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官官接待幕府巡見使

2010年03月19日 | 池波正太郎 江戸時代

 元和元年、徳川家康は武家諸法度の一国一城制が遵守されているかを確認するために、諸国の監察を行う「国廻り派遣」の方針を打ち出した。慶長日本図の校訂を理由として「国廻り派遣」を行ったのが最初とされ、同時に参勤交代実施時の大名行列のルートを確認する意図があったとされる。 巡見使を各地方に派遣して各大名の領地に立入らせ、治世の様子の視察などの検分を実施した。 このような事情から広島藩の西国街道の交通網が画期的に整備されたのは1633年、1635年からは「参勤交代」が制度化されたという。 各藩からの贈賄等によって事実を曲げた報告がなされるのを正すために幕府上級旗本三人をもって一組の巡見使として各地方に発遣された。 その巡見使には各々家老、取次役、右筆等40名程度の家来で編成され、総勢120名での巡察となる。 巡見使の発遣が決定するとその藩にとっては重大事である。 藩の内情・事実の隠蔽が発覚した場合は藩にとって命取りになったことから、答弁を統一し不必要な巡見はさせずに、御馳走攻めにすることを心掛けたという。 

 そんな事情を証明するような古文書が鳥取で発見されたのは2008年のことで朝日新聞に掲載されたのを見ると驚愕である。 その古文書は鳥取県の大庄屋の屋敷で見つかった。 ここには官官接待の様子が赤裸々に描かれ、藩側の気苦労が伝わってくる。 大庄屋は鳥取藩の命により接待にあたった。 9回の接待のうち5回分の資料が見つかったのである。 このうち1761年の巡見使約110人についての詳細の記録は、「御巡見様御用御窺帳」 にあり、三殿とよばれた正使(3000石までの上級旗本)と二人の副使(1000石までの旗本)と地元の代表との問答集に記されていた。 それによると囚人の有無を聞かれたときには治安の良さを訴えるために「いない」と答えていた。 また大庄屋が接待の仕方を調べるために隣の津山藩に送った使者の報告書には食事の献立などが記載されていた。 一汁一菜のこの時代にあって鯛の刺身や肉・煮物などふんだんである。 視察を前にぴりぴりした藩側の心境が伝わってくる資料だそうだ。 実は巡見使には出張手当などはなく、所定の俸禄から巡見費用を捻出している。 したがって120名もの大部隊が遠路はるばる巡見に訪れるとなると、それなりの見返りによって幕府への報告が左右されるのは簡単に想像できる。 ところで、1761年当時の鳥取藩主は池田重寛(当時15歳)であるが、母は当時の将軍家の出身である紀州藩6代目藩主・徳川宗直の娘・久姫(重寛が幼少で藩主になったため後見し藩政を仕切った。)であり、正室は桑名藩主・松平忠刻の娘・律姫である。 つまり鳥取藩主は徳川将軍家と極めて深い縁にあるにもかかわらず、旗本クラスの巡見使(お上に代わっての視察ではあるが・・)に対してぴりぴりしていた、というところが大変奇妙なのであるが、これは徳川将軍家の統制力(たとえ深い縁であっても庶藩の突出は許さない)の証であるとも考えられる。

 さて、巡見使の官官接待などはかわいいもので、もっと大掛かりな袖の下を、しかも堂々と大義名分をもって受け取っていたことで有名な幕府の要人に老中・酒井忠清がいる。 前回紹介した伊達騒動・樅の木は残った版では悪役として登場するお方である。 次回はその悪烈ぶりについて紹介したいと思います。

土田弥平次  
 ┣  
生駒吉乃1528-1566
  ┣1織田信忠1557-1582(岐阜城主)二条御所(本能寺の近く)で討死
 ┃ ┣秀信1580-1605(三法師)本能寺の変時に清洲城へ非難 
 ┃ ┣秀則1581-1625(秀信と共に関ヶ原合戦で西軍)
 ┃┏森可成(祖は河内源氏・源義家)娘(徳寿院)
 ┃┣森可隆1552-1570
 ┃┣森長可1558-1584小牧・長久手の戦で討死
 ┃┃  ┣-   督姫1565-1615(家康次女)
 ┃┃┏━娘   ┣池田忠雄1602-1632(鳥取藩祖)
 ┃┃┃    ┃┣池田光仲1630-1693(初代鳥取藩主)
 ┃┃┃    ┃三保姫┣池田綱清1648-1711(2代)
 ┃┃┃    ┃茶々姫(徳川頼宣娘)┃┣池田吉泰1687-1739(3代)
 ┃┃┃    ┃        式姫┃┃  ┣池田宗泰1717-1747(4代)
 ┃┃┃    ┃      菊子(側室)敬姫 中村氏┣池田重寛1746-1783(5代)
 ┃┃┃    ┃        (徳川綱紀娘)  久姫  ┃ ┣池田治道1768-1798(6代)
 ┃┃┃    ┃             (徳川宗直娘) 律姫┃ ┃┣池田斉邦
 ┃┃┃    ┃                  上氏(側室)┃於三保
 ┃┃┃    ┃                    生姫(伊達重村娘)
 ┃┃┃    ┣池田忠継1599-1615 榊原忠次1605-1665(姫路藩主)
 ┃┃┃    ┣池田輝澄1604-1662   ┗榊原政房1641-1667(姫路藩2代)
 ┃┃┣━池田輝政1565-1613(姫路城主)   ┣榊原政倫1665-1683(姫路藩3代)
 ┃┃┃    ┣池田利隆1584-1616  ┏富幾 ┣榊原政邦1675-1726
 ┃┃┃中川清秀娘・糸姫┣池田光政1609-1682 鍋島娘┗榊原政祐1705-1732(養子)
 ┃┃┃        ┃┣池田政言1645-1700    ┗榊原政岑1713-1743(養子)   
 ┃┃┃        ┃┣池田綱政1638-1714(岡山藩主 後楽園を造営)   
 ┃┃┃        ┃┃┣池田吉政1678-1695    
 ┃┃┃        ┃┃千子(丹羽光重娘)    
 ┃┃┃        ┃┣奈阿姫   
 ┃┃┃        ┃勝姫(本多忠刻娘)   
 ┃┃┃        ┣池田恒元1611-1671   
 ┃┃┃     柳原康政娘・鶴姫(徳川秀忠養女)
 ┃┃┣━池田長吉1570-1614
 ┃┃┃  ┣池田長幸1587-1632(備中松山初代城主)
 ┃┃┃ 伊木忠次娘  ┣長常,長信
 ┃┃┃      松子,宮子(森忠政娘)
 ┃┃┣━池田元助1559
 ┃┃┃ 片桐半右衛門娘
 ┃┃┃  ┣-
 ┃┃┣━池田長政1575-1607(母:荒尾善次娘 犬山城にて生)
 ┃┃┃  ┣池田長明1606-1678(伊賀守)
 ┃┃┃加藤嘉明娘┣長重 
 ┃┃┃     ┣長久1645-1697
 ┃┃┃     妾 ┣長喬1676-1723
 ┃┃┃      香昌院 ┣長處1696-1754
 ┃┃┃         峯松院 ┣長仍1725-1796
 ┃┃┃             妾 ┗長玄1741-1814
 ┃┃┃                 ┗-
 ┃┃┃
 ┃┃┣━━若御前   菊亭晴季(越後流罪)1539-1617娘
 ┃┃┃日秀┣-      ┣
 ┃┃┃ ┣豊臣秀次1568-1595(高野山で切腹)
 ┃┃┃ ┣豊臣秀勝1569-1592小吉(妻は淀の妹お江与 朝鮮で病死)
 ┃┃┃ ┣豊臣秀保1579-1595
 ┃┃┃三好吉房1522-1600
 ┃┃池田恒興1536-1584(信長の乳兄弟)清洲会議の宿老 小牧・長久手の戦で討死
 ┃┃                    ↑
 ┃┣森蘭丸1565-1582(長利)本能寺の変で討死 【小牧長久手戦】
 ┃┗森忠政1570-1634
 ┗━━━━━━┓              ↓
        ┣2織田信雄1558-1630(本能寺の変時に伊勢に撤退 宇陀松山藩初代)
        ┃ ┃┣高長1590-1674(宇陀松山藩2代藩主)   
        ┃ ┃┃ ┣長頼1620-1689(宇陀松山藩3代藩主)  
        ┃ ┃┃富田氏      ┣信武1655-1694(宇陀松山藩3代藩主)
        ┃ ┃久保三右衛門娘  津川氏   
        ┃ ┣秀雄1583-1610(亀山城主 関ヶ原合戦で西軍)   
 ┏織田信広-1574┃北畠具教娘(千代御前) 
織田信秀    ┣徳姫(見星院)1559-1636 
   1510-1551 ┃  ┣登久姫                 毛利輝元娘
        ┃  ┃  ┣熊姫┏━━5勝長-1582岩村城主 二条御所で討死┣-  
       ┃  ┃徳川信康┃┏━4羽柴秀勝1568-1586(母不祥)丹波亀山城で病死 
       ┃  ┃    ┃┃┏3信孝1558-1583(母坂氏)伊勢神戸氏継ぐ 四国征伐
      ┗織田信長 1534-1582

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