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火付盗賊改・長谷川平蔵

2010年03月29日 | 池波正太郎 江戸時代

 今回は、江戸末期の賄賂政治にまつわる人物についての紹介です。  少し前に田沼意次に仕える剣客・秋山小兵衛を紹介したので、田沼意次に持ち上げられた旗本の長谷川平蔵を取り上げる。 池波正太郎の鬼平犯科帳の主人公として活躍する長谷川平蔵は、松平定信による寛政の改革で強盗・殺人が横行する時代に登場し、火付盗賊改の長官として一般庶民から慕われる人物像であるが、実際はかなり違うようである。 田沼意次に賄賂を贈ることにより引き上げられ、田沼意次と犬猿の仲であった松平定信が老中になったことから出世の道は絶たれ、田沼意次が失脚後に隠居に追い込まれると、長谷川平蔵も同様に屋敷没収の憂き目にあったという説もある。 長谷川平蔵が火付盗賊改方長官であったのは1787年から1795年までの8年間で、浅間山大噴火や大飢饉により、インフレが起こった時である。 時の老中・田沼意次が1786年に失脚し、翌年松平定信が老中に就任して寛政の改革が始まるという経済不安の中で、長谷川平蔵は火付盗賊改の長官となった。 長谷川氏の当主が代々受け継ぐ名である平蔵を通称とした長谷川宣以1745-1795は江戸時代の旗本・長谷川宣雄の嫡男として生まれ、母は町人の女であった。 23歳の時に江戸幕府10代将軍・徳川家治に御目見えし、長谷川家の家督相続人となると、旗本の大橋与惣兵衛親英の娘と結婚し宣義を授かった。 青年時代は奔放な風来坊で、 父・宣雄は火付盗賊改役を経て京都西町奉行に付き、平蔵とともに京都に赴く。 1773年、父・宣雄が京都で死去すると平蔵は江戸に戻り、30歳で長谷川家の家督を継ぐ。 31歳で江戸城西の丸・将軍世子の警護役に任ぜられると、後は田沼意次とともに順調に出世していったが、老中・松平定信の頃、42歳のときに火付盗賊改役に任ぜられた。

 寛政の改革では人足寄場(犯罪者の更生施設)の建設を立案し功績を挙げた。 この時上司である老中・松平定信に予算の増額を却下されたことから幕府から預かった資金を銭相場に投じるという、田沼意次をほうふつさせる方法で資金繰りを行ったという。 これにより田沼意次を毛嫌いしていた定信とは折り合いが悪く、功績は認めるものの 「山師などと言われ兎角の評判のある人物だ」 と述べたという。 また、清廉潔白とはほど遠く、「長谷川平蔵のようなものを、なんで加役に仰せ付けるのか」と同僚の旗本たちの信頼は薄かった。 1789年関八州を荒らしまわっていた大盗・徳次郎一味を一網打尽にしてその勇名を天下に響き渡らせたものの、幕閣や同僚の信頼は薄く、出世はままならなかった。 しかし人情味溢れる仕事振りに庶民からは人気があったという。 火付盗賊改役の御役御免を申し出て認められた直後に、11代将軍・家斉からは労いの言葉を受け、高貴薬「瓊玉膏」を下賜されたがすぐに死去し、長谷川家の家督は嫡子長谷川宣義が継いだ。 また、長谷川平蔵の住居跡には数十年後に江戸町奉行となる遠山景元が居を構えたという。

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