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法然の高弟・法本房行空 住蓮 幸西

2012年03月05日 | 平安時代

 法然の高弟・安楽房遵西以外に知られている僧・法本房行空がいる。興福寺の僧から専修念仏停止の訴えがあった際に安楽房遵西とともに非難の的となって、法然より波紋された僧である。比叡山の堂衆であった法本房行空は安楽房遵西とともに南都北嶺の旧仏門体制と戦おうとしていた。ちょうどその頃、綽空(吉水の草庵に通っていたことの親鸞の名)は法然上人より選択本願念仏集の書写と、法然の肖像画の制作を許される。 綽空が法然の門下生となって4年目の頃である。 安楽房遵西や法本房行空とともに専修念仏を広めることに尽力した僧に住蓮房、幸西房がいる。幸西は一念の信で往生が成就するという一念義を主張した法然の高弟である。 興福寺の宗徒からは朝廷に対して念仏停止の告発状がでていたのであるが、当時権勢を振るっていた九条兼実(天台座主・慈円の兄にあたる)は法然に帰依しており、興福寺の弾圧に対して後ろ盾になっていたと思われる。 住蓮は安楽房遵西とともに美声の持ち主といわれ、念仏布教の際には大変な人気を博したためであろうか、後鳥羽上皇の女房たちに安楽房遵西とともに密通を働いた、との嫌疑をかけられて、1207年3月9日に弟子の僧と共に斬首の刑に処せられている。 仔細はこうである。後鳥羽上皇が熊野詣のために京を留守にしている間に、後鳥羽の寵愛していた女官ふたりが突然無断で出家しようとした。安楽房遵西と住蓮房主催の東山の念仏法会に参加した二人の女官は感激のあまりに出家を決意したという。熊野詣から帰ってきた後鳥羽院の激怒ぶりはただごとではなかったという。かくして安楽房遵西は1207年に六条河原で斬首刑となったが、1207年というと九条兼実が死去した年である。いままで何とか法然に帰依した兼実がいたからこそ、興福寺からの告発状に対して均衡を保ちつつ、法然の門弟、安楽房遵西・法本房行空・住蓮・幸西を護ることができていたが、兼実の死去により均衡は崩れ、後鳥羽院の女房との密通といううわさが、後鳥羽院の怒りをかって、安楽房遵西・住蓮は斬首、幸西は阿波へ流罪となった。 安楽房遵西については羅切というから、陰茎切断の上の斬首である。 後鳥羽院の怒りはこれでも収まらず、法然を讃岐へ、親鸞を越後へ流罪としている。これらの処置でもわかるように後鳥羽院はかなりの激情タイプであり、後に鎌倉幕府との戦い(承久の乱)で完敗すると隠岐に流され、隠岐の配所で崩御している。 このとき正式に念仏停止の院宣が下され、法会や説法はもちろん念仏を唱えることも禁じられたのである。

 ところで、浄土宗の念仏は九条兼実らに帰依されたから、興福寺からの弾圧があっても法然・親鸞までは死罪にはならなかった。これには天台座主の慈円(九条兼実の同母弟)の働きかけもあった。慈円1156-1225、兼実1149-1207は太政大臣・藤原忠通1097-1164と加賀姫(藤原仲光の娘)との間にできた子である。 実はこの兄弟には信円1153-1224という異母兄弟がいた。このお方、太政大臣松殿・基房を同母兄にもつ人物で、興福寺の僧なのである。平家によって焼き討ちにあった興福寺の復興に尽力したのである。したがって、法然を護ろうとした天台・慈円と、追放しようとした南都・信円が異母ではあるが兄弟というところが興味深い。慈円、信円および、兼実、基房に宗教的に何か対立関係があるのだろうかと調べて見たが、特にそのような記述はなく、ふたりはともに九条家の宗教的護持にあたったようである。

知恩院にある法然上人御廟

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