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インマヌエル宇都宮基督教会牧師 山田 隆・勢津子
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夫人牧師・日々の聖句:Part2(7)

2011年11月30日 06時45分30秒 | インポート
「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」
エペソ人への手紙6章12節


 悪霊と戦うためには、神の武具を身につけていなければなりません。
◆「しっかり、腰には真理の帯を締め」キリストとその教え。
◆「胸には正義の胸当て」キリストの義。
◆「足には平和の福音の備え」それに生き、人に証しする用意。
◆「信仰の大盾、救いのかぶと」霊敵は頭をねらうから。
◆「御霊の剣、神のことば」主イエスはみことばによって試練に勝たれました。これらの前と中と後で。
◆御霊によって祈ることが記されています。
 パウロは獄中でも教訓をつかむことをしました。


牧師・ミニチャーチ集会(要約)

2011年11月29日 06時31分47秒 | インポート
聖書箇所 ピリピ人への手紙2章25~30節(下記)

O姉のあかし:入退院の間に働かれた神のいやしと、今日持つことが出来た集会の感謝。
Yさんのあかし:腰の痛みは、思い悩みをやめた時から徐々に治ってこうして出席しました。  

 エパフロデトはピリピ教会の代表として、獄中のパウロを見舞ったが、死に至るほどの病になりながらいやされた。彼の真実な心遣いが素晴らしい。パウロは獄中にありながら、喜びと感謝に満ちた。

「しかし、私の兄弟、同労者、戦友、またあなたがたの使者として私の窮乏のときに仕えてくれた人エパフロデトは、あなたがたのところに送らねばならないと思っています。
彼は、あなたがたすべてを慕い求めており、また、自分の病気のことがあなたがたに伝わったことを気にしているからです。
ほんとうに、彼は死ぬほどの病気にかかりましたが、神は彼をあわれんでくださいました。彼ばかりでなく私をもあわれんで、私にとって悲しみに悲しみが重なることのないようにしてくださいました。
そこで、私は大急ぎで彼を送ります。あなたがたが彼に再び会って喜び、私も心配が少なくなるためです。
ですから、喜びにあふれて、主にあって、彼を迎えてください。また、彼のような人々には尊敬を払いなさい。
なぜなら、彼は、キリストの仕事のために、いのちの危険を冒して死ぬばかりになったからです。彼は私に対して、あなたがたが私に仕えることのできなかった分を果たそうとしたのです。」



牧師・礼拝メッセージ「むしろ大いに喜んで」要約

2011年11月28日 09時52分13秒 | インポート
引照聖句  コリント人への手紙第2、12章5-12節(下記)

▼パウロは内憂外患を持っていた。
 神秘的な神の高揚の経験:第三の天・それはパラダイスに生きながら行かせられたこと。その啓示があまりにも素晴らしいものであったことを表に出して誇りの核心にしております。しかし同時に高ぶることのないように肉体に一つのとげを与えらえていると述べます(7節)。
  このとげは何か。確かなことは不明だが、周期的に起こる肉体的な苦痛を指すと考えられる。偏頭痛、眼病、あるいはてんかん、マラリヤではないかと思われると言われます。これは神のゆるしによるものであること、自分もそれを承知していること。三度もいやしを神に求めたが、神のお答えがあって、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」(9節)と言われて、承服しました。そうであれば、 その弱さを誇りましょう、キリストの力が私を覆うために、と発想を転換させられたのです。「キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじましょう。」となったのです。

1、自分自身の中で、神の愛、交わりと、おことばを頂く特権に与かっております。しかし必ずあるであろう、つきまとい、去らせていただきたいトゲがありましょう。これが、遜ることと、むしろそれを誇る理由にしましょう。それによってより一層、神と神の人に似、生来の頑張りでなく、神の恵みと許しで生きるべきことを学ぶでしょう。どちらも神の深い知恵と恵みでです。神をたたえましょう。

2、20、21節、不和はサタンがきよめられない心に働き、互いを不信におとし入れます。牧者の願うことと信徒の期待の食い違い。ある方々の争い、ねたみ、憤り、党派心、そしり、陰口、高ぶり、騒動、汚れ、不品行、好色、を悔 い改めない間はすべての善いものの汚辱となり停止となりましょう。それにもかかわらず、主は世の人々に代わっ て自らを罰しました。これによって人が各自の罪を悔い改めて赦しと永遠のいのちを得るためです。この大義と愛をなおざりしてはいけません。自ら裁きに行くことになりましょう。私たちが、主と神の民、未信者のために、十字架を担っているのは主の御苦しみの一端を担っているのですから、

▼「むしろ大いに喜びましょう。」

「このような人について私は誇るのです。しかし、私自身については、自分の弱さ以外には誇りません。
たとい私が誇りたいと思ったとしても、愚か者にはなりません。真実のことを話すのだからです。しかし、誇ることは控えましょう。私について見ること、私から聞くこと以上に、人が私を過大に評価するといけないからです。
また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。
このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。
しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。
私は愚か者になりました。あなたがたが無理に私をそうしたのです。私は当然あなたがたの推薦を受けてよかったはずです。たとい私は取るに足りない者であっても、私はあの大使徒たちにどのような点でも劣るところはありませんでした。
使徒としてのしるしは、忍耐を尽くしてあなたがたの間でなされた、あの奇蹟と不思議と力あるわざです。」



牧師・エッセイ

2011年11月27日 14時29分54秒 | インポート
『どうか、わたくしたちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、
教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン』(エペソ人への手紙3章20、21節)


祈り
☆11月の聖日は本日が最終です。今年は本聖日から12月24日まで降待節に入ります。繁多な中でしょうが、共に敬虔に「主よ、来てください」と祈りましょう。

♪今週半ばの集会案内♪
11月29日(火)聖書に学ぶ会   10:30~
12月 3日(土)公園CS 
12月3日の集会の時間・場所については教会にお問い合わせください。
ミニチャーチ集会は休会です。
教会?028(621)8661

教会学校金言?ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。(イザヤ書9章6節)

ガーデンスポット
カエデもみじの紅葉  落葉  ピラカンサ

次聖日、12月4日の礼拝説教  マタイの福音書 1章18節~25節  「御子降誕―予言の成就」


平安をもつ秘訣

2011年11月26日 06時40分48秒 | インポート
―偶像は人間に平安を与えることはできない― 
 ヨーロッパの多くの国々は、宗教と言うとキリスト教のみ、唯一の神のみを信じているのです。しかし、私たち日本の国の宗教は、何千とあり、次から、次へと新しい神々が発明され、また神々が変化していくのです。これらのことはいったい何を意味しているのでしょうか。それは日本の神々と言われるのものが、人間に対して真の満足を与えてくれないことを、証明しているのではないでしょうか。
 ワッショイ、ワッショイと、とにかく景気よく神輿を担ぎ、神社の祭りだと言って青年たちが、神々を拝み、打ち興じています。その青年たちに
「この神社にはだれが祭ってあるのですか。」と質問しますと、
「さあ、おれたちは、だれが祭ってあるかなんかわからない」と答えるのです。どんな神だか、誰だか対象もわからないのに、信じるとか、拝むなんてことができるでしょうか。
 昔は生きていて、修業のつまれた人のために書かれた戒名を、今は死んだ人のために書いて、その木があたかも先祖そのものであるかの如く拝んでいることはなんとむなしいことでしょう。
 死んでしまった人、それはどんな素晴らしい人であっても、私たちの身も心もまかせることはできません。
 偶像、それは神の代用品であり、むなしいものです。人間はどんなに偉い人であっても神になったり、拝まれる対象になることはできません。私たちの信仰の対象は、私たちを造られた唯一の神でなければなりません。
 人間を造られた神様だけが、私たちを愛していてくださるのです。聖書は「神は愛である」と断言しています。そして天地を造られた神こそ、私たちの生活のすべてをまかせ得る神様です。
「そういうわけだから、何を食べるか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国と神の義とをまず第一に求めなさい。そうすればそれに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイの福音書6章31節~33節)
 そして、永遠に変わらない神こそ、真実な神であって、絶対に裏切ることも見捨てることもない神です。この神は義を愛し、不法をにくまれます。そして神の中には暗い所はありません。私たちが、わが神よとお呼びするのにふさわしい方です。
 [さあ、あなたは神と和らぎ、平和を得よ。そうすれば、あなたに幸が来よう。](ヨブ記22章21節)
滝元 明著「平安を持つ秘訣」より引用・要約しました。A.O
クリスマス豆知識: 「クリスマス」はもともと「キリストの礼拝」という意味で、12月25日にイエス・キリストの誕生を祝います。4世紀後半からクリスマスは毎年祝われるようになったようです。ちなみに「Xマス」という表記は、ギリシア語でキリストと書くときの頭文字X(キー)にmas(礼拝)をつけたものです。  財団法人 日本聖書協会 - ホームページ編集委員会 クリスマス豆知識から



詩篇94篇9節

2011年11月25日 06時15分58秒 | インポート
「耳を植えつけられた方が、お聞きにならないだろうか。目を造られた方が、ご覧にならないだろうか。」詩篇94篇9節

 神様はご自分に似せて人を造られました。神様は竜やキツネや獅子の姿ではありません。
 確かに耳を造られた方が聞こえないはずがありません。目を造られた方が見えないはずがありません。神様は私たちの内側まですべてご存知です。祈りも叫びも陰口も、善行も悪行も・・・。
 しかし神様のあわれみで、御子イエスキリストが罪・咎に対して罪のきよめを成し遂げてくださいました。救い主と言われるゆえんです。s.k.


テトスへの手紙2章14節

2011年11月24日 06時28分58秒 | インポート
「キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。」
テトスへの手紙2章14節

 オウム真理教による一連の殺人事件、テロ事件の裁判がすべて終わったとのニュースを見ました。
 私が初めてオウム真理教の元教祖・松本 智津夫死刑囚を見たのは、国政選挙の政見放送でした。長く伸ばした頭髪と長いひげ、白い衣を着ていて、非常に奇異に映り、記憶に残りました。その後、落選と知りほっとしたのを覚えています。
 それからオウム真理教の名前を聞くようになったのが、信者が家に帰りたくても帰らせてもらえず、家族ともども苦しんでいるという報道でした。怖いと思いました・・・。
 最近多くの若い方々がまたオウム真理教(現アレフ)に入団していると聞き、危惧しています。しかも松本 智津夫死刑囚をまだ仰いでいるとのこと・・・。殺人を指示し、多くの死刑囚を続出した宗教は、人を本当に生かすことはできません。
 私たちのためにご自分のいのちを捨て、不法から救い出し、良い業に熱心なご自分の民を、きよめてくださる真の神、イエス・キリストこそ、本当に人を愛し生かして下さるお方です。信じて裏切られることのないお方です。真の神には不真実なところが一点もないので、裏切ることができないのです。s.k.
 



夫人牧師・日々の聖句:Part2(6)

2011年11月23日 06時54分21秒 | インポート
「光の子どもらしく歩みなさい。」エペソ人への手紙5章8節
「御霊に満たされなさい。」エペソ人への手紙5章18節


 光の子どもとして歩むためには、どうしても聖霊に満たされた生活が必要です。
 善意や正義を歩もうとしていても、それが出来ない自分が分かるからです。救われてもなお内側に善をさせないものがあることに気づいたならば、それを取り除いていただく、きよめの恵みに与るべきです。聖霊が自分の内に宿っていること、そして御霊の声に聞き従うことが光の子どもとして歩むことになるのです。子どもたち、若い男女、中年、老いた方々、誰でもが。皆、キリストの心をもってキリストを模範として生きることが光の子どもとしての歩みではないでしょうか。

牧師の拾い読み/ 『日本の信徒伝道はこれだ!』岸義紘著 PP35、36

2011年11月22日 07時07分51秒 | インポート
 「ノンクリスチャンと友情を保つことは、すばらしい伝道です。ノンクリスチャンとダベり、遊び、つき合うことは、すばらしい伝道です。ノンクリスチャンと一つのグル-プで活動できることは、すばらしいあかし伝道です。
 このような関係の実際がないと、さそっても教会にはなかなか来てくれません。しかし、関係があると、そのなかから、彼らはキリストを受け入れる準備を、気がつかないまま進めているのです。そして、関係がよければよ いほど、その関係が深ければ深いほど、一度求道生活がはじまると、それは確実になります。教会に足を運んだときに覚える最初の違和感も、比較的簡単にのりこえられます。」

牧師・礼拝メッセージ「パウロの神秘的経験」要約

2011年11月21日 06時37分58秒 | インポート
引照聖句 コリント人への手紙第2、11章7~12節(下記)

▼コリント人への手紙第2、12章1~12節(下記) 『パウロの神秘的経験』
1節、『ある人』パウロは自分の幻と啓示の証しを始める。第三者のように、しかし自分のこと。特殊経験をやむを得ず誇ろうとしていたので。
2節、『14年前』、に経験している。いつのことかは不明。使徒の働き14章19節で、群衆は石打ちをし、死んだものと思って、町の外に引きずり出したと記されております。神の特別な計らいで。
2節、『第三の天にまで引き上げられました』第三の天、諸説あるが4節の「パラダイス」と同意にとってよいであろう。神が臨在する。
4節、『人間には語ることを許されてない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています』

1、こうした経験を神はパウロに許された。それは余りにも素晴らしく厳粛なので、軽々しく口にすることははばかられる種類のもの。このような神秘的な現実の経験は、神に仕え、人に最上の善をしつつも迫害されている人に、その後、または前もって備えるために経験されるもののように受け止めることができます。神は、深く高い次元で神のしもべに、信じて従っていることの激励と慰めを下さると知ります。

2、この口にできないほどの高揚を誇るのですが、自らを戒めるために、自分の弱さを持ち出しています。神の人は神秘的経験と、自分のからだの弱さ、多くの人からもたらされる苦しみの理由を知っているのです。これらの真実な経験は当然、にせ教師や異教のやからのあずかり知らないものであることを言外に表しています。

▼私たちも世々の聖徒にならって、神の慰め、励まし、幻を頂くことが出来ている、出来るのだと思いましょう。

<コリント人への手紙第2、11章7~12節>
「それとも、あなたがたを高めるために、自分を低くして報酬を受けずに神の福音をあなたがたに宣べ伝えたことが、私の罪だったのでしょうか。
私は他の諸教会から奪い取って、あなたがたに仕えるための給料を得たのです。
あなたがたのところにいて困窮していたときも、私はだれにも負担をかけませんでした。マケドニヤから来た兄弟たちが、私の欠乏を十分に補ってくれたのです。私は、万事につけあなたがたの重荷にならないようにしましたし、今後もそうするつもりです。
私にあるキリストの真実にかけて言います。アカヤ地方で私のこの誇りが封じられることは決してありません。
なぜでしょう。私があなたがたを愛していないからでしょうか。神はご存じです。
しかし、私は、今していることを今後も、し続けるつもりです。それは、私たちと同じように誇るところがあるとみなされる機会をねらっている者たちから、その機会を断ち切ってしまうためです。」
<コリント人への手紙第2、12章1~12節>
無益なことですが、誇るのもやむをえないことです。私は主の幻と啓示のことを話しましょう。
私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に――肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです。――第三の天にまで引き上げられました。
私はこの人が、――それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです。――
パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。
このような人について私は誇るのです。しかし、私自身については、自分の弱さ以外には誇りません。
たとい私が誇りたいと思ったとしても、愚か者にはなりません。真実のことを話すのだからです。しかし、誇ることは控えましょう。私について見ること、私から聞くこと以上に、人が私を過大に評価するといけないからです。
また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。
このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。
しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。
私は愚か者になりました。あなたがたが無理に私をそうしたのです。私は当然あなたがたの推薦を受けてよかったはずです。たとい私は取るに足りない者であっても、私はあの大使徒たちにどのような点でも劣るところはありませんでした。
使徒としてのしるしは、忍耐を尽くしてあなたがたの間でなされた、あの奇蹟と不思議と力あるわざです。」