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日野忠範とは親鸞のことである

2012年02月21日 | 平安時代

 平安末期のことである。 下級官人・日野有範の子として都で生まれた忠範は、早くに両親と別れ伯父・日野範綱の家に引き取られて幼少期を過ごした。 また、伯父の日野宗業は、有範に学問の手ほどきをしたのであるが、後白河の第三皇子である以仁王の学問の師でもあった。 鴨川で河原坊浄寛や法螺房弁才ら無頼の者と交わり、平家の組織・六波羅の頭領や黒面法師とは死闘を演じた。9歳の頃、慈円阿闍梨のもと白河房に入室し、三年後には比叡山の横川に入山して範宴と名乗って修行に励んだ。しかし20年間悟りを得られずに挫折する。29歳のときに六角堂に参篭し、恵信という女人との縁のなかで山を下りることを決意し、法然上人の門下となり、綽空と名乗る。新たな生活に入った頃、恵信と再会すると僧侶の戒を破って妻に迎えた。(九条兼実の娘・玉姫とも結婚したという説がある) それから数年にして法然に認められ善信の名をもらう。しかし朝廷や貴族にも広まり始めた法然の教えはやがて念仏禁制の厳しい弾圧を受け、後鳥羽上皇の怒りに触れた師・法然は讃岐へ、善信は越後へ罪人として流刑にされる。1207年に起こったこの事件を承元の法難という。 彼は妻・恵信を伴って北国へ旅立つのである。(越後に流人として赴いたあと、越後の豪族・三善為教の娘・恵信と結婚したとも言われている) その人物は鎌倉時代の高僧・親鸞である。 越後へ流人として赴いたときの名は藤井善信、約5年の月日の間に妻・恵信との間に二人の子・良信、明信が生まれると、正式に順徳天皇より赦免状が届いた。親鸞39歳のときである。 比叡山での20年とは比べ物にならないほど過酷な越後での5年間であった。このとき師である法然上人は摂津の勝尾寺に身を寄せていたが、同じく赦免となり入洛が許された。この冬、親鸞は上洛せず越後に残っていたために法然とは逢うことはなかった。そして翌年の1212年に法然は入滅する。 

親鸞の御影像を安置している大谷影堂

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