【先週の礼拝説教回想】 3月23日
・説教者 山田 隆牧師
・引照聖句 雅歌1:1~11節
・説教題 私は黒いけれど美しい
▼雅歌 日本語訳では「雅歌」としている。ヘブル語聖書では、本書を「歌の中の歌」つまり「最上の歌」と呼びます。
ソロモンとシュネムの女との高雅な愛と肉体の美、魅力を歌ったもの、夫婦間の愛を歌っていると言えるでしょう。巷間でそれと言われるようなものとは全く異なるものを秘めています。日本の明治時代に宣教師として来日し、素晴らしい足跡を残した英国人B・F・バックストンは、キリストと進んだ信仰者との間にある深き愛の交わりとしています(有馬の修養会で「雅歌」の連続講義を米田豊師が筆記した本から)
その他、著名な方々の賛辞があります。
ソロモンに愛された、会話するこのシュネムの女は、1:4に「私はあなたによって楽しみ喜び、あなたの愛をぶどう酒にまさってほめたたえ、真心からあなたを愛しています。そして5節「私は・・・黒いけれども美しい。」(単数)と恥じらいながら明快に告白してます。
▼私たちの信仰は、キリストによって愛されていることを知っていることに基づいてなされます。ダビデが荒野にいたときの賛歌、詩篇63篇の1節に「私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。」と叙述されています。それは心も霊も体も主の愛に渇いていることを意味しましょう。
▼確かで、確実に答てくださるキリストの愛から、主との深い交わりに進みましょう。
人と人との間は、だれを問わず、不確か、不確実要因があることが多いのです。ご夫婦の間でも、熱愛の間にある恋愛中の方々でも、不確定要因にしばしば悩まされているのではないでしょうか。ところが主は「回転の陰のない」方ですから、ご安心なさいませ。山は動いても神の愛と真実は変わらないばかりか、ますます、確かになりましょう。まず、神の愛をいただくことから始まります。これが基本条件です。人と人とがもしそうであるならば、主イエスは人と人との間にあって、人が求めて止まなかった至福が自分たちのものになるとは明らかです。
私たちは確かに神に愛されていることは確かです。でも忘れてはならないことは、罪を赦された痕跡を残していて「黒い」のです。それでも「美しい」というのは、主の方からの語りかけと関係によります。主も、私たちの霊も、聖霊とともに、神の子として愛されていることを知っていますね。したがって、主はそう告白されるように私たちに願っていることも確かになります。そうでなければ、物足りない愛された者になりやしまいか。
▼しかし、主にあれば「黒いけれど美しい」と確信しましょう。
・説教者 山田 隆牧師
・引照聖句 雅歌1:1~11節
・説教題 私は黒いけれど美しい
▼雅歌 日本語訳では「雅歌」としている。ヘブル語聖書では、本書を「歌の中の歌」つまり「最上の歌」と呼びます。
ソロモンとシュネムの女との高雅な愛と肉体の美、魅力を歌ったもの、夫婦間の愛を歌っていると言えるでしょう。巷間でそれと言われるようなものとは全く異なるものを秘めています。日本の明治時代に宣教師として来日し、素晴らしい足跡を残した英国人B・F・バックストンは、キリストと進んだ信仰者との間にある深き愛の交わりとしています(有馬の修養会で「雅歌」の連続講義を米田豊師が筆記した本から)
その他、著名な方々の賛辞があります。
ソロモンに愛された、会話するこのシュネムの女は、1:4に「私はあなたによって楽しみ喜び、あなたの愛をぶどう酒にまさってほめたたえ、真心からあなたを愛しています。そして5節「私は・・・黒いけれども美しい。」(単数)と恥じらいながら明快に告白してます。
▼私たちの信仰は、キリストによって愛されていることを知っていることに基づいてなされます。ダビデが荒野にいたときの賛歌、詩篇63篇の1節に「私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。」と叙述されています。それは心も霊も体も主の愛に渇いていることを意味しましょう。
▼確かで、確実に答てくださるキリストの愛から、主との深い交わりに進みましょう。
人と人との間は、だれを問わず、不確か、不確実要因があることが多いのです。ご夫婦の間でも、熱愛の間にある恋愛中の方々でも、不確定要因にしばしば悩まされているのではないでしょうか。ところが主は「回転の陰のない」方ですから、ご安心なさいませ。山は動いても神の愛と真実は変わらないばかりか、ますます、確かになりましょう。まず、神の愛をいただくことから始まります。これが基本条件です。人と人とがもしそうであるならば、主イエスは人と人との間にあって、人が求めて止まなかった至福が自分たちのものになるとは明らかです。
私たちは確かに神に愛されていることは確かです。でも忘れてはならないことは、罪を赦された痕跡を残していて「黒い」のです。それでも「美しい」というのは、主の方からの語りかけと関係によります。主も、私たちの霊も、聖霊とともに、神の子として愛されていることを知っていますね。したがって、主はそう告白されるように私たちに願っていることも確かになります。そうでなければ、物足りない愛された者になりやしまいか。
▼しかし、主にあれば「黒いけれど美しい」と確信しましょう。