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徳川四天王・本多忠勝

2010年03月16日 | 池波正太郎 江戸時代

 前回紹介した本多正信の子・政重は前田家家老として徳川将軍家の目付役として活躍したが、なんと言っても忘れてはならないのは本多忠勝である。 本多忠勝ゆかりの御廟へ訪れたこともあって、実は以前に少しだけ触れていたのであるが、すっかり忘れていたので改めて紹介する。 とにかく徳川四天王のひとりとしてその武勇を全国に轟かせ、織田信長や豊臣秀吉も一目置いた武将であることは良く知られているが、忠勝の子・本多忠政は池田家の後を継いで、天下の名城・姫路城主となっているのである。

  本多氏の出自は、藤原氏北家・兼通流の二条家綱まで遡り、豊後国の本多郷を領した事から本多氏と称したことによる。 古くから松平氏に仕えた三河国の譜代の家系で、三河三奉行の一人本多重次(作左家)、徳川家康の参謀となった本多正信(三弥家)、徳川四天王の本多忠勝(平八郎家)のほかにも彦八郎家、彦次郎家、弥八郎家がありいずれも譜代大名であるが、宗家については忠勝の家系とも正信の家系とも言われている。 正信の家系では次男の政重が前田家の宿老となるなど徐々に徳川家より重用されたが、忠勝系(徳川四天王の一人である本多忠勝の家系)は本多一門の中で忠勝が最も家康から厚遇され、特に忠勝の子や孫は家康血縁者との婚姻があった。 忠勝が勲功を得たのは関ヶ原の戦いで、忠勝に伊勢国桑名藩10万石があたえられ初代桑名藩主になっている。また、上総国大多喜藩5万石も与えらて初代藩主になり、忠勝の次男・忠朝が継いだ。 それぞれの家系は幕末まで存続したが、宗家・村上藩主・本多忠孝は幼少で急死したため改易のところ、なんとか家名再興が許されたというのが屈指の譜代名門の行末であった。 本多忠勝の晩年は、本多正純などの若く文治に優れた吏僚派が家康・秀忠の側近となり、武功派は幕府の中枢から遠ざけられ不遇であった。

 本多忠勝は徳川四天王として顕彰されているが、生涯において参加した合戦五十七回でかすり傷一つ負わなかったという。軽装を好み、重武装な井伊直政とは対照的である。 小牧・長久手の戦いでは、わずか500名の軍勢を率いて秀吉自ら率いる8万の大軍と対峙したとき忠勝の勇猛ぶりに、生け捕って我が家人にすべきと忠勝を討ち取ることを禁じたという。 忠勝は勇猛なだけではなく知略も備え、関ヶ原の戦いでは井伊直政と共に誓紙発行により西軍武将の切り崩しにも務めている。晩年、忠勝は小刀で指に切り傷を負ったが、これが彼の生涯の中で最初で最後の負傷だったという。1609年、嫡男・本多忠政に家督を譲って隠居し翌年死去した。 

  松平広忠 ━━徳川家康1543-1616年 ┓幼名:竹千代
(八代当主) ┏松平忠政1580-1614  ┃
  ┃    ┣徳川家元1548-1603  ┃
 於大の方  ┣樵臆恵最      ┃ 
(伝通院)  ┣内藤信成      ┃
       ┗市場姫 矢田姫   ┃
   ┏━━━━━━━━━━━━━━┛
正室・篠山殿━┳長男・松平信康(1559年 - 1579年)(母:築山殿 関口親永娘・瀬名)       
       ┃ ┣登久姫1576-1607
       ┃ ┣熊姫  1577-1626(本多忠勝の嫡男・忠政室)
       ┃ 徳姫1559-1636
       ┃ 
正室・朝日姫 ┣長女・亀姫(盛徳院1560年 - 1625年)(母:築山殿)
側室・お津摩 ┃ 
側室・お万  ┣次女・督姫  (1565年 - 1615年)(母:西郷局)池田輝政室
側室・小督局 ┣次男・結城秀康(1574年 - 1607年)(母:小督局)
       ┃    ┣松平忠直1595-1650   (母:中川一茂娘・清涼院) 
       ┃    ┃ ┣松平光長1616-1707
       ┃    ┃ ┃┣国姫-1671
       ┃    ┃ ┃┃┣布与、市
       ┃    ┃ ┃┃松平光通1636-1671
       ┃    ┃ ┃土佐(毛利秀就娘)
       ┃    ┃ ┣亀姫1617-1681(宝珠院寧子)
       ┃    ┃ ┃┣明子女王1638-1680(後西天皇女御)
       ┃    ┃ ┃高松宮好仁親王
       ┃    ┃ ┣鶴姫(家光養女)
       ┃    ┃勝姫1601-1672(天崇院 徳川秀忠三女) 
       ┃    ┣松平忠昌1598-1645   (母:中川一茂娘・清涼院)
       ┃    ┣松平直政1601-1666   (母:三谷氏・月照院) 
       ┃    ┣松平直基1604-1648   (母:三好長虎娘・品量院) 
       ┃    ┃ ┣松平直矩1642-1695
       ┃    ┃堀氏 
       ┃    ┗松平直良1605-1678   (母:津田信益娘・長寿院)
側室・西郷局 ┣三男・徳川秀忠(1579年 - 1632年)(母:西郷局)━━┓幼名:長松
       ┣四男・松平忠吉(1580年 - 1607年)(母:西郷局)  ┃
       ┣次女・良正院 (1565年 - 1615年)(母:西郡局)  ┃
       ┣三女・振姫   (1580年 - 1617年)(母:お竹 )    ┃ 
       ┣徳川義直1601-1650(初代徳川尾張藩主)(母:お亀)  ┃
       ┃┣光友1625-1700(2代藩主)             ┃
       ┃┣京姫┣綱誠1652-1699(3代藩主)          ┃
       ┃歓喜院┃    ┣吉通1689-1713(4代藩主母本寿院) ┃
       ┃   ┃    ┃ ┣五郎太1711-1713(5代)    ┃
        ┃    ┣松平義行┃九条輔姫            ┃
        ┃    ┣松平義昌┣継友1692-1732(6代藩主 母は和泉)┃
        ┃    ┣松平友著┣義孝1694-1732(母は唐橋)    ┃
       ┃ 千代姫(家光娘)┣宗春1696-1764(7代藩主 母は梅津)┃   
        ┃        ┃ ┣勝子              ┃
        ┃        ┃伊予                ┃
        ┃        ┗松姫(綱吉養女)           ┃
       ┣徳川頼宣1602-1671(初代徳川紀伊藩主)(母:お万)    ┃
        ┃ ┣徳川光貞1627-1705(生母 中川氏)         ┃
        ┃ ┃ ┣徳川綱教1665-1705(3代尾張藩主)      ┃
        ┃ ┃ ┃ ┣徳川頼職1680-1705(養子)        ┃
        ┃ ┃ ┃鶴姫1677-1704(徳川綱吉娘)         ┃
        ┃ ┃ ┣徳川頼職1680-1705(4代尾張藩主 母真如院) ┃
        ┃ ┃ ┣徳川吉宗1684-1751(5代藩主8代将軍 母浄円院┃
        ┃ ┃ ┃ ┣徳川家重1712-1761(9代将軍)       ┃
        ┃ ┃ ┃ ┃┣徳川重好1745-1795(徳川清水家初代) ┃
        ┃ ┃ ┃ ┃安祥院                  ┃
        ┃ ┃ ┃ ┣徳川宗武1716-1771(徳川田安家初代)   ┃
        ┃ ┃ ┃ ┃┣徳川治察1753-1774(徳川田安家2代)  ┃
        ┃ ┃ ┃ ┃┣松平定国1757-1804(伊予松山藩主)   ┃
        ┃ ┃ ┃ ┃┗松平定信1758-1829(陸奥白河藩主)   ┃
        ┃ ┃ ┃ ┃                     ┃
        ┃ ┃ ┃ ┗徳川宗尹1721-1765(徳川一橋家初代)   ┃
        ┃ ┃ ┃  ┗徳川治済1751-1827(徳川一橋家2代)  ┃
        ┃ ┃瑞応院                      ┃
        ┃ ┣因幡姫1631-1709(鳥取藩主池田光仲正室)     ┃
        ┃八十姫1601-1666(加藤清正娘)              ┃
       ┗徳川頼房(1603年 - 1661年)十一男・(母:お万)    ┃
            ┣松平頼重1622-1695(讃岐高松藩主初代)     ┃
            ┃ ┣綱方1648-1670(水戸藩主となる前に死亡)  ┃
            ┃ ┣綱條1656-1718(水戸3代藩主)        ┃
            ┃土井利勝娘                  ┃
            ┣亀丸                     ┃
            ┣徳川光圀1628-1701(水戸藩2代藩主)       ┃
          谷重則娘・久子┃┣松平頼常1652-1704(讃岐高松藩主)   ┃
                ┃┣綱方1648-1670            ┃
後陽成天皇        ┃┣綱條1656-1718            ┃
  ┣近衞信尋(近衛家当主)┃側室・玉井氏              ┃
近衛前久娘・前子   ┗尋子(泰姫)                 ┃
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
正室・於江与の方                        池田光政1609-1682
  ┗┳千姫1597-1666(天樹院):豊臣秀頼室、のちに本多忠刻室      ━━┓┣綱政  
  ┃本多忠高?-1549                        ┣勝姫
  ┃ ┣本多忠勝1548-1610(本多宗家初代)              ┃1618-1678 
  ┃ ┃   ┣小松姫1573-1620(母:乙女 真田信之室)       ┃
  ┃上村氏義娘┣もり姫(奥平家昌室)                ┣幸千代
  ┃     ┣本多忠政1575-1631(母:阿知和右衛門娘 姫路城主)   ┃ 
  ┃     ┗本多忠朝┣本多忠刻1596-1626(室は徳川秀忠娘・千姫)┛  
  ┃     1582-1615  ┣本多政朝1599-1638(室は本多忠朝娘)
  ┃     ┣本多政勝┣本多忠義1602-1676(室は森忠政娘)┗政長1633-1679(宗家5代) 
  ┃     ┗千代  ┣国姫               ┗忠国1666-1704(養子)
  ┃          ┣亀姫                ┣忠孝1698-1709
  ┃         松平信康娘・熊姫            池田綱政娘
  ┣徳川家光1604-1651三代将軍 福・春日局に養育 幼名:竹千代 
  ┣徳川忠長1606-1634                         
    ┣徳川和子1607-1678(東福門院):後水尾天皇中宮           
  ┣珠姫    1599-1622(天徳院) :前田利常室             
  ┣勝姫  1601-1672(天崇院) :松平忠直室             
    ┗初姫  1602-1632(興安院) :京極忠高室                         
側室・お静(浄光院)
 ┗保科正之1611-1673(会津松平藩主)    
      ┃┃┣幸松                      
    ┃┃菊姫 
    ┃┣媛姫(米沢藩主・上杉綱勝室)
    ┃┣正経1647-1681(2代会津藩主)
    ┃お万
     ┣摩須姫(加賀藩主・前田綱紀室)
  おしほ

姫路・書写山にある本多家の御廟

  

 

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岩崎弥太郎家は貧乏ではない

2010年03月15日 | 幕末
 龍馬伝では初回から登場するあまりにも汚い男、それが岩崎弥太郎 後の三菱財閥創始者である。 その描かれかたが汚すぎる・・・ということで三菱のTopからNHKに講義があったとか。 龍馬と弥太郎の明暗を協調するために汚さを誇張したのがある意味で成功、反響を及ぼしたようであるが、実は岩崎弥太郎はそんなに貧乏の家に生まれてはいない。 ある記事に面白い事実が記載されていたので紹介です。 岩崎家は上農で、弥太郎が15歳のとき田地は50石以上あったという。 年収でいうと約900万円であった。 そして弥太郎が土佐商会の参事のときには42石(1300万)、36歳の時には100石(3000万円)、39歳で三菱商会の社長になったときには月給800円(年収9600万円)になっている。 年収1300万円のときに土佐藩の公金横領3000万円を半年でしているから、その贅沢さは想像できる。 ちなみに此の後、妻・喜勢以外に6人の妾がいたが、ほとんど家に金をいれていなかったとか。 一方1850年の頃、坂本龍馬12歳の頃の坂本家の俸禄収入は10石(300万)、田畑小作収入は40石(1200万)で、これは弥太郎家とほぼ同じである。 しかし坂本家では資産収入があり、2億円相当の金をもとに利息10%で金貸しを営み、その収入が2000万円あったという。 つまり合計すると3500万の年収が坂本家にあり、土佐藩に融通していたほどである。 現代、それだけの収入がある一家はほとんどいない。 龍馬自身は亀山社中時代に1300万、海援隊時代に1800万の年収を得ていたというから、坂本家とあわせると想像を絶する収入となる。 そういった地下浪人の弥太郎、下士の龍馬が貧困であったからこそ幕末の世を変えた・・・という話はいかがなものかと感じる。 貧困の問題ではなく、その人間自身の資質の問題であるといったほうが良い。   
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三菱財閥総帥・岩崎弥太郎は前科二犯

2010年03月14日 | 幕末

 今まで坂本龍馬にゆかりの人物を取り上げてきたが、今回は龍馬伝で龍馬以上に脚光を浴びている人物について触れたい。 その人物は三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎である。 土佐の身分の低い地下浪人であった弥太郎は、龍馬伝では龍馬に対してライバル意識丸出しで強烈なインパクトをもって登場する。 しかし実は龍馬と初めて出会ったのは弥太郎35歳、龍馬33歳のときなのである。 つまりであったのは龍馬が暗殺される数ヶ月前のことなのであるが、それまでの弥太郎の人生は大河に描かれていることに間違いないようだ。 土佐藩には独特の身分制度があり、郷士は武士のなかでも低い身分であったが、その郷士株さえも貧窮のために売ってしまい武士とみなされなかった者を地下浪人と呼んだ。 弥太郎の前半生はそういった差別と屈辱から始まったのである。(追って解説します) 弥太郎が学問で身を立てようと決心したのは土佐藩最高学府の教授館で、漢詩を表彰されて以降である。 15歳で陽明学者の岡本寧浦のもとで学び、20歳で江戸の学者について学んだという。 此の頃父・弥次郎が庄屋といさかいを起こして負傷したときに、わずか二週間ほどで江戸から高知に戻り奉行所に訴えた。 このときに奉行所の壁に「役人は賄賂で成り立ち、罪はひいきによって決まる」との落書きを二度もしたことから7ヶ月投獄されることとなる。 この投獄時代に知り合った商人や職人から商売に対する意識を目覚めさせたという。 

 当時土佐藩の藩政を仕切っていたのが吉田東洋で、弥太郎の論文が東洋の目に留まって人生は大きく転換する。 26歳のときに初めて藩の役職を得て、長崎出張を命じられた。 弥太郎の使命は土佐の物産を長崎から輸出できるかどうかの調査及び、欧米諸国の情報収集であった。 しかし弥太郎の日記によると、連日連夜丸山の遊郭に通って飲み明かしたことが書かれている。 当時の折衝は妓楼抜きではできず、遊蕩三昧も仕事のうちであったのかもしれない。 しかし弥太郎が藩の公金を私的に使い込んだ額は半年で100両にも及んだという。 とうとう結果を残さず勝手に帰国した弥太郎は藩をくびになり浪人生活を送ることとなった。 しかし吉田東洋の弟子・後藤象二郎の口ぞえで藩に復帰し再び長崎に向かい、このときに龍馬と初めて出会ったのである。 龍馬と出会う少し前の29歳のときに喜勢を妻とし、長崎土佐商会時代に当時17歳であった町芸妓・青柳と出会う。 こうして妻以外にも6人の妾をもった。 

岩崎弥次郎 加藤高明(24代総理)             
岩崎弥太郎 ┃            
┃ 1835-1885 ┣加藤厚太郎
┃  ┃┣春路           
┃  ┃┣岩崎久弥1865-1955(三菱財閥3代目)   
┃  ┃┃  ┃        国広達宣
┃  ┃┃  ┣岩崎彦弥太┣-
┃  ┃┃  ┃  ┣勢津子
┃  ┃喜勢 ┃  ┃山村泰弘 
┃  ┃1845- ┃  ┃┣- 
┃  ┃1923 ┃  ┣昭子
┃  ┃   ┃  ┣岩崎寛弥(東山農事社長)
┃  ┃   ┃  ┃高島孝之
┃  ┃   ┃  ┃┣高島義彦
┃  ┃   ┃  ┣美智子
┃  ┃   ┃  操子 元良誠三
┃  ┃   ┣岩崎隆弥 ┣元良信彦
┃  ┃   ┃  ┣由美子
┃  ┃   ┃  ┃槙原稔
┃  ┃   ┃  ┃┣槙原純
┃  ┃   ┃  ┣喜久子
┃  ┃   ┃  敏     
┃  ┃   ┣岩崎恒弥  
┃  ┃   ┃ 沢田廉三     
┃  ┃   ┃ ┣沢田久雄  
┃  ┃   ┃ ┣沢田信一
┃  ┃   ┣美喜 
┃  ┃   ┃甘露寺方房
┃  ┃   ┃ ┣-
┃  ┃   ┣澄子
┃  ┃   ┃ 福沢堅次
┃  ┃   ┃ ┣福沢雄吉
┃  ┃   ┣綾子
┃  ┃   寧子   
┃  ┃木内重四郎
┃  ┃┣木内良胤━木内昭胤━木内孝胤(衆議院議員)
┃  ┃┣木内信胤(経済評論家)
┃  ┃┣木内登美子   ┣-
┃  ┣磯路 ┣-    多代(福沢諭吉の孫)
┃  ┃  敬三(明治の大蔵官僚:渋沢栄一の孫)        
┃  ┃    入江相政(エッセイスト)        
┃  ┣岩崎豊弥┣入江為年
┃  ┃  ┣君子
┃  ┃  ┣岩崎勝太郎
┃  ┃  武子
┃  ┃早尾惇実
┃  ┃┣幸子
┃  ┣富子
┃  ┣岩崎秀弥
┃  ┃幣原喜重郎(44代総理)
┃  ┃┣幣原道太郎
┃  ┣雅子
┃  ┣照子
┃  ┣岩崎康弥   鎮西清高(地球科学者)
┃  ┃┣岩崎精一郎 ┣
┃  ┃とし   ┣由利子
┃  ┃     ┣岩崎泰頴(地球科学者)
┃  ┗岩崎正弥 小枝子
岩崎弥之助1851-1908(三菱財閥2代目) 
┃    ┣繁子
美和   ┣岩崎小弥太(三菱財閥4代目)
     ┣岩崎俊弥(旭ガラス創業者)
     ┃┗岩崎英二郎(ドイツ語学者)
     ┃     ┣-
後藤象二郎┣岩崎輝弥 北原白秋娘
    ┗早苗

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榎原杏奈さん

2010年03月13日 | 河原実乃梨 榎原杏奈 鍛冶沙都紀

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『樅ノ木は残った』の伊達騒動

2010年03月13日 | 池波正太郎 江戸時代

 加賀騒動に続いて代表的なものに仙台・伊達騒動がある。 伊達騒動は、伊達氏の仙台藩3代藩主・伊達綱宗の遊興三昧から隠居の身となり、叔父の伊達宗勝が仙台藩の実権を握ったことが発端となる。 綱宗の遊興三昧に対して、叔父にあたる一関藩主・伊達宗勝は再三にわたって諌言するが聞き入れられることはなく、宗勝は親族大名である岡山藩主・池田光政、柳川藩主・立花忠茂、宮津藩主・京極高国と図って、老中・酒井忠清に綱宗と仙台藩家老に注意するよう提訴した。 しかし綱宗の遊興は止まずに、1660年家臣と親族大名の連名により幕府に綱宗の隠居と、嫡子・伊達綱村の家督相続を願い出る。 そして幕府より綱宗は21歳で強制隠居となりわずか2歳にして伊達綱村が4代藩主に就任する。 この背景には綱宗と後西天皇の母親同士が姉妹であったことから、仙台藩と朝廷が結びつく事を恐れた幕府が強引に隠居させたとする説があるが、それよりも大名家の取り潰しや弱体化を画策する幕府の思惑が働いていて、幕府の老中である酒井忠清と伊達宗勝の間には、仙台藩の半分を宗勝に与えるという密約が交わされていたとする風聞が立つのもいたしかたない。

 伊達綱村が藩主になると、叔父にあたる伊達宗勝が後見として実権を掌握し、家老の原田甲斐宗輔(仙台藩家格5番目の着坐) らと藩権力の集権化を行ったことから、地方知行制を維持しようとする伊達氏一門と対立する。 一門の伊達安芸宗重と宗勝の甥にあたる伊達式部宗倫の所領紛争が起こると伊達安芸は幕府に一件を上訴する。 1671年、騒動の裁判を行うため大老の酒井忠清邸に原田甲斐や伊達安芸ら召喚され、原田甲斐宗輔はその場で伊達安芸宗重を殺害する。 しかし、原田甲斐宗輔も安芸派の柴田外記朝意(母は長宗我部盛親娘)と斬りあいになり、原田甲斐は柴田外記によって斬られ、柴田外記も同日死亡した。 山本周五郎の小説『樅ノ木は残った』の題材にもなった伊達騒動、正式には寛文事件とはこのことである。 樅ノ木は残ったでは話は少々違っている。 史実では敵対する原田甲斐宗輔と伊達安芸宗重が、悪名高き幕府の老中・ 酒井忠清に近づく目的で故意に敵対する。 伊達藩の取り潰しを図る幕府の陰謀を阻止するために幕府内部に潜り込み、伊達宗勝と酒井忠清の陰謀を暴こうとする。 淡々とする原田甲斐に対して酒井忠清は心中を探ろうと色々な仕掛けをかけてくるが、原田甲斐は大権力に対して畏れることなく冷静でいる。 原田甲斐の人生を孤独に耐える樅の巨木にたとえた山本周五郎に再び触れてみたくなってしまった。 

                              伊達政宗1567-1636  
103後土御門天皇(成仁1442-1500)  ┃原田甲斐宗輔1619-1671 
┗104後柏原天皇1464-1526     ┣伊達兵部宗勝1621-1679 浄眼院
 ┗105後奈良天皇1497-1557     ┣伊達忠宗1600-1658  ┣伊達綱村1659-1719(4代)
    ┗106正親町天皇1517-1593  愛姫┣伊達綱宗1640-1711(3代仙台藩主)
       ┗誠仁親王(陽光太上天皇)    ┣伊達宗倫1640-1670 ⇔ 伊達安芸宗重1615-1671
       ┃                   ┣伊達宗房1646-1686      ┗宗元1642-1712
       ┃                 ┏貝姫┗吉村1680-1752(5代)柴田朝意1609-1671
            ┃          ┃          佐竹親直1566-1615┛       
107後陽成天皇┛          ┗櫛笥隆子1604-1685(逢春門院)
 ┣聖興女王  1590-1594      ┣光子内親王1634-1727
 ┣清子内親王1592-1674      ┣良仁親王  1638-1685(111後西天皇)
 ┣政仁親王(108後水尾天皇)1596-1680 
 ┣尊英女王   ┃┃┣興子内親王1623-1696(109明正天皇)
 ┣近衛信尋   ┃┃┣昭子内親王1625-1651
 ┃       ┃┃┃ ┣近衛基熙1648-1722(左大臣) ┓
 ┃       ┃┃┃ ┣好君(伏見宮貞致親王妃)    ┃
 ┃       ┃┃┃┏近衛尚嗣(関白・左大臣)    ┃
 ┃       ┃┃┃┗泰姫君(水戸藩主・光圀室)   ┃
 ┣高松宮好仁親王┃┃┣高仁親王1626-1628  ┏━━━━┛
 ┣一条昭良   ┃┃徳川和子(東福門院)  ┃
 ┣貞子内親王  ┃┣紹仁親王(110後光明天皇┃
 ┣庶愛親王   ┃┣守澄法親王      ┃        
 ┣尊蓮女王   ┃園光子(壬生院)    ┃幸子女王(承秋門院)
近衛前子(中和門院)┣常子内親王       ━┛┣秋子内親王 成子内親王1729-1771  
         ┣識仁親王(112霊元天皇)   ┃ 讃岐(伊藤一中娘) ┣-
    園国子(新広義門院)┣栄子  ┣朝仁親王(113東山天皇)┣典仁親王1733-1794┓  
             ┃    ┃      ┃     ┣尊信女王1735-1801┃  
             ┃ 松木宗子(敬法門院)┣直仁親王閑院初代1704-1753 ┃
           鷹司房子(新上西門院)     ┃┃   ┣治子女王1720-1747┃    
                          ┃┃  近衛脩子        ┃    
                    ┏━━━━┛┣鷹司輔平1739-1813      ┃    
                    ┃   長祥院┣鷹司政煕         ┃    
                    ┃      ┣達子伏見宮邦頼親王妃  ┃    
                    ┃       ┣富子有栖川宮織仁親王妃 ┃    
                    ┃      ┣致子今出川尚季室     ┃    
                    ┃      ┣隆範興福寺別当      ┃    
                    ┃      ┣覚尊東大寺別当      ┃    
                    ┃      ┗徳大寺実堅内大臣    ┃    
                    ┃                    ┃    
                    ┣慶仁親王(114中御門天皇)        ┃    
                          櫛笥賀子(新崇賢門院) ┃          ┃
                             ┣昭仁親王━┓     ┃
                           近衛尚子    ┃     ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛     ┃
┃姉小路定子(開明門院)       近衛維子(盛化門院)              ┃
┃      ┣遐仁親王(116桃園天皇)  ┣欣子内親王(光格天皇中宮)       ┃  
┗昭仁親王(115桜町天皇)     ┣英仁親王(118後桃園天皇)           ┃  
  ┣智子内親王(117後桜町天皇) 一条富子(恭礼門院)               ┃        
 二条舎子(青綺門院)                              ┃
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 ┃大中臣祐智女     鷹司吉子
 ┃ ┃         ┣致宮
 ┃ ┣美仁親王1757-1818 ┣愛仁親王1818-1842
 ┃ ┃ ┣-   ┣孝仁親王1792-1824
 ┃ ┃近衛因子随願院 欣子内親王1779-1846
 ┗典仁親王1733-1794   ┣温仁親王 鷹司繁子(新皇嘉門院)1798-1823 
  ┃         ┣悦仁親王   ┣安仁親王1820-1821              
  ┣兼仁親王(119光格天皇) 1771-1840┣慈悲心院宮        九条夙子(英照皇太后)      
大江磐代┣治宮1822┃┃  ┣恵仁親王(120仁孝天皇)        ┣122睦仁親王(明治天皇)養子  
(蓮上院)┃    ┃┃   ┣多祉宮1808┃┃ ┣鎔宮1825-1826 ┣順子内親王1850-1852
 富小路明子?-1828┃┃   勧修寺婧子 ┃┃ ┣統仁親王(121孝明天皇)1831-1866
         ┃┣俊宮1793-1794 ┃┃正親町雅子(新待賢門院)1803-1856┣寿万宮1859-1861
         ┃葉室頼子1773-1846┃┣摩尼珠院宮1829-1831     堀河紀子1837-1910
         ┣猗宮1815-1819  ┃鷹司祺子(新朔平門院)1811-1847
         高野正子1774-1846 ┣胤宮1844-1845 
                    橋本経子1826-1865

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榎原杏奈さん

2010年03月13日 | 河原実乃梨 榎原杏奈 鍛冶沙都紀

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