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法然の高弟・安楽房遵西

2012年03月03日 | 平安時代

 法然は親鸞の師である。法然も比叡山の修行を積んだ後、真の仏を見出すことができずに山を降りて市井の聖となった。何故、貴なるものも卑しいものもすべての人たちが吉水の草庵に集まってくるのか、それが親鸞、いや範宴の疑問であった。何も難しい説法などはなく、只ひたすらに念仏を唱えるだけであるのだが、その意味や本願などはどうでもよく、法然の声や姿が自然に発するなんともいえない気配が大きくて暖かい。そして法然の言葉に嘘いつわりはかけらもなく、信頼感と安心感が漂っている。法然は万巻の経典のなかから一行の言葉に触れて阿弥陀仏という仏に出会い、すべてをなげうって帰依したという。これを選択という。救われたいという願いと救いたいという願いが触れ合って、そこから闇を照らす光が生まれる。法然を見ていると、そういう微塵も揺るがない姿と光を感じることができるのである。このような人格を古い天竺では仏陀といい、何人もいたらしいが、中でも真の仏陀として信頼を得ていたのが釈尊である、というのを思いながら範宴は法然に手を合わせた。時は鎌倉幕府第二代将軍・源頼家の時代で流行り病で大勢の人が死に、盛大な法会が催されるものの効果は無く、末法の世といわれていた。 それだけに吉水の草庵には多くの人々が集まっているのである。 法然の左右には弟子たちがひかえていたが、その中でもひときわ凛々しい美声で念仏の前に人々を酔わせるのは安楽房遵西という法然の高弟である。安楽房遵西は後白河法皇の側近である高階泰経1130-1201という公卿(木曽義仲により後白河院が幽閉されたときに解官、源義経謀反のときに解官 源頼朝が後白河法皇のことを日本一の大天狗と言ったといわれているが、実はこの書状は高階泰経に宛てたものである。) に仕えていたが、出家後法然に師事し専修念仏の普及に尽力した僧である。後に後鳥羽上皇の女房たちが安楽房遵西たちに感化されて出家したために、後鳥羽上皇の怒りに触れて斬首刑となっている。 (承元の法難) これは1207年のことであるから親鸞が吉水に通った頃の5年後のことである。安楽房遵西が後鳥羽上皇の女房を出家に追いやったというのは定説のようであるが、実はもっと深いところに斬首刑の理由があるように思えてならない。 そのあたりを次に紹介する。

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