ・チャンプル。ナシ・チャンプルな一日であった。

 午前中は土地区画整理の調査に関する作戦会議。3年生には、宿泊許可の申請と両替にウブドゥのまちまで行ってもらった。とりあえずローカル・ランド・オフィスで資料収集と思ったが、今日はクリスマスで休みだという。資料収集は明日に回し、夕方4時からヌガラへジュゴグの演奏を聴きにいった。ジュゴグとはガムランの一種で、一般のガムランは青銅であるが、ジュゴグは竹である。巨大な竹をつかった重低音が魅力だという。これまで数多くバリに通ってきたが、初めての体験で、その名前すら知らなかった。

 7時から2時間近い公演であったが、なかなか興味深いものであった。なぜこういったものが生まれ出たのかを考えながら演奏を聴いた。特徴は、激しく竹を打ちつけること、大勢で演奏すること、楽器ならびにその集団が巨大であること、その名が全体の名前になっているように、一番巨大な楽器であるジュゴグの重低音である。なんかを思いっきり叩きたかったんだなあ、とまず感じた。日々の楽しみかストレス発散か、思いきりたたくこと、大きな音を出すことがまず第一の目的であると感じた。大勢で演奏する形式なのは、ジュゴグが村の音楽だからである。村の中で、みんなで楽しめる音楽・娯楽として始まったと考えた。巨大さは、権力との結びつきに起因する。権力の大きさを多くの人々に示すために、巨大な楽器、巨大な楽団となったのではないか。ただ単なる村の娯楽であれば、あそこまで巨大にする必要はない。最後に、一番の特徴である重低音は、ある種の創作的意図のもとに取り込まれたものであり、はじめは小規模な竹筒打楽器を打ち鳴らしていただけではないだろうか。ただ激しく騒がしいだけではもの足りず、彼らの独自の審美眼(耳)によって、重低音のジュゴグが取り入れられ、全体としてたおやかな雰囲気を生み出すことができたのではないか。

 そう。音楽全体としては、激しくにぎやかなのだけれど、のんびりしていてたおやかでおおらかという印象である。基本的に個々人の想いを実現する、つまり叩きたいという欲求を実現することが第一に優先されながら、全体として、調和をとるためにジュゴグが取り入れられているのである。それは、我々がよく耳にする西欧のいわゆるクラシックとは異なる。全体に起点をおくのか、個に起点をおくのかの違いである。全体を作り上げるために、個々の役割が決められ、全体を洗練させることにエネルギーが注がれるのがヨーロッパのクラシックならば、バリのジュゴグは個々の想いを実現することが尊重されている。

 基本的にメロディーをもたないこの音楽は、CDで聴いても何の価値もなく、その場を体感することにしか意味が生じない音楽だとも感じた。

 断片をいくら集めても全体にはならない。断片は断片でしかない。全体を構成するには、それなりの意志やしかけが必要だ。断片にいくら光るものが見えたとしても、全体を構成する力を持たなければ、なにかをなしたことにはならない。適当にばらまいてそれで終わりなんじゃなか。露台に腰掛けてジュゴグを聴きながら、そんなことをなぜかしら思った。

 また、松江のどう行列のことを思った。どう行列とどう祭り。この2つは違う。どうと呼ばれる太鼓を叩き、笛を吹きながら、山車がまちを巡る。どう祭りは、地域独自の祭りである。北堀で数年前に練習に参加させてもらったことがあるし、どう祭りにも御伴させてもらった。この地域の祭りは、多くの地域の人々が参加し、子どもからお年寄り、男性だけでなく女性も様々な役割を果たしている。まちなかでの練習、なおらいを通じてコミュニティの結束が強くなるし、まちが一つの舞台となる。一方、どう行列は、いわゆる見世物である。松江市が主催し、半日つかって、どうがまちなかを練り歩く。練習の成果を多くの人に見てもらう機会である。松江だけでなく島根からだけでなく、様々な地域から見物客が訪れる一大イベントである。

 どうそのものは地域に密着した存在で、各地域に一つ所有される。松江市内で30カ町程度が持っている。しかしどう行列そのものの様は、地域と密着しているとは言いがたい。とはいえ、自治体の主催によるそういった仕掛けが、どうを叩くという行為やみんなでいっしょに練習するという機会を存続させる大きな要因になっているのも確かである。見世物ではなく、まちや人と密着した本来の祭りのかたちを残すべきなのは確かだが、そのために、見世物という仕掛けが果たす役割も確実にある。

 ここヌガラのジュゴグの地域との密接した関係をみながら、そんなことを思った。

 最後はワークショップだった。音楽のワークショップは初めてだったので、いい経験になったと思う。まあ、一般的なワークショップと同じく、可能性と限界が垣間見えた。ほとんど自分で音楽を発することのない生活をしている自分にとっては、楽器を叩いたり、リズムをとったり、踊ったりすることは特異な経験であった。簡単なことからはじめて、それを繰り返す中で、徐々にレベルを上げていき、とりあえずの成果を全体で出し、達成感を共有する仕掛けがあった。音楽や踊りを身近に感じる機会となった。つまり入り口としては、こういったワークショップは有効であるが、単なる達成感があるだけで、なにか特別な技術が身についたわけではないし、音楽を構成するには、きちんとした修練が必要である。その部分に対しては、何もできないのである。

 司会は日本人。この楽団の主催者スウェントラ氏は日本語を流暢にしゃべる。聞くと奥さんが日本人だという。参加者も日本人のみ。バリにきて、バリ人に日本語をしゃべられ、日本人のみでワークショップに参加するという奇妙な体験であった。

 それにしても日本人がバリ文化の中枢にいることにいまさらながらに驚いた。もしかしたら日本人こそがバリ文化の継承と発展に大きく貢献しているのではないかと思えるほどである。神々の島バリに入れ込んで、バリ人と結婚し、日本を離れた女性がいる数多くいるのである。10年前はじめてバリにきたときには、地球の歩き方にそんな記事があったが、あまり目にすることもなかったし、一時的な気の迷いで、バカなことをするやつたちだといった認識しかなかった。しかし、今日のような例をみると、もしかしたらまんざらすてたもんでもない、と少し思った。一人40ドルもの大金をとって、日本人だけを集めて、日本語をしゃべるバリ人がいて、日本人がスタッフとして出てきて、講釈をたれる。基本的には、ものすごい嫌悪感を覚えるのであるが、なにかそこに希望のようなものを少し感じてしまったのである。

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