今まで坂本龍馬にゆかりの人物を取り上げてきたが、今回は龍馬伝で龍馬以上に脚光を浴びている人物について触れたい。 その人物は三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎である。 土佐の身分の低い地下浪人であった弥太郎は、龍馬伝では龍馬に対してライバル意識丸出しで強烈なインパクトをもって登場する。 しかし実は龍馬と初めて出会ったのは弥太郎35歳、龍馬33歳のときなのである。 つまりであったのは龍馬が暗殺される数ヶ月前のことなのであるが、それまでの弥太郎の人生は大河に描かれていることに間違いないようだ。 土佐藩には独特の身分制度があり、郷士は武士のなかでも低い身分であったが、その郷士株さえも貧窮のために売ってしまい武士とみなされなかった者を地下浪人と呼んだ。 弥太郎の前半生はそういった差別と屈辱から始まったのである。(追って解説します) 弥太郎が学問で身を立てようと決心したのは土佐藩最高学府の教授館で、漢詩を表彰されて以降である。 15歳で陽明学者の岡本寧浦のもとで学び、20歳で江戸の学者について学んだという。 此の頃父・弥次郎が庄屋といさかいを起こして負傷したときに、わずか二週間ほどで江戸から高知に戻り奉行所に訴えた。 このときに奉行所の壁に「役人は賄賂で成り立ち、罪はひいきによって決まる」との落書きを二度もしたことから7ヶ月投獄されることとなる。 この投獄時代に知り合った商人や職人から商売に対する意識を目覚めさせたという。
当時土佐藩の藩政を仕切っていたのが吉田東洋で、弥太郎の論文が東洋の目に留まって人生は大きく転換する。 26歳のときに初めて藩の役職を得て、長崎出張を命じられた。 弥太郎の使命は土佐の物産を長崎から輸出できるかどうかの調査及び、欧米諸国の情報収集であった。 しかし弥太郎の日記によると、連日連夜丸山の遊郭に通って飲み明かしたことが書かれている。 当時の折衝は妓楼抜きではできず、遊蕩三昧も仕事のうちであったのかもしれない。 しかし弥太郎が藩の公金を私的に使い込んだ額は半年で100両にも及んだという。 とうとう結果を残さず勝手に帰国した弥太郎は藩をくびになり浪人生活を送ることとなった。 しかし吉田東洋の弟子・後藤象二郎の口ぞえで藩に復帰し再び長崎に向かい、このときに龍馬と初めて出会ったのである。 龍馬と出会う少し前の29歳のときに喜勢を妻とし、長崎土佐商会時代に当時17歳であった町芸妓・青柳と出会う。 こうして妻以外にも6人の妾をもった。
岩崎弥次郎 加藤高明(24代総理)
┣岩崎弥太郎 ┃
┃ 1835-1885 ┣加藤厚太郎
┃ ┃┣春路
┃ ┃┣岩崎久弥1865-1955(三菱財閥3代目)
┃ ┃┃ ┃ 国広達宣
┃ ┃┃ ┣岩崎彦弥太┣-
┃ ┃┃ ┃ ┣勢津子
┃ ┃喜勢 ┃ ┃山村泰弘
┃ ┃1845- ┃ ┃┣-
┃ ┃1923 ┃ ┣昭子
┃ ┃ ┃ ┣岩崎寛弥(東山農事社長)
┃ ┃ ┃ ┃高島孝之
┃ ┃ ┃ ┃┣高島義彦
┃ ┃ ┃ ┣美智子
┃ ┃ ┃ 操子 元良誠三
┃ ┃ ┣岩崎隆弥 ┣元良信彦
┃ ┃ ┃ ┣由美子
┃ ┃ ┃ ┃槙原稔
┃ ┃ ┃ ┃┣槙原純
┃ ┃ ┃ ┣喜久子
┃ ┃ ┃ 敏
┃ ┃ ┣岩崎恒弥
┃ ┃ ┃ 沢田廉三
┃ ┃ ┃ ┣沢田久雄
┃ ┃ ┃ ┣沢田信一
┃ ┃ ┣美喜
┃ ┃ ┃甘露寺方房
┃ ┃ ┃ ┣-
┃ ┃ ┣澄子
┃ ┃ ┃ 福沢堅次
┃ ┃ ┃ ┣福沢雄吉
┃ ┃ ┣綾子
┃ ┃ 寧子
┃ ┃木内重四郎
┃ ┃┣木内良胤━木内昭胤━木内孝胤(衆議院議員)
┃ ┃┣木内信胤(経済評論家)
┃ ┃┣木内登美子 ┣-
┃ ┣磯路 ┣- 多代(福沢諭吉の孫)
┃ ┃ 敬三(明治の大蔵官僚:渋沢栄一の孫)
┃ ┃ 入江相政(エッセイスト)
┃ ┣岩崎豊弥┣入江為年
┃ ┃ ┣君子
┃ ┃ ┣岩崎勝太郎
┃ ┃ 武子
┃ ┃早尾惇実
┃ ┃┣幸子
┃ ┣富子
┃ ┣岩崎秀弥
┃ ┃幣原喜重郎(44代総理)
┃ ┃┣幣原道太郎
┃ ┣雅子
┃ ┣照子
┃ ┣岩崎康弥 鎮西清高(地球科学者)
┃ ┃┣岩崎精一郎 ┣
┃ ┃とし ┣由利子
┃ ┃ ┣岩崎泰頴(地球科学者)
┃ ┗岩崎正弥 小枝子
┣岩崎弥之助1851-1908(三菱財閥2代目)
┃ ┣繁子
美和 ┣岩崎小弥太(三菱財閥4代目)
┣岩崎俊弥(旭ガラス創業者)
┃┗岩崎英二郎(ドイツ語学者)
┃ ┣-
後藤象二郎┣岩崎輝弥 北原白秋娘
┗早苗