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『宇都宮教会のいろいろ』   ☆ブックマーク欄「宇都宮教会ホームページ」も併せてご覧ください。

インマヌエル宇都宮基督教会牧師 山田 隆・勢津子
 TEL 028-621-8661 ※24時間対応しております

カテキズム(教理問答)

2014年04月04日 06時12分56秒 | インポート
【聖書】

問59 旧約聖書、新約聖書それぞれの役割はなんですか?
答 ① 旧約聖書は私たちの救いのためにイエス様の必要なことと、やがてイエス様が来られるということを教えています。
答 ② 新約聖書は、イエス様が来られたことと、このイエス様によって私たちが救われるということを教えています。

問60 旧約聖書の数はいくつありますか?
答   39です。

問62 新約聖書の数はいくつありますか?
答   27です。

※インマヌエル少年文庫5  カテキズム(教理問答)より引用しました。

聖書、神様について知りたい方は教会の門をたたいてください。
教会は毎週日曜日:10:45~礼拝、火曜日:10:30~聖書に学ぶ会、
木曜日:11:00~ミニチャーチ集会

聖書からお話をしております。



牧師・聖書に学ぶ会(要約)

2014年04月03日 07時13分13秒 | インポート
・新しい来会者のための祈り

・学んだ聖書の個所。ルカ2:41~52
2:41 さて、イエスの両親は、過越の祭りには毎年エルサレムに行った。
2:42 イエスが十二歳になられたときも、両親は祭りの慣習に従って都へ上り、
2:43 祭りの期間を過ごしてから、帰路についたが、少年イエスはエルサレムにとどまっておられた。両親はそれに気づかなかった。
2:44 イエスが一行の中にいるものと思って、一日の道のりを行った。それから、親族や知人の中を捜し回ったが、
2:45 見つからなかったので、イエスを捜しながら、エルサレムまで引き返した。
2:46 そしてようやく三日の後に、イエスが宮で教師たちの真中にすわって、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。
2:47 聞いていた人々はみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。
2:48 両親は彼を見て驚き、母は言った。「まあ、あなたはなぜ私たちにこんなことをしたのです。見なさい。父上も私も、心配してあなたを捜し回っていたのです。」
2:49 するとイエスは両親に言われた。「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」
2:50 しかし両親には、イエスの話されたことばの意味がわからなかった。
2:51 それからイエスは、いっしょに下って行かれ、ナザレに帰って、両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。
2:52 イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。


「イエスはだれに対して自分の父と言っていますか?
このことからイエスがすでにご自分についてどのような自覚を持っておられたかがわかりますか?」



牧師・ミ ニ チャーチ集会(兼祈祷会)(要約)

2014年04月02日 02時57分29秒 | インポート
・祈りの諸課題の祈祷
・献身を控えているO姉の証し、他。
・聖書:主牧 1.テサロニケ4:16~18
「4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
4:18 こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。」


キリストはこの世に再度臨まれる。その時、墓にいた者、生きているキリスト者は、変えられて、空中のキリストのところに上ります。いつまでもキリストと会い、いつまでも過ごすことになります。宇治の平等院に行って来臨する如来(集団)が雲に集団で乗っている姿が壁に描かれているのを興味深く見ました。人はいつでも、どこでも、現世の苦しみから救われることを願望して、来世の救済と幸せを願っていることを教えられます。キリストの来臨は言うまでもなく、唯一の神の御子としてです。具体的には、号令、御使いの頭の声、神のラッパの響きのうちにです。やがて、御国の実現の前に、人々が裁かれます。目をさまして、この時を待ち望みましょう。
・会食のおもてなしの時



牧師・今月のことば

2014年04月01日 05時12分45秒 | インポート
  牧者の広場 4月

『遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。』
 このくだりは新約聖書ローマ人への手紙13章13,14節のことばです。4世紀に活躍した、教会教父の一人であるアウグスチヌスがここを読んで回心した聖句です。キリスト教への彼の貢献は、プロテスタントもローマ・カトリック側も、同じく敬意を払っている人物です。筆者の出た聖宣神学院で習った教科書から、彼の回心のところを引用します。
「386年、彼の生涯における回心の転機が臨んだ。或る日、庭で、自分が霊的に行きづまってしまったことを黙想していたとき、「手にとって読め」という声を聞いた。アウグスチヌスは自分の聖書を開いた。そこはローマ人への手紙13章13、14節であった。読むや光明がかれの魂に臨んだ。それはマニ教でも新プラトン主義でも見出すことのできなかった光明であった。妾を離別し、修辞学の教職をすてた。彼の回心のため永年祈ってきた母は、彼がバプテスマを受ける直前に死んだ。カルタゴに戻った彼は、391年、聖職に任ぜられた。・・・彼は最大の教父と称賛されている。アウグスチヌスの著述で最も有名なのは、彼の『告白』である。」
 私たちは彼のような罪の体験や著述の貢献は無いかも知れませんが、心の動機まで含んでの罪の告白、回心と赦しと救いの神経験は同じで、変わりありません。だれにでも神の赦しと光明がさしこむのです。
 罪深く生きていて、あげくの果てに、何かの中毒にかかり、霊と心と体をだい無しにしてしまっている人々に世は満ちていると言えないでしょうか。事の始まりは、小さな罪から始まっています。親や心ある方のことばへの反発、万引き、仲間のいじめ、偽りに満ちて、それらは他を殺すことにもつながっているのです。高位にある方々も、罪を悔いて出ないなら、罪に定められるのは、司法の世界でも明らかです。神は罪あるこの世の人々のため、罪のない御子を罪に定め、身代わりの死をとげておられます。あなたも、まともな神を愛し、恐れ生きる恵みをいただくためです。悔い改めと高揚は世に失われてはいません。一時の「つらい」と思えることは、赦しといやしと栄誉が伴うことを学ぶ社会、国であっていただきたいものです。
 電話でご相談をいつでも受けております。近くの教会も紹介します。これらを読んでくださる方々に神の祝福がありますように。

宗教法人 インマヌエル宇都宮キリスト教会   牧師 山田 隆




牧師・礼拝メッセージ(要約)

2014年03月31日 05時57分03秒 | インポート
【先週の礼拝説教回想】 3月23日
・説教者 山田 隆牧師
・引照聖句 雅歌1:1~11節
・説教題 私は黒いけれど美しい
▼雅歌 日本語訳では「雅歌」としている。ヘブル語聖書では、本書を「歌の中の歌」つまり「最上の歌」と呼びます。
 ソロモンとシュネムの女との高雅な愛と肉体の美、魅力を歌ったもの、夫婦間の愛を歌っていると言えるでしょう。巷間でそれと言われるようなものとは全く異なるものを秘めています。日本の明治時代に宣教師として来日し、素晴らしい足跡を残した英国人B・F・バックストンは、キリストと進んだ信仰者との間にある深き愛の交わりとしています(有馬の修養会で「雅歌」の連続講義を米田豊師が筆記した本から)
 その他、著名な方々の賛辞があります。
 ソロモンに愛された、会話するこのシュネムの女は、1:4に「私はあなたによって楽しみ喜び、あなたの愛をぶどう酒にまさってほめたたえ、真心からあなたを愛しています。そして5節「私は・・・黒いけれども美しい。」(単数)と恥じらいながら明快に告白してます。
▼私たちの信仰は、キリストによって愛されていることを知っていることに基づいてなされます。ダビデが荒野にいたときの賛歌、詩篇63篇の1節に「私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。」と叙述されています。それは心も霊も体も主の愛に渇いていることを意味しましょう。
▼確かで、確実に答てくださるキリストの愛から、主との深い交わりに進みましょう。
人と人との間は、だれを問わず、不確か、不確実要因があることが多いのです。ご夫婦の間でも、熱愛の間にある恋愛中の方々でも、不確定要因にしばしば悩まされているのではないでしょうか。ところが主は「回転の陰のない」方ですから、ご安心なさいませ。山は動いても神の愛と真実は変わらないばかりか、ますます、確かになりましょう。まず、神の愛をいただくことから始まります。これが基本条件です。人と人とがもしそうであるならば、主イエスは人と人との間にあって、人が求めて止まなかった至福が自分たちのものになるとは明らかです。
私たちは確かに神に愛されていることは確かです。でも忘れてはならないことは、罪を赦された痕跡を残していて「黒い」のです。それでも「美しい」というのは、主の方からの語りかけと関係によります。主も、私たちの霊も、聖霊とともに、神の子として愛されていることを知っていますね。したがって、主はそう告白されるように私たちに願っていることも確かになります。そうでなければ、物足りない愛された者になりやしまいか。
▼しかし、主にあれば「黒いけれど美しい」と確信しましょう。


牧師・エッセイ

2014年03月30日 15時52分51秒 | インポート
『 わたしを愛する者をわたしも愛する。私を熱心に探す者は、わたしを見つける。』(箴言8章17節)

祈り
☆4月4日のO姉のBTC入学式 。
☆4月3日のS・K姉の東京女子大の入学式。
☆S家の送別会を4月 イースターの聖日(4月20日)に兼ねて行う予定となりました。色紙を用意しますので寄せ書きに参加しましょう。
☆H・Hさんは、中学生になられるとのお知らせを受けております。他に入学や進級などのあるご家庭がありましたらお知らせください。
☆病める方々の健康と救いのために。一同の家族、関係者の救いのために。
☆H医師の実父の手術は24日、成功したとのことです。

♪今週半ばの集会♪
4月 1日(火)聖書に学ぶ会     10:30~
4月 5日 (土) 公園CS        15:00~ ニュー富士見ヶ丘2号児童公園
教会028(621)8661

教会学校金言? 『互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい』(コロサイ人への手紙3章13節) イエスを信じる者は、赦し受け入れ合う神の家族であることを学びました。

ガーデンスポット
梅  椿  サンシュユ(山茱萸)  土佐水木  椎茸

次聖日の礼拝説教 ヨシュア記14章6節~14節「カレブの壮健な信仰」


永遠の言葉

2014年03月29日 05時48分07秒 | インポート
あなたの明日のために
未公刊講演記録を中心まとめた三浦綾子の珠玉の言葉『永遠の言葉』
―人生について― P104、105
 自分のほうに非を認めることができる人間になったときに、ほんとうに自立しているといえるんじゃないかと思うんですね。で、そういうときにはですね、力まないですね。

 わたしたちはともすれば、砂の上とか海の上とかに立っているところがあるような気が
します。船の上のグラグラするところとか。しょっちゅうぐらぐらする。ほんとうに自分
の足で立つということには、限界がありますから、立つ場所ということは、まず大事なん
です。その立つ場所は、皆さんでさがしていただければいいと思うわけですけれども。自
分の立つ地盤を自分で選ぶということ。それが自立の始めであり、終りであるというふう
に私は思います。

三浦綾子著「永遠の言葉」(主婦の友社)より引用しました。A.O


教会員証「無限の感謝」

2014年03月28日 05時42分48秒 | インポート
―家庭での祈りの壇―
 家庭での祈りの壇の営みをおあかししたいと存じます。朝が主ですが、部屋や家族構成の関係で密室は特別ありません。しかし、寝床の上を祈りの壇として「絶えず祈」って参りました。6時半から40分間ほどそのために用います。ます朝起きて祈ります。祈りの内容は、イエス様の御愛と憐れみのゆえにこの朝も強められて迎えることが出来たことを感謝し、今日も一日を、救われ生かされている者にふさわしく過ごせるよう、隣人を愛し、良きあかしができて主に喜ばれるように祈ります。この後、教会のため、先生方の健康と善戦のため、内外の主に在る兄弟姉妹のあかしと恵みのため、知人や隣人のため、それから身内のため、ハンドルを握っている家族や従業員の守りと安全と祝福のために祈ります。
 聖書の通読は旧約1章、新約1章、詩篇1章を拝読します。
 夕べには、今日もここまで守り、強め、平安のうちに一日を送ることができました幸いを感謝し、聖名をあがめます。
 殊に問題、課題、試練に直面した時は、 「事ごとに祈りをなし、願をなし、感謝して、汝らの求めを神に告げよ」、「何にても信じて求めば、ことごとく得べし」 の聖言を信じ祈って参りました。昨年の病の癒しを与えられてからは無意識の内に、祈りに熱が、力が入ります。(故M.N姉証「無限の感謝」より)最終回


牧師・聖書に学ぶ会(要約)

2014年03月27日 04時55分58秒 | インポート
・関係者と新しい来会者のための祈り
・学んだ聖書の個所。ルカ24:41-52
2:41 さて、イエスの両親は、過越の祭りには毎年エルサレムに行った。
2:42 イエスが十二歳になられたときも、両親は祭りの慣習に従って都へ上り、
2:43 祭りの期間を過ごしてから、帰路についたが、少年イエスはエルサレムにとどまっておられた。両親はそれに気づかなかった。
2:44 イエスが一行の中にいるものと思って、一日の道のりを行った。それから、親族や知人の中を捜し回ったが、
2:45 見つからなかったので、イエスを捜しながら、エルサレムまで引き返した。
2:46 そしてようやく三日の後に、イエスが宮で教師たちの真中にすわって、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。
2:47 聞いていた人々はみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。
2:48 両親は彼を見て驚き、母は言った。「まあ、あなたはなぜ私たちにこんなことをしたのです。見なさい。父上も私も、心配してあなたを捜し回っていたのです。」
2:49 するとイエスは両親に言われた。「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」
2:50 しかし両親には、イエスの話されたことばの意味がわからなかった。
2:51 それからイエスは、いっしょに下って行かれ、ナザレに帰って、両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。
2:52 イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。


<イエスの両親>
設問その1.イエスはだれを自分の父と言っていますか。このことからイエスがすでにご自分についてどのような自覚を持っておられることが分かりますか 。


 牧師・余白余録

2014年03月26日 05時31分26秒 | インポート
D・F・キンロー著 エマオの道で 7/7より   
神に近づく礼拝『み名を知る者はあなたに寄り頼みます。』(詩篇9:10)
だれかに自分の名を教えるということは、その人とこれまでとは違ったより深い関係に入ることを認めているのです。事実、自分の名前を教える行為は相手に自分を幾分かでも支配する力を与えることになります。今や私の名前を知ったその人が私たちの注意や関心を引き寄せる力を持ちます。あるいは名前を教えることによってより親しい関係にその人を招き入れたことになります。この親密な関係を築きたいという願望こそが、旧約聖書の中で「ヤハウェ」という主の御名がきわめて強調して扱われている理由です。また新約聖書でもイエスという御名の中に神の慈愛が明確に語られています。詩篇にあれほど頻繁にヤハウェ(主)という御名が登場する理由もここにあります。詩篇の記者たちは、神ご自身が彼らにとって本当に個人的な関係をもってくださる方だということを語ろうとしているのではないでしょうか。全世界を統治されている神がわたしたちに、「私の名を知って欲しい。わたしのそば近くに歩んで欲しい。私ともっと深い親しい関係を築いて欲しい」と願っておられるのです。