平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

崇徳天皇と結びついた藤原頼長

2012年03月07日 | 平安時代

 近衛天皇が崩御したのが1955年、近衛天皇の第一皇子であり美福門院(得子)の養子となっていた守仁親王が即位するまでの中継ぎとして、雅仁親王は29歳で即位して後白河天皇が誕生した。その翌年には保元の乱が起こっている。当時の後白河天皇は暗愚の君とよばれていたために、鳥羽は崇徳と頼長の結びつきに危機感を抱き、死の直前に藤原得子・美福門院に遺言を残した。 それは「武士団を召集して、崇徳や頼長が謀反を起こしたことにして討つ」 というものである。 1156年の保元元年に鳥羽は崩御し戦いは始まった。 最初、鳥羽側の武士団には最有力の清盛はいなかった。 述べたように、崇徳は鳥羽の実子ではなく、白河と藤原璋子の子である。 また清盛も忠盛の子ではなく、白河が愛人・祇園女御を孕ませ、忠盛に押し付けた跡に生まれた子である。 しかし後を託された藤原得子は武力・財力に秀でた清盛を招集し、清盛も呼応した。 また左大臣頼長と仲の悪かった源義朝は鳥羽側についた。 一方、崇徳、頼長側は平忠正、源の総帥・為義、為朝を召集した。 保元の乱の結果は源義朝の奇襲により後白河側が勝利し、 頼長は重症を負って闘争中に死亡、崇徳は末弟の覚性法親王が門跡を務めていた仁和寺に助けを求めたが、密告されて捕まった。 藤原頼長が何故崇徳上皇と結びついたのかであるが、前回の記載のように、近衛天皇が17歳で崩御したとき、崇徳は自分が返り咲くか、子の重仁親王(美福門院・藤原得子の養子に迎えられかわいがられていた)が即位することを期待したのであるが、雅仁親王が後白河天皇として1955年に即位したのである。 このときの崇徳上皇の激怒に乗ってきたのが悪左府と呼ばれた左大臣藤原頼長である。 藤原頼長の墓は京都・相国寺内にあります。

 因みに、保元の乱の2年後後白河は上皇となり二条天皇が即位した。 院政により天皇を無力化することで権勢を思いのままにしようとしたが、二条天皇は優秀な御方で後白河の思いのままにはさせなかったが、1165年、23歳の若さで早々と崩御し六条天皇が即位したため実質的な院政は始められた。 この頃、清盛の妻・時子の妹・滋子は後白河の寵愛を受けて男子を産んでいた。 これが後の高倉天皇であり、時子が産んだ平徳子が入内することで案徳天皇が生まれる。 こうして平家は繁栄していくのであるが、1176年、高倉の母・滋子が33歳の若さでなくなると、大きくなりすぎた平家を警戒した後白河は打倒 平家の陰謀を画策する。 これが鹿が谷の密議である。 1177年、後白河の近臣である僧・俊寛、藤原成親が鹿が谷の別荘に篭って平家打倒を企てたが密告により征圧された。 首謀者は流罪となったが後白河は関与を認めなかった。 しかし清盛はその2年後に後白河の幽閉して多くの近臣を解官して院政を停止した。 本来であればここで権勢を振るうのは清盛の手の内にある高倉上皇であったが、高倉は病弱で、長男・次男も既に亡き人となっており参謀が誰もいない状態である。 結局清盛は後白河の幽閉を解き。政界に復帰させた。

コメント    この記事についてブログを書く
« 大河清盛・悪左府・左大臣藤... | トップ | 大河清盛・西行こと佐藤義清 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

平安時代」カテゴリの最新記事