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上杉の軍師・直江兼続の邸宅跡

2010年03月22日 | 戦国時代

 軍師といえば山本勘助、竹中半兵衛、黒田官兵衛などが有名であるが、武田信玄は山本勘助がいなくても、今語られる信玄であったであろうし、秀吉も官兵衛がいなくても秀吉であったであろう。 しかし直江兼続がいなければ決して上杉景勝はいなかった。 つまり豊臣政権の五大老のひとりにはなれなかった。 兼続1560-1620は樋口与六として身分の低い家に育ったが、幼き頃から頭角をあらわし、名門直江家を入り婿として相続し、上杉家の重臣となり与板城主となった。 上杉謙信が倒れ御館の乱というお家騒動が起こったとき、北条家から養子にはいった上杉景虎が圧倒的優位に立っていた。 景虎が後継者になれば実家の大大名である北条家と同盟が結ばれる。 そして北条家から嫁を迎えていた武田家の当主・武田勝頼とも同盟ができあがり、北条・武田・上杉の義兄弟同盟によって大敵である織田信長にも対抗できるという目算があった。 従って北条家の当主・北条氏政は義弟・武田勝頼に対して上杉景虎の援護をするようにと依頼していた。 窮地にたっていたのが上杉景勝(謙信の姉の子)である。 ところが景勝は絶対不利のこの状況をひっくり返し武田勝頼を味方につけたことにより、御館の乱で勝利して上杉家を継いだのである。 これにより武田勝頼は北条家を敵に回しただけではなく、同盟のチャンスの逃し、北条氏政を信長との連合に走らせ、1582年滅亡することとなる。 今から考えればありえないことであるが、これは直江兼続の軍師としての采配によるものである。 上杉謙信の遺産により勝頼を寝返らせたことと、父信玄のなし得なかった上杉家が武田家の家臣として仕えると景勝が誓ったことで、謀略は成功したのである。  1584年末から上杉家の二大巨頭のひとり秀治が病に倒れ、兼続は単独執政を行ない、兼続死去まで続くことになる。 1588年には関白太政大臣豊臣秀吉から豊臣の氏を授けられ、豊臣兼続として佐渡征伐に景勝と共に従軍すると平定後には佐渡の支配を命じられる。 越後・佐渡の金山支配を任せられ、秀吉の命令で景勝が越後から会津120万石に加増された際、兼続には出羽米沢に6万石の所領が与えられている。 1598年9月18日に秀吉が死去すると、徳川家康が台頭するが、石田三成と懇意であった兼続は、家康と対立する。 関ヶ原の戦いの遠因となる会津征伐を引き起こしたときに家康を激怒させ、会津遠征を決意させた直江状は有名である。 美濃での関ヶ原本戦で西軍が敗れた事を奥州で知った上杉軍は長谷堂城攻略を中止して撤退を開始した。 この撤退戦の見事さは語り草となり、旧日本陸軍参謀本部の日本戦史でも取り上げられている。 1601年7月、兼続は景勝とともに上洛して家康に謝罪し、上杉氏の存続を許された。 その後は徳川家に忠誠を誓い、 兼続は新たな土地の開墾を進めるために治水事業に力を入れるなど新田開発に努め、 町を整備し、殖産興業・鉱山の開発を推進するなど米沢藩の藩政の基礎を築いた。 1614年からの大坂の陣においても徳川方として参戦し、鴫野の戦いなどで武功を挙げた。

 京都・聚楽第南の直江兼続邸跡 推定地は京都御所のすぐ西側に位置します。近所のおばさんの話では、この碑は最近(2009年秋頃)に建ったらしく、確実にNHK大河ドラマの影響と思われます。

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