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崇徳天皇と結びついた藤原頼長

2012年03月07日 | 平安時代

 近衛天皇が崩御したのが1955年、近衛天皇の第一皇子であり美福門院(得子)の養子となっていた守仁親王が即位するまでの中継ぎとして、雅仁親王は29歳で即位して後白河天皇が誕生した。その翌年には保元の乱が起こっている。当時の後白河天皇は暗愚の君とよばれていたために、鳥羽は崇徳と頼長の結びつきに危機感を抱き、死の直前に藤原得子・美福門院に遺言を残した。 それは「武士団を召集して、崇徳や頼長が謀反を起こしたことにして討つ」 というものである。 1156年の保元元年に鳥羽は崩御し戦いは始まった。 最初、鳥羽側の武士団には最有力の清盛はいなかった。 述べたように、崇徳は鳥羽の実子ではなく、白河と藤原璋子の子である。 また清盛も忠盛の子ではなく、白河が愛人・祇園女御を孕ませ、忠盛に押し付けた跡に生まれた子である。 しかし後を託された藤原得子は武力・財力に秀でた清盛を招集し、清盛も呼応した。 また左大臣頼長と仲の悪かった源義朝は鳥羽側についた。 一方、崇徳、頼長側は平忠正、源の総帥・為義、為朝を召集した。 保元の乱の結果は源義朝の奇襲により後白河側が勝利し、 頼長は重症を負って闘争中に死亡、崇徳は末弟の覚性法親王が門跡を務めていた仁和寺に助けを求めたが、密告されて捕まった。 藤原頼長が何故崇徳上皇と結びついたのかであるが、前回の記載のように、近衛天皇が17歳で崩御したとき、崇徳は自分が返り咲くか、子の重仁親王(美福門院・藤原得子の養子に迎えられかわいがられていた)が即位することを期待したのであるが、雅仁親王が後白河天皇として1955年に即位したのである。 このときの崇徳上皇の激怒に乗ってきたのが悪左府と呼ばれた左大臣藤原頼長である。 藤原頼長の墓は京都・相国寺内にあります。

 因みに、保元の乱の2年後後白河は上皇となり二条天皇が即位した。 院政により天皇を無力化することで権勢を思いのままにしようとしたが、二条天皇は優秀な御方で後白河の思いのままにはさせなかったが、1165年、23歳の若さで早々と崩御し六条天皇が即位したため実質的な院政は始められた。 この頃、清盛の妻・時子の妹・滋子は後白河の寵愛を受けて男子を産んでいた。 これが後の高倉天皇であり、時子が産んだ平徳子が入内することで案徳天皇が生まれる。 こうして平家は繁栄していくのであるが、1176年、高倉の母・滋子が33歳の若さでなくなると、大きくなりすぎた平家を警戒した後白河は打倒 平家の陰謀を画策する。 これが鹿が谷の密議である。 1177年、後白河の近臣である僧・俊寛、藤原成親が鹿が谷の別荘に篭って平家打倒を企てたが密告により征圧された。 首謀者は流罪となったが後白河は関与を認めなかった。 しかし清盛はその2年後に後白河の幽閉して多くの近臣を解官して院政を停止した。 本来であればここで権勢を振るうのは清盛の手の内にある高倉上皇であったが、高倉は病弱で、長男・次男も既に亡き人となっており参謀が誰もいない状態である。 結局清盛は後白河の幽閉を解き。政界に復帰させた。

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法然の高弟・法本房行空 住蓮 幸西

2012年03月05日 | 平安時代

 法然の高弟・安楽房遵西以外に知られている僧・法本房行空がいる。興福寺の僧から専修念仏停止の訴えがあった際に安楽房遵西とともに非難の的となって、法然より波紋された僧である。比叡山の堂衆であった法本房行空は安楽房遵西とともに南都北嶺の旧仏門体制と戦おうとしていた。ちょうどその頃、綽空(吉水の草庵に通っていたことの親鸞の名)は法然上人より選択本願念仏集の書写と、法然の肖像画の制作を許される。 綽空が法然の門下生となって4年目の頃である。 安楽房遵西や法本房行空とともに専修念仏を広めることに尽力した僧に住蓮房、幸西房がいる。幸西は一念の信で往生が成就するという一念義を主張した法然の高弟である。 興福寺の宗徒からは朝廷に対して念仏停止の告発状がでていたのであるが、当時権勢を振るっていた九条兼実(天台座主・慈円の兄にあたる)は法然に帰依しており、興福寺の弾圧に対して後ろ盾になっていたと思われる。 住蓮は安楽房遵西とともに美声の持ち主といわれ、念仏布教の際には大変な人気を博したためであろうか、後鳥羽上皇の女房たちに安楽房遵西とともに密通を働いた、との嫌疑をかけられて、1207年3月9日に弟子の僧と共に斬首の刑に処せられている。 仔細はこうである。後鳥羽上皇が熊野詣のために京を留守にしている間に、後鳥羽の寵愛していた女官ふたりが突然無断で出家しようとした。安楽房遵西と住蓮房主催の東山の念仏法会に参加した二人の女官は感激のあまりに出家を決意したという。熊野詣から帰ってきた後鳥羽院の激怒ぶりはただごとではなかったという。かくして安楽房遵西は1207年に六条河原で斬首刑となったが、1207年というと九条兼実が死去した年である。いままで何とか法然に帰依した兼実がいたからこそ、興福寺からの告発状に対して均衡を保ちつつ、法然の門弟、安楽房遵西・法本房行空・住蓮・幸西を護ることができていたが、兼実の死去により均衡は崩れ、後鳥羽院の女房との密通といううわさが、後鳥羽院の怒りをかって、安楽房遵西・住蓮は斬首、幸西は阿波へ流罪となった。 安楽房遵西については羅切というから、陰茎切断の上の斬首である。 後鳥羽院の怒りはこれでも収まらず、法然を讃岐へ、親鸞を越後へ流罪としている。これらの処置でもわかるように後鳥羽院はかなりの激情タイプであり、後に鎌倉幕府との戦い(承久の乱)で完敗すると隠岐に流され、隠岐の配所で崩御している。 このとき正式に念仏停止の院宣が下され、法会や説法はもちろん念仏を唱えることも禁じられたのである。

 ところで、浄土宗の念仏は九条兼実らに帰依されたから、興福寺からの弾圧があっても法然・親鸞までは死罪にはならなかった。これには天台座主の慈円(九条兼実の同母弟)の働きかけもあった。慈円1156-1225、兼実1149-1207は太政大臣・藤原忠通1097-1164と加賀姫(藤原仲光の娘)との間にできた子である。 実はこの兄弟には信円1153-1224という異母兄弟がいた。このお方、太政大臣松殿・基房を同母兄にもつ人物で、興福寺の僧なのである。平家によって焼き討ちにあった興福寺の復興に尽力したのである。したがって、法然を護ろうとした天台・慈円と、追放しようとした南都・信円が異母ではあるが兄弟というところが興味深い。慈円、信円および、兼実、基房に宗教的に何か対立関係があるのだろうかと調べて見たが、特にそのような記述はなく、ふたりはともに九条家の宗教的護持にあたったようである。

知恩院にある法然上人御廟

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法然の高弟・安楽房遵西

2012年03月03日 | 平安時代

 法然は親鸞の師である。法然も比叡山の修行を積んだ後、真の仏を見出すことができずに山を降りて市井の聖となった。何故、貴なるものも卑しいものもすべての人たちが吉水の草庵に集まってくるのか、それが親鸞、いや範宴の疑問であった。何も難しい説法などはなく、只ひたすらに念仏を唱えるだけであるのだが、その意味や本願などはどうでもよく、法然の声や姿が自然に発するなんともいえない気配が大きくて暖かい。そして法然の言葉に嘘いつわりはかけらもなく、信頼感と安心感が漂っている。法然は万巻の経典のなかから一行の言葉に触れて阿弥陀仏という仏に出会い、すべてをなげうって帰依したという。これを選択という。救われたいという願いと救いたいという願いが触れ合って、そこから闇を照らす光が生まれる。法然を見ていると、そういう微塵も揺るがない姿と光を感じることができるのである。このような人格を古い天竺では仏陀といい、何人もいたらしいが、中でも真の仏陀として信頼を得ていたのが釈尊である、というのを思いながら範宴は法然に手を合わせた。時は鎌倉幕府第二代将軍・源頼家の時代で流行り病で大勢の人が死に、盛大な法会が催されるものの効果は無く、末法の世といわれていた。 それだけに吉水の草庵には多くの人々が集まっているのである。 法然の左右には弟子たちがひかえていたが、その中でもひときわ凛々しい美声で念仏の前に人々を酔わせるのは安楽房遵西という法然の高弟である。安楽房遵西は後白河法皇の側近である高階泰経1130-1201という公卿(木曽義仲により後白河院が幽閉されたときに解官、源義経謀反のときに解官 源頼朝が後白河法皇のことを日本一の大天狗と言ったといわれているが、実はこの書状は高階泰経に宛てたものである。) に仕えていたが、出家後法然に師事し専修念仏の普及に尽力した僧である。後に後鳥羽上皇の女房たちが安楽房遵西たちに感化されて出家したために、後鳥羽上皇の怒りに触れて斬首刑となっている。 (承元の法難) これは1207年のことであるから親鸞が吉水に通った頃の5年後のことである。安楽房遵西が後鳥羽上皇の女房を出家に追いやったというのは定説のようであるが、実はもっと深いところに斬首刑の理由があるように思えてならない。 そのあたりを次に紹介する。

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親鸞が市井の聖にめざめた頃

2012年03月02日 | 平安時代

 親鸞が比叡山をおりて、吉水の草庵を訪ねたのは29歳のときである。 聖徳太子が建立したといわれる六角堂に百日参籠を行い、そして95日目の暁の夢中に聖徳太子が示現され、「此は是我が誓願なり 善信この誓願の旨趣を宣説して一切群生にきかしむべし」の告を得たという。 これは、無戒であるということは仏法の常識や世間の常識などそれらのすべてにとらわれず、自由に生きることをいう。あらゆる俗習、行儀を無視して約束事に縛られずに生きることである。 この1203年は慈円が天台座主についた前年のこと、源頼朝が没して頼家が鎌倉幕府を受け継いだすぐあとの時代である。 ところで聖徳太子が開いたといわれる六角堂(820年頃)は京都右京区にある頂法寺であるが、同じく右京区に広隆寺という聖徳太子ゆかりの寺がある。 ここに桂宮院という八角堂(1250年頃)があり、これは法隆寺夢殿の八角円堂(740年頃)にその範を得ている。親鸞が山を降りたときには慈円の驚きは想像を絶するものであったと思われるが、「真の仏」を求めて苦悩した親鸞の思いが伝わったからこそ実現したものといえる。太子の夢告に従い、夜明けとともに吉水の法然の草庵を訪ねる。 この草庵の場所を金戒光明寺あたりと思っていましたが、東山円山公園近辺の旧安養寺あたりのようです。 昔訪れた東山の「左阿弥」という料亭の記載をしたときの記憶に安養寺・・・。早速見てみると確かに安養寺、ありました。

 『東山の庵に左阿彌が誕生したのは、元和元年のこと、織田信長の甥である織田頼長により、安養寺の末寺として建てられました。 頼長の父は、茶人の織田有楽斎。頼長も又、雲生寺道八と号し、この地で茶事を極めたと云います。  江戸時代、安養寺のある東山あたりは、遊興の地として大変なにぎわいでした。中でも左阿彌は、安養寺「円山の六坊」の一つと数えられ、文人墨客の集うところとなり風流の限りが尽くされたと伝えられています。 左阿彌が料亭を始めたのは嘉永二年。 明治維新以降、御前会議に使われたこともありました。 有栖川総督宮や山県有朋参与が止宿され、頼山陽先生や土田麦僊画伯によってこよなく愛されました。』 

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金戒光明寺・黒谷さんとは法然のこと

2012年03月01日 | 平安時代

 比叡山の黒谷に篭っていた法然上人が草庵を結んだことから「黒谷さん」と親しまれている金戒光明寺の近くには吉田山という聖なる領域があり、すぐ北側には真如堂というひっそりとした風情のお堂がある。 真如堂の境内は丘の上にあり、丘は神楽岡とも呼ばれ、よろずの神々が神楽を舞われたという聖地である。 山門を抜けて真如堂の境内に入ると寺の東には白川が流れ、比叡山、大文字如意ヶ岳、鹿ヶ谷、清水谷、伏見稲荷山とつづく東山三十六峰が連なっている。 本堂の南側からは皇室、将軍、武将などの墓碑が並んでいて、藤原家、冷泉家、油小路家などの墓も多くある。 また、衆生救済の菩薩を祀る千体地蔵堂や三重塔も聳えている。 本堂に祀られる本尊は阿弥陀如来である。 うなずき阿弥陀として名高い立像で、もともと比叡山の常行三昧堂の本尊であった。 慈覚大師円仁は天台宗をおこした伝教大師・最澄の弟子であった。834年に円仁は仁明天皇の命で遣唐使に同行し、五台山にのぼったときに生身の文殊菩薩に出会い、浄土念仏の教えを授かったという。 帰国後、自刻の阿弥陀立像に 比叡山をおりて都にいき一切の衆生を、ことに女人をお救いください というとうなずかれたという。うなずき弥陀の所以である。 984年、比叡山で修行をする戒算上人は、 洛中にでてあらゆる衆生を救いたいから山からおろしてほしい という夢を見たために、阿弥陀像を背負って山をおり、お告げに従って神楽岡あたりの真正極楽の聖地へ行ったという。  当時、神楽の地は円融天皇の女御であり、藤原道長の姉にあたる藤原詮子962-1001の離宮であった。後の東三条院である。 藤原道長の栄華は仲の良かった姉・詮子の存在があったからに他ならない。 この離宮に阿弥陀を安置することが許され、祀られたのである。 戒算上人は阿弥陀を安置するための真如堂創建にとりかかり、2年後に完成する。円仁から100年以上たった頃、円仁が開いた延暦寺の横川の堂宇にこもり、念仏による極楽往生の方法を書き記したのが恵心僧都源信である。 往生要集には浄土の原点が記され、法然、親鸞へとつながっていく。 法然の頃の延暦寺は権力の象徴であり、法然が若くしてこもった黒谷別所は延暦寺の傍流であり、ここで浄土教にであった。 比叡山をおりると真如堂にこもって阿弥陀仏に祈願し、真如堂のすぐ近くに庵をつくり、浄土宗を開いたのである。 この庵が金戒光明寺である。 この界隈が黒谷さんと呼ばれるのは、こういった由縁による。

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吉水の草庵は知恩院

2012年02月29日 | 平安時代

 親鸞が比叡山での修行に納得がいかずに下りて、通ったのは法然の草庵・吉水である。 その吉水の草庵の旧跡・安養寺は桓武天皇が平安京に遷都された時、伝教大師により創建さた。そして浄土宗総本山知恩院は元々法然上人のご廟のある勢至堂の所にあった。また、現在御影堂(本堂)のある一帯は昔は白毫寺というお寺があり、知恩院拡張のため移転せしめられたが、白毫寺の地域に隣合わせたこの安養寺の寺域に大懺法院、吉水東新坊、吉水中坊、吉水西坊といった建物のあり、それが吉水草庵である。 

法然の幼名は勢至丸

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比叡山を下りた親鸞

2012年02月28日 | 平安時代

 親鸞が比叡山での修行を決めた1181年は平清盛が亡くなった年である。その時親鸞は青蓮院で慈円のもとで修行することが許された。慈円1155-1225といえば関白法性寺殿・藤原忠通の子で、天台座主に38歳にしてついた高僧であり、九条兼実1149-1207の同母弟である。実は親鸞、この九条兼実の娘・玉日姫を妻に迎えている。恐らく比叡山を降りて京へ戻ったときのことであろう。妻が早死にしたためか、配流のときには恵信を妻とした。ところで、1181年に平清盛が亡くなり、もはや平家は滅亡の一途をたどろうとしていた。すなわち後白河法皇の権勢が元に戻った時代なのである。すると落ちぶれていた日野家も次第に日の目を見るようになり、慈円阿闍梨の推薦もあって比叡山への入山が許されたと考えられる。 比叡山延暦寺は伝教大師・最澄767-822が開き、第三代座主・円仁794-864が天台教団を大きく育てたという。 親鸞が慈円のもとで範宴の名の元得度し、叡山にのぼったのは12歳。横川の音覚法印のもとで指導をうけることとなった。比叡山での修行が20年を過ぎた1201年、親鸞は自力修行に限界を感じて下山するのである。専修念仏に触れたことから東山吉水の法然の草庵を訪ねる。親鸞は岡崎の地に草庵をひらくと法然の元にかよい百日聴聞をし、やがて入門した。法然より、「綽空」の名を与えられたのは29歳のときであった。 『御伝鈔』には、「吉水入室」の後に「六角告命」の順になっているが、『恵信尼消息』には、「法然上人にあひまゐらせて、また六角堂に百日篭らせたまひて候ひけるやうに、また百か日、降るにも照るにも、いかなるたいふ(大事)にも、まゐりてありしに、…」とある。一般に『御伝鈔』の記述は、覚如の誤記と考えられる。同様に「六角告命」「吉水入室」ともに、建仁3年と記されている写本があるが、これも建仁元年の誤記と考えられる。1205年には『選択本願念仏集』(『選択集』)の写本が許されたがこれはごく限られた門弟にのみ許されたものであった。

東山吉水の法然の草庵があったのは現在の知恩院

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日野忠範とは親鸞のことである

2012年02月21日 | 平安時代

 平安末期のことである。 下級官人・日野有範の子として都で生まれた忠範は、早くに両親と別れ伯父・日野範綱の家に引き取られて幼少期を過ごした。 また、伯父の日野宗業は、有範に学問の手ほどきをしたのであるが、後白河の第三皇子である以仁王の学問の師でもあった。 鴨川で河原坊浄寛や法螺房弁才ら無頼の者と交わり、平家の組織・六波羅の頭領や黒面法師とは死闘を演じた。9歳の頃、慈円阿闍梨のもと白河房に入室し、三年後には比叡山の横川に入山して範宴と名乗って修行に励んだ。しかし20年間悟りを得られずに挫折する。29歳のときに六角堂に参篭し、恵信という女人との縁のなかで山を下りることを決意し、法然上人の門下となり、綽空と名乗る。新たな生活に入った頃、恵信と再会すると僧侶の戒を破って妻に迎えた。(九条兼実の娘・玉姫とも結婚したという説がある) それから数年にして法然に認められ善信の名をもらう。しかし朝廷や貴族にも広まり始めた法然の教えはやがて念仏禁制の厳しい弾圧を受け、後鳥羽上皇の怒りに触れた師・法然は讃岐へ、善信は越後へ罪人として流刑にされる。1207年に起こったこの事件を承元の法難という。 彼は妻・恵信を伴って北国へ旅立つのである。(越後に流人として赴いたあと、越後の豪族・三善為教の娘・恵信と結婚したとも言われている) その人物は鎌倉時代の高僧・親鸞である。 越後へ流人として赴いたときの名は藤井善信、約5年の月日の間に妻・恵信との間に二人の子・良信、明信が生まれると、正式に順徳天皇より赦免状が届いた。親鸞39歳のときである。 比叡山での20年とは比べ物にならないほど過酷な越後での5年間であった。このとき師である法然上人は摂津の勝尾寺に身を寄せていたが、同じく赦免となり入洛が許された。この冬、親鸞は上洛せず越後に残っていたために法然とは逢うことはなかった。そして翌年の1212年に法然は入滅する。 

親鸞の御影像を安置している大谷影堂

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海賊・タルカス

2012年02月06日 | 平安時代

 大河清盛で戦闘の場面になると流れてくる曲、聞き覚えのあるこの曲はELPの代表作・タルカスである。 シンセザイザー担当のキース・エマーソン作曲、ベース担当のクレグ・レイクが作詞、残る一人はドラムスのカール・パーマーである。 ギタリストがいない3人組というEmerson Lake & Parmer は1970年代に登場して 創造上の怪物・タルカスを組曲で表現した。 因みにまさに海賊 つまりPiratesという曲やムソルグスキー作曲の展覧会の絵を編曲して発表したりもしている。 ところで大河ではELPのタルカスに比べると、かなり編曲して採用しているが、なかなかいい感じである。 タルカスは海にすむ荒くれものであるので、大河ではもちろん 海賊の象徴として表現したものである。 プログレッシブロックの先駆者としてYESとともに現れたELP。手元にDVDがあったので、ついつい懐かしく聞き入ってしまった。

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ゆり科・忘草

2012年01月28日 | 平安時代

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城南宮

2012年01月17日 | 平安時代

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曲水の宴とは庭園の遣水に盃を浮かべて流れに合わせて和歌を詠むという平安時代の優雅な歌遊び

2012年01月14日 | 平安時代

 曲水の宴とは庭園の遣水に盃を浮かべて流れに合わせて和歌を詠むという平安時代の優雅な歌遊びです。参宴の歌人のうち男性は衣冠・狩衣、女性は袿・十二単等をまとって水辺に座ります。開宴の言葉、歌題披露に続いて、催馬楽に合わせて若女の舞が奉納されます。やがて盃を乗せた羽觴が遣水に流されると、歌人たちが歌題にしたがって和歌を詠み短冊にしたためて、流れてくる盃を傾けます。結びに講師が歌をよみあげ、終宴となります。(特別史跡 毛越寺 説明より)

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源融ゆかりの大阪・太融寺

2012年01月03日 | 平安時代

 太融寺は821年にここ大阪・梅田の地に弘法大師が嵯峨天皇の勅願により創建されました。ご本尊の千手観世音菩薩は、嵯峨天皇の念持仏を下賜され、天皇の皇子河原左大臣源融公が七堂伽藍を建立された。1615年大阪城落城のとき全焼しましたが、元禄年間に太堂、南大門など復興すると、“北野の太融寺”として栄えました。

 嵯峨野にとりつかれたように住んだのは桓武天皇の皇子・賀美能親王である。 皇子の頃から嵯峨に山荘を造り上皇になってからも山荘を離宮とした。 それが嵯峨院で諡号の嵯峨天皇はこの離宮にちなんだものである。 后妃の数は30人を超え、皇子・皇女の数も50人を超えた。嵯峨天皇の第八皇子の源融は源の姓をもらって臣籍降下し、父と同じように嵯峨に住み、 源氏物語の主人公・光源氏のモデルとも云われている。 嵯峨源氏は清和源氏よりも古く、源信(母は広井弟名女)から始まっている。 他には上毛野氏の妃からは源弘、飯高氏の妃からは源常、源明がでている。 源常は左大臣まで登り詰め、信・弘・定とともに一大政治勢力をなし、藤原緒嗣とともに日本後紀を完成させた。 源融は六条院とよばれた広大な邸宅を構え、宇治には宇治院という別荘をもっていた。 最終的には藤原頼通により平等院とされた原型である。 源融は参議を経て左大臣になったが、嵯峨広大な山荘を営み棲霞観とよばれた。 そのほんの一部が現在の清涼寺である。 またその南には嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子の壇林寺があり、有智子内親王の山荘も棲霞観と壇林寺の間にあり、嵯峨野周辺は嵯峨天皇一族により占められていたのである。 源融が営んだ棲霞観には清和上皇が晩年に滞在したこともあり、源融は東六条第で亡くなった後、子の湛や昇によって棲霞寺として完成する。 本尊の阿弥陀如来像は観音菩薩と勢至菩薩を脇侍として阿弥陀堂に安置されている。 源融が62歳のときに陽成天皇の退位問題がおき、その品行の悪さに新しい天皇を求める声がおおきかった。このとき源融は皇位を望む強い意志をあらわしており嵯峨天皇が源融を重視した理由が伺える。

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熊野詣の出立地・城南宮

2011年12月24日 | 平安時代

 城南宮といえば春と秋に催される「曲水の宴」といって平安時代の貴族の遊びを再現した白拍子の舞と奉納和歌の朗詠がこの庭の遺水で行われることで有名である。 京都東山へ久しぶりに訪れた帰りにふと立ち寄ってみた。 東鳥居から参道へ入ると、すぐ右には「真幡寸神社」「芹川神社」があり、南鳥居の向こう正面には城南宮の拝殿・本殿が見え、左手が神苑の入口となる。お目当ての神苑へ入ると離宮を偲ばす庭園「平安の庭」があり、この庭の遺水で「曲水の宴」が催されるのである。苑路を順路にしたがって進むと「室町の庭」「楽水軒」「桃山の庭」「城南宮の庭」など多くの種類の樹木、草花が植えられていて季節を問わず楽しめる。 城南宮の歴史は古く、もともと当地にあった真幡寸神社がはじまりで、この地は遷都以前から秦伊呂巨の支配地で、秦氏の氏神として古い由来をもつ。 最も栄えたのは平安時代の末期頃の1086年、白河天皇は皇位を堀河天皇に譲って、当地を囲むように白河法皇が鳥羽離宮を造営され、完成後も南殿、北殿、東殿と造営されて、代々の天皇、上皇がしばしば行幸されたという。 平安京の南方に鎮座する城南宮は、方除けの神として宮廷貴族の社寺参拝や熊野詣では参ったとされ、白河、鳥羽、後白河、後鳥羽上皇の熊野御幸ではここ城南宮から出立している。 城南宮を西へ行けば鳥羽街道があり、鳥羽伏見の戦いの最初の衝突地でもある。

神苑は源氏物語に登場する100種類にも及ぶ花で彩られた庭園

花といへば名こそあだなれ女郎花なべての露に乱れやはする…中将の御許の返歌

宿木の巻に登場する芒

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城南宮

2011年12月24日 | 平安時代

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