先生はえらい (ちくまプリマー新書)内田 樹筑摩書房このアイテムの詳細を見る |
ボクはこれまでえらい先生っていうのがどんなものか考えたこともなかった。
人のあら捜しばかりしてしまうタイプだったので、
偉そうにしてたって、どうせこれこれじゃないか的な(まるきり自身を棚にあげた)反感のようなものを抱いてきたような気がする。
まあ、そんな程度のことで守れるのは、そんな程度の自意識なわけで、反省が必要なのである。
先生はえらい!
なぜなら、偉いから先生なのである。
というシンプルな論理構造から始まる内田先生の高校生向けのこの本は、実は深い…。
最初の三行ほどで表題の結論を言い終えたため、のこり170ページほどはもうそれこそ自由自在に書き連ねておられる。なんてイイカゲンな!!
漱石、太宰、フロイト、ラカン、シャーロックホームズ、ロレックスはなぜ高いか、デヴィットリンチ『マルホランドドライブ』について、村上春樹の「うなぎ」・沈黙交易等々。
まったく、好き勝手にしゃべっている。
だからオモシロイ。
ところで、ボクが気にいった文章を一部抜粋。
◆ ◆ ◆
ここでたいせつなことをみなさんに一つ教えておきます。
それは、人間は―ほんとうに重要なことについては、ほとんど必ず原因と結果を取り違える―ということです。
◆ ◆ ◆
これって、けっこう難しい概念ですが、おわかりになりますか?
大切な人としゃべっていて、深い満足感を覚えるようなコミュニケーションを想定してみると、それは実は「言いたいこと」や「聴きたいこと」が先にあって、それがことばになって二人の間を行き交った…わけではありません。
そうではなく、二人のことばが行き交った後になって、はじめて「言いたかったこと」と「聴きたかったこと」を二人は知ることになる、そういう経験のことを言っています。
何かを伝えようとするとき、(それはたぶん、このブログにしてもそうですが)
僕らは語り終えるまでは、何を語りたいかを知らない。
不思議ですよね。本当に。
よくブログ書いているだよ、と友人に言うと「よくもまあ、そんなに言いたいことあるよね」と呆れられるけれど、
いやいや「言いたいこと」があったから書いているのではなくって、
書いた後になってはじめて、それが「言いたいこと」だったんだな、と気づくんです。もちろん、ボクの場合はですが。
というわけで、このブログを読み返すたび、本当にこんなことボクが書いたのだろうかしら、と思うことが多いです。