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親愛なる日記

僕が 日々見つめていたいもの。詩・感情の機微等。言葉は装い。音楽遊泳。時よ、止まれ!

2009年01月07日 | ことばの避難所
頭のなかがわいのわいのうるさくて眠れぬ。

言葉にしたくない言葉が沈殿していく 夜

もう音楽もいらない そんな暗闇

2009年01月02日 | ことばの避難所
思っていたよりずっと打ちのめされる言葉、言葉の先の安心、安心の先の悪意に。

歯並びの悪い笑顔が その笑顔にないやさしさが憎らしい。



UKERUU

2008年12月24日 | ことばの避難所
今さらですが、

「うける~」、という言葉


はっきり嫌いです。

発音する人、文字にする人、馬鹿かと思う。

って、こういうことを書くと、どうせまた角がたつんですが、

嫌いな言葉って、きっちり自分で認識した方がいいかな、と思って書き留めておこう。

「カワイイ」も似たようなところがあって昔は嫌いでしたが、最近は許せてきた。

そのうちファッション誌なんかで『UKERUU』なんて出版されるようになったら、

僕も「うける」を「うけいれる」ことにする。




でも、こういう若者批判(?)をしている時にはいつもブルーハーツの言葉を思い浮かべる。

「本当は 僕のことが 羨ましいんだろ」って。

でもね、マーシー、違うんだよ!

これは羨ましさじゃないんだよ。



僕は犬のように、周りの空気をクンクンと嗅ぎまわって、生きていたくないだけなんだ。君だってそうだろ。



煙草増税に賛成するかわりに

2008年12月12日 | ことばの避難所
送信者 日記用おぼえがき


煙草増税が見送られて、はっきりいって馬鹿馬鹿しさがぬぐえない。

上げるなら上げろや!と言いたい。

しかも、昨日の話題は1本辺り8円程度の値上げ…って、160円くらいじゃん。

1000円にしろよ!そういう話じゃなかったのか!

なんなら2000円でも3000円でもいいから上げろよ。と言いたい。


でも、その代わり条件がある。

箱のパッケージには、



「この製品の98%は高齢者医療費に充てられ、あなたの命と引き換えに-健康を切に願うー高齢者の命を救います」




と、昨今のばかばかしい表示を切り替えて欲しい。

自己犠牲的福祉精神として、赤い羽根以上にメディアで取り上げて欲しい。

NHKのアナウンサーも、胸ポケットからちらりとセブンスターを覗かせて欲しい。


つまり、値段は上げてもいいけど、その代わり付加価値をつけろよ、と。


ピンクのリボンなんかよりよっぽど有効な手段だと思うけど。


なんなら銘柄ごと、政策を変えたらもっとわかりやすい。

たとえば、ショートホープは労働者を応援します!売り上げは雇用者対策費に!

とか、

ダンヒルは地方都市のインフラ整備に賛同します!

とか、

セブンスターはたくさんの星が見えるような町を目指して夜は早く寝ます。


とか、(それ意味あんのか)とつっこみたくなるようなものもでてきて、楽しむ。


ってのはどうだろう。

そもそも税を目的別に徴収することは不経済だからそもそも建前だけで、実際は一元管理して、煙草の売り上げごとに振り分けたりすると楽しい。


こんな風に煙草の銘柄が一つの政治的決意表明になってきたりすると、

「お!あいつはマールボロ派かぁ、結構ノンポリだな。」

とか、

「あいつ、ああ見えてベンソン&ヘッジズなんか吸って、マザー・テレサ気取ってやがるぜ!」

なんて意見があちらこちらで聞こえてきたら、面白い。と思いませんか?

言葉は逃げてばかり

2008年12月10日 | ことばの避難所
送信者 空や木



レビューを書いたけど消した「空で歌う」中山智幸。


空で歌う
中山 智幸
講談社

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僕のこの持っていきようのない感情って、この本のせい。ではないが、いや、そもそも感情を誰かのせいにはできないが、発端はそこにあって。

それでも明日が来るので今日は寝よう。

風邪はやっているようなので、どうかお気をつけて。

既に風邪をひいているかたは、あまり無茶せぬように。

なんて、親父の小言みたいな終わり方。

だらだら言葉を逃がしているのはよろしくないね。

できることなら、日々考えていることが転送される技術でもできないかしら。

もう少しましなこと考えてるはずなんだが、机に向かうと言葉が飛ぶ。

言葉は散歩していたり、机に向かっていても心ここにあらずみたいな瞬間の方が冴える、気がする。

反省と失敗を繰り返しながら、いつまでも言葉を逃がし続けている。

数学であったでしょ、蛇口から水が出てきて水槽にたまり、水槽からは水が放出され続ける。

あの問題を見たとき、もったいない、と同時にふと寂しさが浮かんだ。

誰かが言ってたな、河川から海に注がれる水門を見たことがあるか、と。

それと似たような寂しさが、その問題の奥に潜んでいる。

だが、それはまた別の問題だ。

なんだか

2008年12月10日 | ことばの避難所
あんまり好き勝手なこと言っちゃ駄目だな…。と反省する今日この頃。

なんというか、現実的な発言をすると、角がたつんだよね、俺の場合。人間性に問題があるんだろうけど。


そんな憂鬱な気分をひきずって、夕食の支度をするのがとても嫌で、今日だけは料理なんかしたくない!って、主婦みたいなことを思ったりもしたけど、音楽を聴きながらハンバーグ作ってるうちに気分が紛れてきた。

そんな僕は自分でも甘っちょろいな、と思う訳です。

本当にこんな気分の時には、何も食べなくていいから、そっとしておいて下さい、って思っても子育てなんかしてたら子供は子供で構わず腹が減るだろうし、旦那は「めしは?」と帰るなり言うだろうし、そういう限界状態に置かれた主婦の気持ちを想像して、ああ、それは言葉にならないほど辛いなあ、俺なら発狂するかもな。

と、思った。

結局、自分勝手なんだよな、俺は。

自分のペースで動けなくなると、とたんにいらいらきてしまう。

そういう自分の子供っぽさをいい加減改善したいと思う、今日この頃。

ハイグレード化する結婚

2008年12月09日 | ことばの避難所
上野千鶴子が今朝の新聞で語っているのを読んだ。

今や結婚は「生活保障財」から「ぜいたく品」に変わりました。だから求める条件が上がったのです。と。

なるほど。言われてみればそうかもしれない。

今や、結婚などせずともどうってことはない。だから「一人」もライフスタイルの一つ。それはその通りだ。

でも、若いうちはいいけれど、歳をとってくるときつい。

僕のお婆は実質的にはほぼひとり暮らしをしている。しかも胃癌の手術以降体も弱ってきている。

お爺は20年近く前に病気で亡くなったから、それからずっと一人みたいなもんだ。

最近になっていよいよ体もうまく機能しなくなり、以前のように自由気ままな生活を続けることが難しくなってきている。

そこで、思う。

ライフスタイルの一種だと言うけれど、そのライフスタイルの最後を予測したことがあるのか、と。

人生の幸不幸は、どの時点で計るべきかを。

僕は思う。

死ぬまでわからないんだぜ、と。

だから僕は歴史に学ぶし、先人に学ぶ。

たかだが2、30年生きてきて、ライフスタイルなんて言えるのか?と。

時代は変わるかもしれない。

でも、時代はいつでも変わってきていたし、それは新たな判断の可能性ではあるが、保障ではない。


追記

でも、保障なんかそもそもどんなライフスタイルでもないんだから、俺ってば、やっぱり変なことを言っていると思い直しました。

ただ、自分がよぼよぼになったときに、傍に気を許せる人が(それが伴侶であれ、子であれ、友人であれ、ケアワーカーであれ)いないというのは寂しい。

とっても寂しいことだと思う。

僕にとっての二人の祖母を比べてしまって、その思いが募るばかり。

って、ことでタイトルにしたハイグレード化する結婚うんぬんからの話の運びはどうも論理的に破綻しているような気がする。いや、破綻している。

という訳で、歳とったときのことも少しは考えてみよう、くらいの話だととらえていただければ嬉しいのであります。

吹きあげ

2008年11月24日 | ことばの避難所
眠れない眠れない眠れない。

昨日は寒くて眠れなかった。

ある種のバランスを崩している。

その原因はおそらく9%のfull moon。

眠れない人は宛もなく物思いに耽るから性質が悪い。

それでも人は漆黒の闇に星の輝きを思いはせねばならない。

とするならばだ、この減退は想像力の欠如なのか?

答えておくれよ、カウボーイ、カウガール。


トウキョウソナタ

2008年11月14日 | ことばの避難所
映画が始まるシーンが印象的だった。

こんなにすっと始まる映画って今まであったかな?あれ?これCMだろうか、というくらいさりげなく、静かに語られる。

映像の美しさ、というほどの美しさは感じなかったけれど、最後まで席を立たなかったのだからそれほど悪くはなかったのかな。

幕開けに、僕が思ったのは、「別にこれ、観なくて良かったな」だった。

家族の不協和音にあまりリアリティーがなかった。少なくとも僕には。

それに、僕は映画評論家じゃないからキャメラワークがどうのこうの、視点がどうのこうのと評価されても、でも面白くないじゃん…とぽつり思うだけだ。

家族を描いた映画で、僕の記憶に鮮明に残った映画は、

「静かな生活」だ。

大江の健ちゃんと息子(意識障害がある)の淡々とした日々を、同じようにクラッシックをバックミュージックに綴るお話。

僕はこの映画で初めてイーヨー役の渡部篤郎という素晴らしい俳優に出会い感動した。

「クイナです。」

というセリフは今でも忘れません。

トウキョウソナタを観るくらいなら、多少古いですがこちらの方を僕はススメマス。

伊丹十三DVDコレクション 静かな生活

ジェネオン エンタテインメント

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追記

でも最近は考えを改め、この映画もなかなか興味深いものがあるのかもしれないな、と思いつつある。

脳裏に残るシーンが多い。

月のせい

2008年10月26日 | ことばの避難所
月の力が弱まっている。

こういう時期は気分的にダウなーに入りやすいのか、テンションがいまいちあがらない。何をやってももう一人の自分が茶々をいれる、そんな一人芝居。

女の子と同じように月に一度くらい何だか妙にいらいらしてしまい、肉が食べたくなる。肉は嘘。でもやっぱり月の満ち欠けに左右されている気がしてならない。人間だもの。平等に影響される、そう僕は思うな。うん。


で、そういう時はどうするかというと、出来る限りひっそりとすることにする。

あまり特別なことをしない。人ともできる限り会わない。部屋の掃除をしたり、鉛筆を削ったり、お風呂にゆっくり入ったり、音楽を聴いたり、映画を観たり。そうして夜はなるべく早く寝るのがよかろう、と思う。(そういつもいつもうまくいかないけれど)






つぶやき

2008年10月08日 | ことばの避難所
ひょんなことから、ひょんな出会いというものもあるものだ。

と、いうより、人間には不思議な磁力というものが備わっているのかもしれない。

アンテナを張ったとたん、パチパチと波長を捉えて人と人は繋がっていくのだ。

そういう偶然が好きだし、いつでもそうして偶然に任せた出会いを受け入れていきたい。



ある物語の結末

2008年10月03日 | ことばの避難所
さらば、

なぜも男と女は こうも 

無意味な

別れを

繰り返さなくては ならないのか 

君が 男なら

別段なんということも ないはずなのに。


律儀に規則を守り、お別れを言わなくてはならないのは

恐らく文化的習慣に過ぎない。

文化的儀礼といってもいい。

卒業式や始業式みたいなものだ。

ここからが始まりで、ここからが終わりと、いう線引き。

人はその線引きをつけ、自らのテリトリーも守り、生きていく。

そうして、僕らは歩き出す。

お互いに それでいいと思う方向へ。

どちらも振り返らない。

お互いに それでいいと思う方向へ。





凧、空にぷかり

2008年09月21日 | ことばの避難所
もう少し付け加える。追記だ。

短い文章、僕がいつも書いているような、投げっぱなしなやつは、言わば一枚の写真をトリミングする行為に似ていると思う。

周りの風景や写りこみを削り、僕の感覚で言いたいことやら、とくに言いたくもないけれど面白いと感じるフレーズをそのフレーズだけ切り取っていく。

いつか、全体として意味をなすかもしれないけれど、そこだけ取り出してもあんまりわからないかもしれない。


まあ、言い訳かもしれないけれど。


そもそも僕のこうした語り口を、誰の為に書いているのか正直今よくわからない。

言葉はその意図を失ったとき、すでに糸の切れた凧のようにどこにゆくか知れない。

ぷかり、ぷかり。空を漂うばかり。





黙祷

2008年09月01日 | ことばの避難所
一年のうちに何度かは、振り返り、思い起こしておくべき日付けというものがある。そんな日付に、果たして時(とき)は- 季節のように繰り返すものなのだろうか、誰も知るところではないが- 人は関わりながら生きていくのである。私もそうだ。

そんな訳で静かな休日を過ごした。

夕暮れには秋刀魚を焼きたかったけれど、やはりそんな日取りでもなかろうと思い鮪を生姜と漬け込んだものを焼いて食べた。

今や、そう安くもない秋刀魚を思い、鮪を食べた。

私の頭に浮かび、消えていく秋刀魚は、かつて私の脳裏に起こり、過ぎ去っていった-あるいは、いつまでも痕跡を残した-いくつかの過去に似ている。

でも私は鮪を食べ、そうして生きている現実を思う。

ああ、秋刀魚、ごめんよ、秋刀魚。

だって、今日はそういう日なんだよ。