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金戒光明寺・黒谷さんとは法然のこと

2012年03月01日 | 平安時代

 比叡山の黒谷に篭っていた法然上人が草庵を結んだことから「黒谷さん」と親しまれている金戒光明寺の近くには吉田山という聖なる領域があり、すぐ北側には真如堂というひっそりとした風情のお堂がある。 真如堂の境内は丘の上にあり、丘は神楽岡とも呼ばれ、よろずの神々が神楽を舞われたという聖地である。 山門を抜けて真如堂の境内に入ると寺の東には白川が流れ、比叡山、大文字如意ヶ岳、鹿ヶ谷、清水谷、伏見稲荷山とつづく東山三十六峰が連なっている。 本堂の南側からは皇室、将軍、武将などの墓碑が並んでいて、藤原家、冷泉家、油小路家などの墓も多くある。 また、衆生救済の菩薩を祀る千体地蔵堂や三重塔も聳えている。 本堂に祀られる本尊は阿弥陀如来である。 うなずき阿弥陀として名高い立像で、もともと比叡山の常行三昧堂の本尊であった。 慈覚大師円仁は天台宗をおこした伝教大師・最澄の弟子であった。834年に円仁は仁明天皇の命で遣唐使に同行し、五台山にのぼったときに生身の文殊菩薩に出会い、浄土念仏の教えを授かったという。 帰国後、自刻の阿弥陀立像に 比叡山をおりて都にいき一切の衆生を、ことに女人をお救いください というとうなずかれたという。うなずき弥陀の所以である。 984年、比叡山で修行をする戒算上人は、 洛中にでてあらゆる衆生を救いたいから山からおろしてほしい という夢を見たために、阿弥陀像を背負って山をおり、お告げに従って神楽岡あたりの真正極楽の聖地へ行ったという。  当時、神楽の地は円融天皇の女御であり、藤原道長の姉にあたる藤原詮子962-1001の離宮であった。後の東三条院である。 藤原道長の栄華は仲の良かった姉・詮子の存在があったからに他ならない。 この離宮に阿弥陀を安置することが許され、祀られたのである。 戒算上人は阿弥陀を安置するための真如堂創建にとりかかり、2年後に完成する。円仁から100年以上たった頃、円仁が開いた延暦寺の横川の堂宇にこもり、念仏による極楽往生の方法を書き記したのが恵心僧都源信である。 往生要集には浄土の原点が記され、法然、親鸞へとつながっていく。 法然の頃の延暦寺は権力の象徴であり、法然が若くしてこもった黒谷別所は延暦寺の傍流であり、ここで浄土教にであった。 比叡山をおりると真如堂にこもって阿弥陀仏に祈願し、真如堂のすぐ近くに庵をつくり、浄土宗を開いたのである。 この庵が金戒光明寺である。 この界隈が黒谷さんと呼ばれるのは、こういった由縁による。

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