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戊辰戦争受難の地・退耕庵

2010年03月26日 | 幕末

 京都東山の東福寺の塔頭である退耕庵は、東福寺の西の入り口に位置し、小野小町ゆかりの寺でもあり、鳥羽伏見の戦いのときに長州藩の陣がおかれたことから、鳥羽伏見の戦いでの戦死者の菩提寺にもなっています。 明治元年-明治2年(1868-1869)にかけて繰り広げられた戊辰戦争は、王政復古で成立した明治新政府が薩長土肥の軍事力を用いて、佐幕派の江戸幕府勢力を一掃した内戦のことをいい、鳥羽・伏見の戦い(新政府下での薩長と幕府の主導権争い)、東北戦争(会津藩・庄内藩の処分問題に起因)、函館戦争(旧幕府勢力の最後の抵抗) を総称して戊辰戦争という。

 ペリー来航以来の幕末の混乱の中、政局の中心は将軍のいる江戸から孝明天皇のいる京都へと移っていた。  新撰組は池田屋事件で長州藩過激派を弾圧し、京都見廻組は薩長同盟を成立させた坂本竜馬を近江屋事件で暗殺するなど、京都守護職である会津藩主・松平容保は、配下の京都見廻組や新撰組を使って、討幕派の過激派藩士、浪士を厳しく取り締まった。 しかし、第14代将軍徳川家茂が長州征伐に失敗すると、第15代将軍徳川慶喜は大政奉還を行い、倒幕運動の大義名分を失わせた。 朝廷が行政能力をもっていないため、引き続き旧幕府が新政府下の実質的な政権を担う予定だった。 しかし討幕派(薩摩藩・長州藩や岩倉具視らの一部公家達)は、政治上の劣勢を挽回すべく幼帝明治天皇を利用してのクーデターを計画し、徳川慶喜や親徳川派の公家を排除し王政復古を宣言する。 これは旧幕府と上級公家を廃して薩長派を中心とした新体制による政権奪取であり、徳川慶喜に対して内大臣の官位辞退と領地の返上要求を決定し、薩摩藩は藩士に命じ江戸で騒擾を起こさせたことから旧幕府軍は京都を軍事力によって鎮定するべく兵を進めたのである。 これにより旧幕府軍と新政府軍は激突し戊辰戦争が始まることとなる。

 新政府軍の優勢は戦争終結まで続き、最終的には新政府軍の圧勝となる。 これは、近代化新政府軍に対して、旧幕府側の軍隊が対抗できなかったこともあるが、 徳川慶喜が将兵を置き去りにしたまま敵前逃亡をはかったために、士気が低下し自壊したことが大きい。 徳川慶喜は降伏恭順したため、反抗を続ける旧幕府勢力は核を欠き、東北戦争では奥羽同盟藩の軍備は立ち後れ、同盟に合流した旧幕府軍の精鋭部隊も追い込まれていく。 

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