平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

岩崎弥太郎の次は坂本龍馬

2010年03月20日 | 幕末

 1853年、坂本竜馬が17歳のときに、剣術修行のため江戸に出ると北辰一刀流剣術開祖・千葉周作 (水戸藩に仕え、水戸三流の一つとして北辰一刀流を師範をした。) の弟の千葉定吉の桶町小千葉道場に入門した。 千葉定吉には長男に千葉重太郎、娘に千葉さな子がおり、さな子は入門以来手合わせを坂本龍馬に行っていた。 さな子の初名を乙女といい、小太刀に優れ10代の頃に早くも免許皆伝の腕前に達し、美貌で知られ「千葉の鬼小町」と呼ばれたという。 竜馬が入門して5年後には北辰一刀流長刀兵法の目録を得て、さな子との結婚も許されこのときに婚約したと思われる。 そして短刀一振が正式に贈られた。このとき竜馬は土佐にいる姉・乙女に報告の手紙を出している。 それから9年後に、龍馬の死を知ったさな子は以降も彼を想い続け、一生を独身で過ごした。 死後は身寄りがなく無縁仏になるところ、山梨県の民権運動家・小田切謙明が哀れみ、小田切家の墓地に葬られたという。

 坂本龍馬1836-1867はあまりにも有名ではあるが、生前よりもむしろ死後に世に知られるようになっている。 関が原の戦いでの明暗は土佐の地でもはっきりと現れた。 24万石を誇る土佐藩・山内家の家臣・藩士とは対照的に、負け組みに藩士としての資格は与えられず、郷士としての低い身分に甘んじる生活の中に坂本竜馬は育った。 土佐藩脱藩後は、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中・海援隊の結成し、薩長連合の斡旋や大政奉還の成立に尽力するなど、志士として活動した人物である。 竜馬は通称であり諱は直陰(のち直柔)。 出自は清和源氏の一支族美濃源氏・土岐氏の庶家というから、本能寺の変で「時は今・・・(土岐はいま・・)」と詠んだ明智光秀とは祖を同じくする。 

 郷士坂本家当主・坂本直足(隠居後八平と称した)の次男が直陰(通称竜馬)で、家督は長男の直方(通称権平 竜馬の土佐藩脱藩には反対であったが後には資金援助を行っている)が継いでいる。 母は幸(八平の先妻)で、八平は後に後妻の伊予( 回船問屋の川島家から坂本家に入った評判の美人で、薙刀の名手)を迎える。  幕末の争乱期に坂本家を守ったのは21歳年上の竜馬の兄・権平( 妻の千野との間に長女・春猪と長男・富太郎が生まれるが、富太郎が5歳で夭逝したために、龍馬に坂本家を継がせようとする )で、姉は3人いる。 千鶴1817-1862、栄、乙女(1832-1879 3歳年上、母親代わりで龍馬にとっては最愛、最大の理解者) の3人である。 妻はおりょう(楢崎龍)といい、京都の医者の娘である。 寺田屋で幕吏たちに襲われた龍馬を助け、傷を負った龍馬に連れられて薩摩へと向かい龍馬を陰ながら支え続けた。 また、婚約者であったとされる人物には千葉さな子1837-1896がいる。 名門北辰一刀流・千葉道場の開祖・千葉周作の弟・千葉定吉の次女にあたり、千葉道場を代表する剣術の腕をもっていたことから「千葉鬼小町」と呼ばれ敬遠されていたという。 江戸に剣術修業に来た龍馬と出会い婚約するが、龍馬の死を知った後も彼を想い続け、一生を独身で過ごした。

 婚約から9年後に暗殺の訃報を聞いたさな子は、竜馬が実は結婚していたことを知らなかった。 その相手はあまりにも有名なお龍と呼ばれる医者・楢崎の長女である。父は安政の大獄で捕らえられて獄死しており、貧窮にあえぐ一家を支えるためにお龍は旅館・扇岩で働いた。 間もなく旅館を辞めて尊皇攘夷派の賂いとなるが、この天誅組(公卿・中山忠光を大将とする志士集団であるが、幕府の追討を受けて壊滅する)が幕府の追討を受けると、各地を放浪するようになり、坂本龍馬と出会うこととなる。 そして龍馬の愛人となり、寺田屋に奉公することとなった。 1866年、薩長同盟成立前に、新撰組(反幕勢力の弾圧活動を行う)によって寺田屋が包囲され、このときお龍は風呂に入っていたにもかかわらず、飛び出して龍馬に危機を知らせて救った事件が有名である。その寺田屋事件直後に龍馬はお龍と結婚し、小松帯刀の誘いで温泉旅行を楽しんでいる。

 中岡慎太郎1838-1867といえば、坂本龍馬とともに薩長同盟を結ぶ立役者となった陸援隊隊長でもある。  土佐の大庄屋・中岡小傳次、はつの長男として生まれ、武市瑞山に剣を学び、1861年には武市瑞山が結成した土佐勤皇党に加盟して有力な幹部となったときに龍馬と出会った。 土佐勤皇党は長州薩摩の尊皇攘夷派との連携を目的としており、1862年には長州の久坂玄瑞・山県半蔵と親交を深め、松代に佐久間象山を訪ねている。 しかし、1863年の八月十八日の政変以降に土佐藩内でも公武合体派の勢力が強くなり、藩主・山内容堂による尊王攘夷活動に対する弾圧が始まったために藩を脱藩し、長州藩に亡命する。 同じく脱藩した坂本龍馬が勝海舟の弟子となり海軍術を学んでいた間、中岡慎太郎は長州藩内で脱藩志士たちのまとめ役となる一方で、各地の尊攘派志士たちとの重要な連絡役となる。

 新撰組を脱して御陵衛士を組織した伊藤甲子太郎が中岡の寓居を訪れ、新撰組が狙っていると警告するも、丁重に礼を述べ気配りをする人柄であった中岡に比べて竜馬はひとごとのような様子であったという。 1864年、石川誠之助を名乗って上洛し、薩摩藩の島津久光暗殺を画策したが果たせず、脱藩志士たちを率いて禁門の変、下関戦争を長州側で戦い負傷している。 朝敵となった長州藩への弾圧を目の当たりにして、活動方針を単なる尊皇攘夷論から雄藩連合による武力倒幕論に発展させる。 朝敵解除という意味では薩摩藩にとって意義はあまりなかったと思われるが、 倒幕目的では薩長の勤皇の志は一致する。 手を結べば倒幕が可能であると最初に考えたのは、坂本龍馬でも中岡慎太郎でもなく、実は福岡藩士・月形洗蔵である。 福岡藩黒田家は関が原の戦いで活躍した黒田長政のおかげで52万石の大封を受けた藩なのである。 従って土佐藩以上に幕府に恩義を感じている藩であった。 そして洗蔵ら筑前の勤皇党は粛清されてしまった。 勤皇派の家老六人は切腹、月形らは斬首となった。 このために薩長連合工作は中岡と龍馬が進めることとなり、長州藩の桂小五郎と薩摩藩の西郷隆盛との会合による薩長同盟締結を志士たちの第一の悲願として活動し始めると、三条実美や三条の随臣・土方楠左衛門をも説き伏せて、京都・薩摩藩邸において薩長の和解・同盟を結実させた。 この同盟の場に居合わせた福岡藩勤皇党の生き残り早川養敬は、中岡慎太郎の地道な働きによる功績は大きいと語っている。

 更に土佐藩を取り込むために、京都の料亭「吉田屋」において、薩摩の小松帯刀・大久保利通・西郷隆盛、土佐の後藤象二郎・乾退助・中岡慎太郎・坂本龍馬との間で、倒幕・王政復古実現のための薩土盟約が締結される。 この薩土盟約は、更なる雄藩連合推進のため、長州藩の隣の安芸藩を加えた薩土芸三藩約定書に拡大発展する。 これらの慎太郎・龍馬による軍事同盟は、土佐藩内においては戊辰戦争において薩摩・長州・肥前と並ぶ倒幕の主要勢力とし、 土佐出身者は薩摩・長州・肥前出身者同様に幕末・明治をリードする主要政治勢力となっていった。 その中岡慎太郎は後に近江屋で坂本龍馬とともに散った。中岡慎太郎は京都・近江屋に坂本龍馬を訪問中に襲撃され、瀕死の重傷を負い二日間生き延びたが死去。 龍馬はほぼ即死であったという。

 後藤象二郎1838-1897は、もともと土佐藩士で、義兄・吉田東洋の弟子でもある。 1858年に吉田の推挙により活躍するが、翌年に吉田東洋が武市半平太らの土佐勤皇党に暗殺されると失脚した。 吉田東洋のもとに集まった若手を当時「新おこぜ組」と呼んだ。 これは、「おこぜ」というのが土佐で取れる貝の名前で、これを持参して山、海にでれば多くの収穫があるとの俗信があり、野心に満ちた収穫を求める連中という意味で使われた。 藩内改革を目指したおこぜ組に対して、挫折した連中に対する悪口で使われたという。 後藤象二郎のライバルは武市半平太である。 天皇と下級武士が結びついて改革を推進する半平太に対して、後藤の意図は山内容堂のもと、藩を改革し公武合体路線を進むことにある。 半平太は藩の路線を変えるために容堂の片腕であった東洋を暗殺させたのである。 その容疑で捕らえられた半平太に容堂から切腹を申し渡されたとき、申状を読み上げたのが後藤象二郎であった。 

 坂本龍馬は初めは半平太と行動をともにしていたが、過激な活動に疑問を持ち決別したあとは、後藤象二郎を通じて土佐藩に復帰し、 勝海舟の後押しで設立した貿易会社・亀山社中は「土佐藩海軍別働隊」というべき海援隊に変わったのである。 半平太切腹後の土佐勤皇党は崩壊して、多くのメンバーが龍馬のもとに集まったが、彼らは龍馬が勤皇党の宿敵であった後藤象二郎と組むことに反対であったが、後藤の将来に対する展望の大きさを説く。 龍馬は海舟の弟子として既に名士であり、他藩との交流は深かったが、出身の土佐藩との太いパイプは無かった。 かくして後藤象二郎との連携によって亀山社中ではなしえないことを土佐二十四万石を動かすことのできる後藤の力を借りて果たすこととなる。  つまり、1867年、政治姿勢を攘夷論に転換した後藤象二郎が、尊皇派の坂本龍馬と会談し、坂本の提案とされる船中八策に基づき、将軍・徳川慶喜の大政奉還を提議し、在京幹部の同意を得た後に、薩摩藩の賛同も得て薩土盟約の締結につながることとなる。 しかしこの盟約はすぐに解消となった。 これは象二郎が帰国して盟約についての報告を山内容堂にすると、容堂は武力発動の可能性を持つこの盟約に難色を示し、倒幕路線を歩む薩摩とのずれから盟約は解消されたのであった。 しかし象二郎は薩摩との提携解消後も大政奉還への努力は続け、山内容堂とともに連署して大政奉還建白書を提出し、徳川慶喜がこれを受けたために大政奉還に至った。 大政奉還は坂本龍馬がアイデアを後藤象二郎に教え、それを後藤が山内容堂に伝えることによって土佐藩の藩論となり、容堂の名を持って将軍・徳川慶喜に建白されたということである。 建白書を京都・二条城にいた慶喜のもとに運び、説いたのは後藤象二郎であり、その説得術は完璧であった。

 宮廷のクーデターである王政復古の改革を起こした岩倉具視は隠棲し極貧を余儀なくされる。 幕府との協調を進めた公武合体派公家が狙われていたからである。 王政復古のクーデターの際には武家を指導する西郷隆盛が呼応し、一方高杉晋作は1862年に上海から帰ると江戸在勤を命じられ、同藩の久坂玄瑞、伊藤博文、井上肇らとともにイギリス行使館を全焼させる事件を起こしている。 また坂本龍馬は天誅まっただなか、勝海舟の家来として京都に入り土佐藩邸で脱藩の罪を許され、勝海舟の護衛に岡田以蔵(天誅組の有名な刺客)を付けて土佐勤皇党の若者たちを勝海舟門下にに引き入れた。 翌年4月に神戸海軍操練所が建設され、坂本龍馬は大軍学者・勝麟太郎と客分の関係となる。 幕船順動丸に姉小路公知、木戸孝允が視察に訪れ竜馬も参加すると、勝海舟は海軍の必要性を力説している。 孝明天皇は尊攘派公家である政通の子・鷹司輔煕が安政の大獄の赦免を受けて関白に就くことを快く思っておらず、 薩摩、会津藩による尊攘派追い出しの武力クーデターに至る。

 幕末の雄藩といえば薩長土肥が有名であるが、徳川の親藩・越前藩も松平春嶽という名君によって藩の建て直しが成功している。 土佐勤皇党であった坂本龍馬は開国論者・勝海舟に会いに行き(当初暗殺が目的であった)歴史は大きく動きたが、そのきっかけは松平春嶽にあるという。 坂本龍馬は最初、春嶽に会い勝を紹介された。 郷士の階級の人間が越前の殿様に会えるということは江戸中期では考えられないことであるが、国を思う優秀な人材には身分の壁を飛び越えて接する姿勢が春嶽にはあった。 後に勝海舟が神戸に海軍操練所を造ったときに、坂本龍馬を越前藩に使者として送り運営資金の調達を行っている。 このとき海軍の育成の重要性を理解した春嶽は5000両をだした。 これは春嶽の軍師・横井小楠のアドバイスでもあり、また同志として越前藩士・由利公正を龍馬に紹介している。 由利公正も横井とともに越前藩の財政立て直しを行った人物で、龍馬は新政府の財政立て直しを懸念して由利公正に相談を持ちかけている。 坂本龍馬が近江屋において暗殺され、王政復古後由利は新政府に招かれて財政を担当したが、このときに坂本龍馬の船中八策を整理し、新政府の根本方針としたのである。 五箇条の御誓文がそれである。

 坂本龍馬は初めは半平太と行動をともにしていたが、過激な活動に疑問を持ち決別したあとは、後藤象二郎を通じて土佐藩に復帰し、 勝海舟の後押しで設立した貿易会社・亀山社中は「土佐藩海軍別働隊」というべき海援隊に変わったのである。 半平太切腹後の土佐勤皇党は崩壊して、多くのメンバーが龍馬のもとに集まったが、彼らは龍馬が勤皇党の宿敵であった後藤象二郎と組むことに反対であったが、後藤の将来に対する展望の大きさを説く。 龍馬は海舟の弟子として既に名士であり、他藩との交流は深かったが、出身の土佐藩との太いパイプは無かった。 かくして後藤象二郎との連携によって亀山社中ではなしえないことを土佐二十四万石を動かすことのできる後藤の力を借りて果たすこととなる。

坂本龍馬遭難の地(近江屋跡)と東山にある幕末ミュージアム(近くに龍馬の墓がある)

コメント