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比叡山を下りた親鸞

2012年02月28日 | 平安時代

 親鸞が比叡山での修行を決めた1181年は平清盛が亡くなった年である。その時親鸞は青蓮院で慈円のもとで修行することが許された。慈円1155-1225といえば関白法性寺殿・藤原忠通の子で、天台座主に38歳にしてついた高僧であり、九条兼実1149-1207の同母弟である。実は親鸞、この九条兼実の娘・玉日姫を妻に迎えている。恐らく比叡山を降りて京へ戻ったときのことであろう。妻が早死にしたためか、配流のときには恵信を妻とした。ところで、1181年に平清盛が亡くなり、もはや平家は滅亡の一途をたどろうとしていた。すなわち後白河法皇の権勢が元に戻った時代なのである。すると落ちぶれていた日野家も次第に日の目を見るようになり、慈円阿闍梨の推薦もあって比叡山への入山が許されたと考えられる。 比叡山延暦寺は伝教大師・最澄767-822が開き、第三代座主・円仁794-864が天台教団を大きく育てたという。 親鸞が慈円のもとで範宴の名の元得度し、叡山にのぼったのは12歳。横川の音覚法印のもとで指導をうけることとなった。比叡山での修行が20年を過ぎた1201年、親鸞は自力修行に限界を感じて下山するのである。専修念仏に触れたことから東山吉水の法然の草庵を訪ねる。親鸞は岡崎の地に草庵をひらくと法然の元にかよい百日聴聞をし、やがて入門した。法然より、「綽空」の名を与えられたのは29歳のときであった。 『御伝鈔』には、「吉水入室」の後に「六角告命」の順になっているが、『恵信尼消息』には、「法然上人にあひまゐらせて、また六角堂に百日篭らせたまひて候ひけるやうに、また百か日、降るにも照るにも、いかなるたいふ(大事)にも、まゐりてありしに、…」とある。一般に『御伝鈔』の記述は、覚如の誤記と考えられる。同様に「六角告命」「吉水入室」ともに、建仁3年と記されている写本があるが、これも建仁元年の誤記と考えられる。1205年には『選択本願念仏集』(『選択集』)の写本が許されたがこれはごく限られた門弟にのみ許されたものであった。

東山吉水の法然の草庵があったのは現在の知恩院

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