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大坂東町奉行所跡

2010年03月08日 | 池波正太郎 江戸時代

 大阪城公園で写真撮影を行ったあとスタジオへ向かう途中で見つけたのがこの『東町奉行所址』の石碑。 城の京橋口の外、京橋通りと谷町との角屋敷で、天満橋の南詰東側にあたり、東町奉行所の東は城、西は谷町通、南の島町通りには街を隔てて籾蔵があり、小泉淵次郎が切られて大塩平八郎の乱が早まったきっかけを生んだ舞台・大坂町奉行所があったところなのである。 ここには幕府直轄地として将軍直属の大阪城代が置かれており、城代は約5万石の譜代大名から選ばれ関西の諸大名の監視に務めた。 

 大坂町奉行所の創設は1619年、幕府の畿内・西国を支配し1722年以後は、管轄範囲が和泉・播磨に拡大された。 東町奉行と西町奉行にわかれると配下にそれぞれ与力30騎と同心50人が置かれ裁判の処理、犯罪人の探索などは与力が担当する。 さて、大塩平八郎は陽明学者で、ここ大坂町奉行所で与力を勤めていた人物なのである。 そして与力であったにもかかわらず、「大塩平八郎の乱」 という幕府に逆らう事件を起こして最後は自決をした人物なのである。 代々与力を務めて禄を受けていた平八郎は清廉潔白にして不正を次々と暴くことから市民の尊敬を集めたが、奉行所を辞職すると養子の大塩格之助に跡目を譲り、自宅で洗心洞という私塾を経営したという。 与力というのは特別職とされ、一代限りの採用であるのに対して、旗本は後継が耐えない限り息子が跡を継げるところに違いがある。 しかしながら平八郎家は代々 与力職を世襲したから実力があったのだろう。 陽明学に傾倒した平八郎が引退した数年後の45歳のときに天保の大飢饉が起こった。 幕府への機嫌取りのために大阪から江戸へ送られる米と、豪商による米の買い占めにより大阪の民衆が飢餓にあえいでいることに心を痛めた平八郎は、当時の東町奉行に対して、蔵米を民に与えることや、豪商に買い占めを止めさせることを要請した。 聞き入れられなかった平八郎はとうとう洗心洞の門弟数十名とともに米蔵を襲う暴挙にでたが、あえなく失敗におわり鎮圧された。 陽明学の本分は失敗を怖れずに実行することにある、という意味でも、また幕府の役人が町民を集めて幕閣のやり方に対して反乱を起こしたという意味後世に与えた影響は大きい。

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