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インマヌエル宇都宮基督教会牧師 山田 隆・勢津子
 TEL 028-621-8661 ※24時間対応しております

牧師・聖書に学ぶ会

2013年02月28日 06時31分02秒 | インポート
○新しい来会者のための祈り
○学んだ聖書の箇所。使徒の働き17章16~34節
パウロを案内した人たちは、彼をアテネまで連れて行った。そしてシラスとテモテに一刻も早く来るように、という命令を受けて、帰って行った。さて、アテネでふたりを待っていたパウロは、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じた。そこでパウロは、会堂ではユダヤ人や神を敬う人たちと論じ、広場では毎日そこに居合わせた人たちと論じた。
エピクロス派とストア派の哲学者たちも幾人かいて、パウロと論じ合っていたが、その中のある者たちは、「このおしゃべりは、何を言うつもりなのか。」と言い、ほかの者たちは、「彼は外国の神々を伝えているらしい。」と言った。パウロがイエスと復活とを宣べ伝えたからである。そこで彼らは、パウロをアレオパゴスに連れて行ってこう言った。「あなたの語っているその新しい教えがどんなものであるか、知らせていただけませんか。私たちにとっては珍しいことを聞かせてくださるので、それがいったいどんなものか、私たちは知りたいのです。」アテネ人も、そこに住む外国人もみな、何か耳新しいことを話したり、聞いたりすることだけで、日を過ごしていた。そこでパウロは、アレオパゴスの真中に立って言った。「アテネの人たち。あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております。私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に。』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。《24節》また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。
神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である。』と言ったとおりです。そのように私たちは神の子孫ですから、神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」死者の復活のことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、ほかの者たちは、「このことについては、またいつか聞くことにしよう。」と言った。こうして、パウロは彼らの中から出て行った。しかし、彼につき従って信仰にはいった人たちもいた。それは、アレオパゴスの裁判官デオヌシオ、ダマリスという女、その他の人々であった。


読んだ結果の問い例 『なぜ、偶像を作ったり、崇拝したりするのは、真の神に近づくための手段として適当ではないのでしょうか。(24節)


カテキズム(教理問答)

2013年02月27日 05時30分55秒 | インポート
【人間の救い】
問41 クリスチャン(イエス様を信じた人はどのように生活すべきですか。
答①   日々、聖書を読み、神様のみこころを知るべきです。心から信頼してそのみこころに従って生活をしていくことです。
聖書 「ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。」(使徒の働き17章11節) (詩篇119篇105節)(コロサイ人への手紙3章16節)

答②   絶えず祈るべきです。
聖書 「絶えず祈りなさい。」(テサロニケ人への手紙第一5章17節)(ルカの福音書18章1節)(マタイの福音書26章41節)(エペソ人への手紙6章18節)
答③   教会の集会に出席し続けるべきです。
聖書 「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」(ヘブル人への手紙10章25節)
答④   良心的に、神様からの光に従い,全き潔めを目指して歩むべきです。
聖書 「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(ヨハネの手紙第一1章7節) (ヨハネの福音書8章12節)(エペソ人への手紙5章8節)
答⑤   イエス様の証し人として生活し、周りの人々にイエス様の救いを伝えて上げるべきです。
聖書 「ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。」(マタイの福音書10章32節)
「あなたがたは、これらのことの証人です。」(ルカの福音書24章48節)
(テモテへの手紙第二4章2節)

インマヌエル少年文庫5  カテキズム(教理問答)より引用しました。A.O

聖書、神様について知りたい方は教会の門をたたいてください。
教会は毎週日曜日:10:45~礼拝、火曜日:10:30~聖書に学ぶ会、
木曜日:11:00~ミニチャーチ集会で
聖書からお話をしております。


牧師・余白余録

2013年02月26日 05時18分27秒 | インポート
堀 肇著 [心の部屋を空けて] (いのちのことば社)
『長時間にわたって人の悩みを聞き続けて疲れはてたとき、決まってかつて読んだ本に書かれていたある精神分析医の言葉を思い出すのです。 「愛とは相手のために相手本位に時間を与えるということである。・・・心病む人は自分本位の時間を治療者が共有してくれるという体験によって癒されるのだと考えられる・・・」この心理臨床確信をついた言葉は、私の心に忘れない刻印を残しています。確かに、人は悩んでいる時には他人のことなどを考える余裕はありません。みなひたすら自分のことを語り続けます。しかもそのほとんどが一方的にと言っていいほどです。その意味で悩んでいる人の話は「自分本位」なのかもしれません。心に余裕がないのです。しかし、人の心が癒されるには「自分本位」にさせてくれる相手が必要なのではないでしょうか。最近のことですがこれはただ面接や電話だけでなく「手紙」でも同じことではないかと思うことがありました。形式は変わっても、書くことも聞いてもらうということなのです。いただく手紙の中で便箋十枚を超えるものも珍しくないのですが、しばらく前、お会いしたこともない方からの小型の便箋で、一度に七十枚以上にも及ぶ手紙をいただき圧倒される経験をしました。・・・「つらい、苦しい、会ってお話をしたい」・・・というようなこちらも苦しくなるようなものでした。』PP79-80


牧師・礼拝メッセージ(要約)

2013年02月25日 05時20分05秒 | インポート
【先週の礼拝説教回想】 2月 17日
・説教者 山田 隆牧師
・引照聖句 マタイの福音書7章6~14節
・説教題 黄金律を囲んで
▼先々回は、エペソ6:2『「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。』先回は「教えの基」として学びました。
今回は黄金律と言われる、マタイ7:12「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」(ルカ6:31「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。」)から学びたい。ここに来るまで、理解が鋭敏な方は、悪い個人や他国家が国に侵略して来たらどうするとなりましょうか。
ヘンリ-・H・ハ-レイは「黄金律は兵役免除の根拠としては十分でない。イエスが語っておられた相手は個人であり、政府ではない。政府は神によって制定されている(ロマ13:1~7、1ペテロ2:3~17)。犯罪の諸要素は抑制されなければならない。イエスは、ご自分の国がカイザルの国の中に存在していると明言なさった(マタイ22:21)。教会加入を許された最初の異邦人はロ-マ兵であったが(使徒10:1)兵役の放棄は要求されなかった。裁判官、警察官、軍人は、法律または政府の官吏として正義の原則に厳格に従わなければならないが、個人としては極力、心と生活において、黄金律を実行してもよい。政府もある点で、ある限度まで、黄金律に従い得る。しかし、もし圧力がすべて放棄されれば、現実には無秩序の混乱が生じる。この点についてはっきりした考えを持つ必要がある。どんなに戦争を憎悪しても、キリスト者は黄金律を、自由のための戦いを他人に任せる言い訳にしてはいけない。一方、深い確信から、兵役に意識的に反対している人々もいる。各自が他人をさばくことなく、自分の心に十分な確信を持っているべきである。』
●イスラエルの初代王サウル王の長子ヨナタンは立派な人物で勇士であった。自分より優る臣下のダビデを愛し、父はダビデをねたみ殺そうとしたがこれを阻止することに努めた。
●列王6:22『エリシャは言った。「打ってはなりません。あなたがたは自分の剣と弓でとりこにした者を打ち殺しますか。彼らにパンと水をあてがい、飲み食いさせて彼らの主君のもとに行かせなさい。」と捕虜にした敵の処遇を自国の王に言い、実行させました。アラムの略奪隊は、二度とイスラエルの地に侵入して来なかった。」と書かれています。主イエスと、聖霊と、戦われる天使は見方になられることを心に留めましょう。
▼この囲みの中で主イエスが語られた黄金律を実行しましょう。


牧師・エッセイ

2013年02月24日 16時12分50秒 | インポート
『私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。』
(ヨハネの手紙第一3章14節)


祈り
☆2月25日、栃木聖化交友会がホーリネス宇都宮教会でもたれます。
☆現在のリーフは野沢町に配られています。
☆教団年会は3月12日~14日です。
☆3月24日棕櫚の聖日、3月31日イースターです。

♪今週半ばの集会案内♪
2月26日(火)聖書に学ぶ会   10:30~
2月28日(木)ミニチャーチ集会 11:00~
3月 2日(土)公園CS     15:00~場所:ニュー富士見ヶ丘2号児童公園
2月28日の場所については教会にお問い合わせください。
教会?028(621)8661

教会学校金言? 「彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」(イザヤ書53章12節) 自分の思いではなく、神のみこころに従う信仰をもつ大切さを学びました。

ガーデンスポット
蠟梅  紅梅の蕾み 

次聖日、3月3日の礼拝説教 ローマ人への手紙3章18節~30節
「信仰によって義とされる」


ふれあい

2013年02月23日 05時08分27秒 | インポート
〈裁く背に裁く目〉
 大相撲の立行司を勤めた木村庄之助さんが新聞に、「裁く背に裁く目」と題して感想を述べていらっしゃいました。
 行司は軍配を一瞬のうちに東か西に上げなければなりません。だれが見ても勝敗が明らかなら、戸惑うことなく軍配を上げることができるでしょうが、「ウチワを真中に上げたくなる時・・・」もあるのだそうです。そこで「裁く背に裁く目」なのです。つまり、自分が軍配を上げて裁いている背中を、何人もの検査役やカメラの目がしっかり見ているというわけです。行司はお相撲さんのさばきを託されているわけですから、さばき違いをしないように、しっかりした目を養い、華麗に軍配を上げることに専念すればよいわけです。
 しかし、毎日の生活で、私たちは、他者をさばくことをだれかに託されているわけではありません。それなのに、自分のことを棚に上げて、人をさばくことがないでしょうか。
 キリストは言われました。 「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」(マタイの福音書7章1節、2節)
 人の悪口を言っていると、やがてそれが自分に返ってきます。「あなたがたがさばくとおりにさばかれるのです」の通りです。人を批判したり悪口を言ったりしているうちは、気分がいいようですが、いったん自分が言われるようになると、どんな気分でしょうか。だれでも叩けば埃が出るからだです。よいところを一つでも多く捜し、ほめることができ、喜ぶことができる大きな器になりたいものです。
 ところで、ほんとうに正しく厳しく、徹底してさばくことのできる方は、全知全能の神お一人だけです。聖書は、この神の前に、すべての人は罪人であると断言しているのです。
 「裁く背に裁く目」ということばを自分に当てはめたいものです。また、私たち人類に臨む神のさばきをすべて引き受け、身代わりにさばかれたお方こそ、イエス・キリストであるということを知りたいと思います。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイの福音書27章46節)との、十字架上でのキリストの叫びは、実はあなたの叫びであったのです。神は、このキリストへのさばきによって、私たちの過去の一切の罪をお許しになられるばかりか、罪人である私そのものを受け入れ、神の子とされたのです。
 これが神の愛です。この事実を、私のこととして受け入れる時、神による救いと祝福の生涯が与えられるのです。
「ふれあい」ラジオメッセージ第7集 榊原 寛著 太平洋放送協会より引用・要約しました。A.O


インマヌエル讃美歌

2013年02月22日 05時45分45秒 | インポート
道にゆきくれし(160番)

1道に行き暮れし 旅人よ 仰ぎ
恵みのみ神の 御言葉を聴けや
憂いの雨は 夜の間に晴れて
尽きせぬ喜び 朝日と輝かん

2悲しむみ民よ おじまどう友よ
心をしずめて み力に頼れ
憂いの雨は 夜の間に晴れて
尽きせぬ喜び 朝日と輝かん

3重荷にえたえで 悩む罪人よ
望みの光を 仰ぎて待てかし
憂いの雨は 夜の間に晴れて
尽きせぬ喜び 朝日と輝かん

4父なるみ神に 涙をぬぐわれ
憩いて楽しむ あしたはまじかし
憂いの雨は 夜の間に晴れて
尽きせぬ喜び 朝日と輝かん
Lyrics Anonymous(作者不詳)
Music "JOY" Edmund Simon Lorenz 1854- 
Arranged by KS 05/10/11
讃美歌ホームページより

(聖書)
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
(マタイの福音書11章28節~30節)


くびきは一頭または複数の牛の肩につける重い木製の引き具である。・・・人生における難題、仕事、なかなかキリストとともに歩めない・・・多くの責任に私たちはうちひしがれる。しかし、イエスのくびきは負いやすいのである。・・・農具を引っ張る力をもつ方があなたの先に立って助けてくださる。あなたは偉大なる同伴者と人生の責任を一緒に負っているのだ。しかめ面は笑顔になり、不平は歌になるのである。(バイブル・ナビより引用・要約しました。)A.O

牧師・聖書に学ぶ会(要約)

2013年02月21日 05時23分13秒 | インポート
○新しい来会者、諸課題のための祈り
○学んだ聖書の箇所。使徒の働き17章15~34節
パウロを案内した人たちは、彼をアテネまで連れて行った。そしてシラスとテモテに一刻も早く来るように、という命令を受けて、帰って行った。さて、アテネでふたりを待っていたパウロは、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じた。そこでパウロは、会堂ではユダヤ人や神を敬う人たちと論じ、広場では毎日そこに居合わせた人たちと論じた。
エピクロス派とストア派の哲学者たちも幾人かいて、パウロと論じ合っていたが、その中のある者たちは、「このおしゃべりは、何を言うつもりなのか。」と言い、ほかの者たちは、「彼は外国の神々を伝えているらしい。」と言った。パウロがイエスと復活とを宣べ伝えたからである。そこで彼らは、パウロをアレオパゴスに連れて行ってこう言った。「あなたの語っているその新しい教えがどんなものであるか、知らせていただけませんか。私たちにとっては珍しいことを聞かせてくださるので、それがいったいどんなものか、私たちは知りたいのです。」アテネ人も、そこに住む外国人もみな、何か耳新しいことを話したり、聞いたりすることだけで、日を過ごしていた。そこでパウロは、アレオパゴスの真中に立って言った。「アテネの人たち。あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております。私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に。』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。
神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である。』と言ったとおりです。そのように私たちは神の子孫ですから、神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」死者の復活のことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、ほかの者たちは、「このことについては、またいつか聞くことにしよう。」と言った。こうして、パウロは彼らの中から出て行った。しかし、彼につき従って信仰にはいった人たちもいた。それは、アレオパゴスの裁判官デオヌシオ、ダマリスという女、その他の人々であった。


問い例「宗教に対して、アテネの人々はどのような態度をとっていましたか。」(22節)


牧師・ミニチャーチ集会(要約)

2013年02月19日 05時22分08秒 | インポート
〇とりなしの祈り 
〇聖書:主牧、詩篇139篇23、24節 ダビデの讃歌
『全知の神への深い感謝』
●1~6節 神は私たちの座る、立つ、思い、歩み、伏し、道、口のことばなどを。6節「あまりにも不思議」です。神は全知です。
●7~12節 神はどこにでもおられます。天のどこでも、寝床、海の果て、闇の中さえ。
神は遍在の方です。
●13~16節 自分が母の胎内にいる時から極めて巧みに、懇に造られた。
▼ですから、その恵みとご目的に添って生きねばならない。神を畏れ、心の中の思い煩いや、ことに、心に罪があるかないかを調べられるのだから、とこしえの道に導いてくださいと祈りましょう。