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親愛なる日記

僕が 日々見つめていたいもの。詩・感情の機微等。言葉は装い。音楽遊泳。時よ、止まれ!

書き留める 1

2005年04月12日 | うたかたの日々
春は雨とともに過ぎていく。

今朝、桜の花びらを全身に身にまとったアウディが音もなく通り過ぎていくのを、電車の内からそっと見守りながら思った。

4月の雨は少しばかりもの狂おしい。

会社のラジオからもれたトラヴィスの声、満員電車の圧力(弾性の法則とはこれまさに)。


一人になればすぐにまた省みる自己。

そういう性分なんだろうな。

そうして気づくほど、すでにして決定的な間違いをしていることに気づいてしまう。


としたら恐いなあ。などとすぐ思う。


桜の下をほろ酔いで歩く夜。


線路はまだまだ私の前に続いているようだ。

やさしさって奴はさ

2005年03月23日 | うたかたの日々



御存じハナレグミのボーカル、永積タカシの声はとてもやさしい。

この声だけを聴いていると、ああなんてきれいな声なんだろう、この歌声の主はさぞやすてきな人なんだろうなあ、なんて勝手に想像してしまうのだが、実際にTVで彼を目にすると、えー!!という顔をしている。

まあ、そんなことはどうでもよくって、要は彼の声の話だ。

歌がうまいとか下手とかの次元の前に声がいい。

それって、とてもうらやましいのだ。



いつだって君はそうだね。

僕のことなのに

自分のことのように 喜んでくれるんだ

君の泣いたりわらったりが 僕のぬぐいきれぬ 傷だらけの日々に 色を添えてゆく


君といて 僕を知る 何も求めぬほどに 伝わるあい

何も 飾らぬほどに 深まるライフ


いつだって君はそうだね 僕のことを 見て

すくわれたよ なんて いうから 不思議なことさ


晴れたり曇ったり 変わりやすい僕の空

今日も君が遊びに来る 傘も差さずに


君といて 僕を知る 何も 求めぬほどに 伝わるあい

君といて 僕を知るよ 何も 飾らぬほどに 深まるライフ

追記

そうか、こんなの書いたことあったのか、と自分にびっくり。


愛と若僧―修正版―

2005年01月28日 | うたかたの日々
―我々はまたもや孤独になる―

と、サガンの言葉を思い出す時、そのまたもやの孤独とはどんな孤独であったのかと考える。

ということで僕は昔書いた文章を引っ張り出してきて、僕の孤独とはどんなものだったかと考えてみることにした。


愛にまつわることは至極面倒くさい。

なぜなら愛があったらあったで悩みはつきないし、愛が無かったら無かったでやはり思い悩んでしまうからだろう。


何気なく語り始めるのがよいと思う。

こういうことは大袈裟に言ってもいけないし、かといって小声で話してもいけない。


まず、苦しめ。次に酔い、あとは眠れ。


再び見た夢の中には…

いくつもの小鳥達が飛び交っていた。

真っ白な羽が 灰色の空には 救いだった。


気づかぬうちに歳をとった。

さりとて19年と11ヶ月。

もちろん若僧だ。

右と左の区別のつく若僧だ。

哀しみは無いが退屈かもしれない。空しくはないが熱情はない。

時間の凍りつく頃  私はよく「今」自分以外の人が何を考え、何を哀しみ、また喜び、どんな夢を見て眠っているのかと考える。この世でもっともよけいなことだ。


「君の知ったことじゃない。」

つまりどうでもいいことだ。

私はあなたのことを考えて眠ることも許されていない。


つまり孤独を言葉にすればそういうことになる。


ハウルの動く城で語る

2005年01月14日 | うたかたの日々
この映画について、少しばかり語る必要がある。

僕はこの映画を劇場で観た後、「なんじゃ!?こりゃ?」という不満の声を漏らしてしまったけれど、なんだかしっくりこない。

わからんのよ。

この映画はいいのか悪いのかわからん。

こんだけ魅せる映画なのに、さまざまな気持ち悪さが残る。

人の評価は真っ二つに分かれている。

掛け値無くいいよ!という人あれば、がっかりした、もう宮崎も終わった…という人もある。



こういう映画は要注意だ。


http://d.hatena.ne.jp/fumiya238/20041127


僕はこの映画を4回ほど見直してみた。

それでもわからん。










2005年01月09日 | うたかたの日々
家というものに関して考えていたら本当にわからくなってきた。

まず、都会に住むか、田舎に住むかの二択ができない。

何も考えずに東京に残ることを選択してしまった私だが、都会にしがみつく理由ははっきり言ってほとんどない。

今は仲間が多くいるというだけの話だ。

長い目で見れば、ここにずっと住みつづけることはやはり嫌だなあと思ってしまう。

僕には故郷はない。

生まれたのは京都で、育ちは静岡、どこも借家で、僕にとって故郷といえる家もないから帰る場所がない。

これは哀しいことだと思うのだ。

僕がどのくらいの稼ぎがあるかは果たして謎だが、僕の少ない稼ぎのなかで、一体どのような暮らしを夢見ることができるのだろうか。


そもそも僕は暮らしに対して何を求めているのだろうか。

生きていけるだけの場所があればそれで構わないとも思う。しかし、現に光の当たらないマンションに暮らし、ほとほと気が滅入ってしまう。

光が欲しい。光が。




ありがたさと美しさ

2005年01月08日 | うたかたの日々
ありがたいという感情と美しいという感情は似ている。

つまり、希少価値というものがある種美しさを規定するのだ。

ものすごいめぐり合わせに出会うとき、人は美しいと感じる。

特別な海に沈みゆく夕日もしかり、二人で見た星空もしかり。

女の体の美しさもまた、そのような希少性により感じる美しさってものがあるんじゃないのかしらむ。

負け犬・勝ち犬

2005年01月04日 | うたかたの日々
未婚・子なしが負けているかどうかはそれぞれ勝手に考えればいい。

誰だって孤独は嫌なものだし、結婚に対して憧れをもつものね。

勝ち・負けってのは比較で生まれてくる概念だから、たぶん、この言葉が人の心に残るのは他人と自分を比較してしまう人間の性質が原因なんだろうね。それに、結婚しているかどうか、子どもがいるかどうかは情報として比べやすいことだからね。

でもね、これってとてもナンセンスだと僕は思いますよ。

結婚したら幸せになれるわけでも、子どもが出来たら幸せになれるわけでもないもの。結婚や、子育てを契機にして幸せをつかんでいくことはもちろんあるだろうけど、結婚できたらはい幸せ、子どもできたらはい幸せ、なんてことがあるわけないじゃないですか。

人間は脆い生き物です。言葉や制度によって孤独から自分は逃れていますっていうお墨付きが欲しいんです。僕だって欲しいよ、お墨付き。

でもね、そんなものウワベだけなんですよ、そんなお墨付き貰ったところで自分と相手の関係性は常に不断の努力と思いやりでしか維持できない、そう思うべきですよ。

なんといいましょうか、負けにしても勝ちにしても犬になっちまうのは嫌ですよ。

猫でいいじゃないですか、猫で。

勝ち負けないですよ、猫は。


性的アナーキズム

2004年12月13日 | うたかたの日々
今朝は早起きをして学校に行った。

朝っぱらから高校生の性意識についての講義を受けるためだ。

教授曰く、人の性に対する認識はいくつかのカテゴリーがあると。

1、伝統的禁欲主義…かなり厳しい。セックスは子どもをつくるためにのみ行うもの。避妊を前提としたセックスは例え夫婦間であっても認められない。

2、修正禁欲主義…さすがに夫婦間での楽しむセックスぐらいは認めよう。婚前交渉なんか絶対だめ。

3、人道的自由主義…結婚を前提とすればしてもいいのではないか。

4、人道的急進主義…愛があればしてもいいのでは。

ここからがすごい。

5、快楽追求主義…楽しければしてもいいんじゃない。

6、性的アナーキズム…愛でも快楽でもないもののために性を明け渡すことを厭わない。強姦等の迷惑をかける行為でなければ、別になんでもありなんじゃん。結婚とか、そもそも制度がいらないよ。

らしい。

ちなみに現代の高校生の性意識はおおよそ4~6の間にあるらしい。例えば売春したりする女子高生なんかは第6段階に入るんだろう。

ところで男性諸君に問いたい。

男にとって、第五段階と第六段階との差ってなんだろう。

例えばホストとかになって気持ちの悪い人と寝ることができるのが第六段階?好きでもない同性愛者と寝てしまうこと?


昔、友人と据え膳を食う、食わぬの論議になった。でも、これは第四段階と第五段階の境にあるように思う。

愛でも快楽でもないもののために性を明け渡す―っていう想定自体、男にとってあまりにリアリティーがないように思われる。

この理由は極めて簡単で、

男性の性には女性の性ほどの商品価値が認められていないということ。

そしてもう一つ。

男はセックスによって喪失感を味わうことがない、ということだ。

つまり、感情に反して寝たとしても、それを自分の快楽として処理してしまえれば、それは女性ほどの痛手ではないという考え方だ。



これで納得できますか?



■■■僕はできません。



そして、今、性的アナーキズムにふさわしい人物を思いつきました。

小説『ノルウェーの森』に出てくる、永沢さんです。

彼は快楽のために女と寝るのではなく、するべきこととして女と寝ます。彼はそれを紳士たる為とし、自分の宿命のように捉えています。そして彼はこう言います。

「知らない女と寝てまわって得るものなんて何もない。疲れて、自分が嫌になるだけだ。」と。

永沢さんはたくさんの女性と寝ることによって疲れ、確実に何かを消費していきます。ところが、可能性がそこにある限り、彼はその行為を止めることはできないのです。

これってかなり悲劇だと思いませんか?■■■


と、言う訳で、ここであえて捉えなおしてみたい。


―男もまたセックスによって喪失する存在であるのだ―

と。

ここに気がつかないと、知らず知らずのうちに男もまた性的アナーキズムという深い穴に落ち込むことになる。

それは、セックスという行為がそもそもアンビバレンスなものだからだと僕は思っている。

『「恋する身体」の人間学』のなかで小浜逸郎が語っているように、性愛という領域は、すばらしい(陶酔)と、いやらしい(卑猥)という二面性を持っているのでしょう。美醜という正反対の価値観の中で置き場に非常に困った概念だと思う。
  
男の喪失というものはなかなか可視化されない。認知もされない。しかし、確実に存在する。そしてその喪失感というものは美醜を、その矛盾をそのまま飲み込むコトにあると思っています。

僕はこの第五段階と六段階との境目が個人に与える影響力を重く捉えています。

この矛盾に気づきながらもそこから逃れられなくなった人のことを、性的アナーキストと呼べるのだと思うのです。

まず愛を捨て、次に自己を消してしまう、その先にあるのです。


この話、全然わからない人には全く余計なお世話だけれど、実際のところ見えない性的アナーキストって案外多いのではないかと思ってついつい長話になってしまいましたが。

あなたはどうでしょう?








思考中

2004年11月19日 | うたかたの日々
僕の思考方法は煙草を吸っているようなもので、火をつけて吸っては短くなり、灰皿に押しつけては消し。

たぶん、馬鹿なんじゃないかとよくよく思う。

たまたま投げた矢が刺さり、先に進む。そしてまた煙草に火を点ける。

「あなたはいつだって結論を出さず、可能性をめぐらしてみてはそれを放棄してるだけじゃない。」

そんなことを言われたことがあり、僕もその通りだと思ったのを今思い出した。

世の中には、見えないルールがある。


けれどもそれは暗黙の了解であって、きちんと機能しないこともある。

オセロでいえば―白いコインで挟んだ黒いコインがひっくり返らない―といったことが起こる。起こりえる。

この場合、おいおい、それではルールにならないよと言ったとしても、この声は黙殺される。

そういうことも時にはあるのだよ、と誰かが物知り顔で語り、僕はなるほどそういう世界かと呟く。

白黒が実にはっきりしているくせに、白黒つけるシステムにはほころびがあるんだな、と。

まあどうでもいいことなんだけどね。

その不完全なルールの不完全さを前提としたならばだ、結論なんかだせないじゃないか。

そういいたくもなるさ。

でもだす。

なぜならば、僕はどこかへ行きたいから。

ここではないどこかへ。


ジョゼと虎と魚たち

2004年11月01日 | うたかたの日々
気に入らなかったくせになにかもの申したくなる映画ってありませんか。自分の中でなにか腑に落ちなくて、気がついたら映画の断片やなにかをふと考えてしまうのです。

『ジョゼ…』はそういう種類の映画でした。

そういう映画を観ると非常に困ります。好きではないのに語りたい。違うんだ、これではダメなんだと表明したい、そんな気分になるのです。

個人的には妻夫木聡のさわやか笑顔がむずがゆくて嫌なんだけど、僕が否定したいところはまた別のところにあるんだろうな。

たぶん、自分の好きな女を他の男にとられた上に、その男が彼女とつまらない理由で別れたのを知った時みたいな苦々しい感情なのかしら。

なんにしても池脇千鶴、名演技だなーー。そこに尽きるな。うん。