平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

京都・大原路 1118年、堀河天皇第二皇子・最雲法親王が入寺したのが最初

2011年11月26日 | 平安時代

 三千院の起こりは最澄の時代に遡る。 「三千院門跡」という寺名は約130年前に使われるようになったもので、以前は「梶井門跡」と呼ばれ、境内にある往生極楽院は平安時代末期にあった阿弥陀堂を云い、国宝の阿弥陀三尊像を安置している。1118年、堀河天皇第二皇子・最雲法親王が入寺したのが最初で、後醍醐天皇皇子・護良親王も入寺したことがある。 伝教大師最澄、比叡山に根本中堂を建立の時、東塔南谷の山梨の大木の下に一宇を構え、(梨本の名称の起こり、円融房の始め) 慈覚大師円仁、声明業の精舎を大原の魚山に建てた。 承雲、東坂本の梶井に円融房および里坊を営み、(梶井の名称の起こり) 惟喬親王は出家遁世して大原に隠棲する。 源信・妹の安養尼に阿弥陀三尊へ給仕させるため、大原に極楽院を建立したとの説があり、 寂信(左大臣源雅信の子・時信)は大原に入り勝林院を建立した。 勝林院は大原三千院をさらに北へほどなく行ったところにあります。 以前は「梶井御所」「梶井宮」と呼ばれた地域で、835年に円仁によって開かれたと伝えられています。 1186年に顕真と法然との間で行われた大原問答はよくしられており、現在は宝泉院・実光院の2院が残っています。 また境内には後陽成天皇皇子・承快親王、後水尾天皇皇子・盛胤親王、霊元天皇皇曾孫・承真親王などの墓がある。 

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8000を超える石仏・石塔がある化野念仏寺

2011年11月22日 | 平安時代

 いよいよ紅葉の最盛期です。 京都の東山山麓に優るとも劣らない嵯峨野の地にある化野念仏寺の紅葉は、歴史的背景を心に刻みながら散策すると、より一層引き立つ魅力があります。  化野念仏寺とも書くあだしの念仏寺は嵯峨野の北にあります。 二尊院から、祇王寺・滝口寺を通り過ぎてしばらく歩くとあだしの念仏寺への参道があります。 「あだし」 とは、はかない・むなしいという意味があり、また化の字には「この世に再び生まれ化すことや極楽浄土に往生する願い」 などを意図しています。 この地は古来より葬送の地で、初めは風葬であったが後世には土葬となり、人々が石仏を奉り、永遠の別離を悲しんだ所である。 境内には8000体を超える石仏・石塔があり、あだしの一帯に葬られたお墓である。 何百年という歳月を経て無縁仏と化し、この山野に散乱していた石仏を明治中期に地元の人々が、釈尊法塔説法を聞く人々になぞらえて配置しているそうです。 地蔵盆の夕刻にはこの無縁仏の霊にロウソクを供える千灯供養は有名である。 古今和歌集随一の女流歌人・式子内親王は、「暮るる間も 待つべき世かはあだし野の 松葉の露に 嵐たつなり」 と詠んでいます。

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藤原定家が愛した常寂光寺の地

2011年11月20日 | 平安時代

 京都の中でも有数の静寂に包まれ、数多くの人々から親しまれ、歴史にその名を残す寺はここ常寂光寺ではないでしょうか。 常寂光土、それは仏教でいう理想郷を意味します。  ここ常寂光寺は百人一首で詠まれる小倉山の中腹にあり、境内からは嵯峨野を一望でき、秋になると山々が紅葉に包まれます。 その様がまるで常寂光土のような風情をかもしだすことからこの寺号がつけられたと云います。 平安時代に藤原定家の山荘「時雨亭」 (二尊院からも散策することができます) があったと伝わる地で、1596年に日蓮宗・日禎が隠棲の地として当山を開きます。 歌人でもある日禎に小倉山の麓の土地を寄進したのが角倉了以です。 また、本殿は伏見城の客殿を移築し、多宝塔は京都町衆の寄進によって建てられているそうです。 

常寂光寺の仁王門の周りには苔が敷き詰められ、紅葉で彩られます

 

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比叡山中興の祖・比叡山・横川に隠棲@949 良源の弟子・源信

2011年09月30日 | 平安時代

 僧侶にとっての論議は、自己の研鑽を積んだ学僧が学識を世に問い存在を認知される場である。 良源の弟子・源信が東大寺の僧と論議を行ったとき、賞賛を博して貴族たちにその存在を認められるといった具合である。 一条天皇の頃に始まり毎年の行事になったものに最勝講がある。 これは5月の吉日を選んで清涼殿において講門論議を朝夕各一座行う法会である。 講師、聴衆は興福寺・東大寺・延暦寺・園城寺の僧侶が選ばれて南都僧と天台僧が問答するように組み合わされ、学僧が他寺の僧と論議する場となった。 比叡山中興の祖といわれる慈恵大師良源は近江の生まれで早くから比叡山に登って出家したが、935年南都と北嶺の論議のときに興福寺の義昭と対論して名声をあげた。 この縁で藤原忠平の知遇をえて、師輔に認められて、師輔の娘・安子の皇子誕生の祈祷を良源が行い、摂関家の帰依をえている。 949年に良源は横川に隠棲したが、師輔は横川に法華三昧堂を建立している。 この三昧により一家が栄えるようにと火打石を打つと一度で発火したという。 これをきっかけにして貴族の援助で山上に次々と建物が建ち、師輔は自分の息子・尋禅を僧として良源の弟子として荘園を寄進している。 こうして966年には良源は第18代天台座主となった。 これが良源が比叡山中興の祖といわれる所以である。 

比叡山・延暦寺

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宮中仏教儀式・御斎会(五穀豊穣を祈る鎮護国家の法会)と仁王会(仁王般若経を講じる法会)

2011年09月19日 | 平安時代

 御斎会は毎年正月明けの一週間、大極殿において盧舎那仏と脇侍菩薩等を安置して金光明最勝王経を講説するもので年頭に当たり五穀豊穣を祈る鎮護国家の法会である。 御斎会講師は前年の興福寺維摩会の講師をあてることが決められている。 講師の決定は藤原氏長者が天皇の意向を伺い宣旨を下すのであるが、10世紀後半以降は興福寺僧の独占がすすみ、講師になるのは南都の興福寺と東大寺の僧に限られるようになった。 また、仁王会は仁王般若経を講じる法会である。 天皇即位の年に行うのを一代一度仁王会といって即位儀礼のひとつで大極殿に釈迦と菩薩羅漢の仏画をかけ百の高座を設置し、百人の講師を招いて朝座夕座を行う。 これは平安中期頃から行われるようになったのであるが、国が乱れたときに百の仏や菩薩を勧請し、百法師を招いて百高座をもうけて仁王経を講義すれば鬼神が国を守ってくれるという仁王経護国品の教説による。 季御読経は大般若経転読を中心とする宮中法会で国家に及ぶ種々の災難を祓う鎮護国家の祈りである。 法要は紫宸殿において大般若経を転読し清涼殿において仁王経を読誦する。 こうした宮中法会の招請を公請というが、理由のない僧の辞退に対しては朝廷は厳しかった。

奈良・興福寺

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賀茂祭(葵祭)と御禊(斎王が紫野の斎院を出て内裏をへて鴨川の河原で潔斎する)

2011年09月18日 | 平安時代

 毎年5月15日に行われる葵祭は京都三大祭のひとつで、平安時代以降に行われた賀茂祭である。 賀茂祭は天皇が上下賀茂社に幣を奉ることを目的とし、斎王が紫野の斎院を出て内裏をへて鴨川の河原で潔斎する御禊が行われ、ついで300名前後の大行列が京中を巡行する。 下社に参向し、社頭で宣命をよみ奉幣し、ついで東遊び・走り馬が行われ、ついで上社に参向し同様の儀を行う。  これは神事であるだけではなく、平安京に暮らす人々にとっては年に一度の祭礼であった。 源氏物語・葵には葵上と六条御息所とが車争いをしたのは、新斎院の御禊の行列を見物するために物見車を一条大路にたてようとした場面である。 道長の桟敷もあり、栄花物語の「はつなな」には1005年に斎院御禊と賀茂祭使になった頼通の一行を多くの公卿らと見物する場面で、一条大路の桟敷が記されている。

 「殿は、一条の御桟敷の屋長々と造らせたまひて、檜皮葺、高欄などいみじうをかしうせさせたまひて、この年ごろ御禊よりはじめ、祭を殿も上 倫子のこと も渡らせたまひて御覧ずるに、今年は使の君の御事を、世の中揺すりていそがせたまふ」  

栄花物語 巻八 はつなな

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栄花物語に見る大嘗祭御禊(天皇が鴨川の川上に行幸して祭りに先立ち禊をする儀式)

2011年09月17日 | 平安時代

 平安時代の重要な神事といえば 大嘗祭御禊である。 栄花物語では大嘗祭はもっぱら御禊の記述が中心となっている。 御禊というのは天皇が鴨川の川上に行幸して祭りに先立ち禊をする儀式で、栄華物語が特に関心を示しているのは誰が女御代になるかであり、女御代、女房の車の見事さを記している。 女御代は幼少の天皇に女御の代わりとして供奉する女性で、付き添うだけで禊には関与しない。北山抄では母皇后が天皇の輿に同乗するか、女御代を立てるかいずれか一方であればよいと記されている。 11世紀から、女御代には大臣の娘をあてる習慣ができ、栄花物語巻十・日蔭の鬘では 「女御代には大殿の尚侍の殿 つまり威子 出でさせたまふ。 女御代の御車20両ぞあるを、まづ大宮 つまり彰子 より三つ、中宮より三つ、車よりはじめて、いといみじうののしらせたまふ」 というように、藤原道長の娘たちが車を奉り屋形をつくって檜皮をふき、女房の衣装はどれも15枚を重ねているなどと描写している。 御堂関白記でもこのときの御禊の装束や車の様子を異例といっていいくらい詳細に記している。 1016年の後一条天皇のときは道長の娘寛子が女御代となっており、栄花物語巻十二・たまのむらぎく では 「これはなにはのことも改めさせたまへり」 とさらに華やかな様子を詳しく記している。

赤染衛門が平安王朝の宮廷の様子などを描いた 栄花物語 うたがひ と たまのうてな

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神社行幸

2011年09月16日 | 平安時代

 天皇自らが特定の神社の赴き、祈念するのが神社行幸であり、一代一度の行事として盛んになるのが一条天皇から後一条天皇の頃である。 1017年には後一条賀茂行幸で藤原実資が上卿として活躍している。 行幸して祈願をしたはじまりは将門・純友の乱平定を祈念して朱雀天皇が賀茂社に行幸したことといわれている。その後円融天皇が石清水神社に行幸し、翌年の賀茂行幸とあわせて両社行幸とよばれている。 一条天皇のときには藤原兼家が強行して先例を開いた春日行幸をはじめ大原野、松尾、北野の各社にも行幸の先例を作るなど、神社行幸制は整えられ、院政期には十社行幸の制が整った。 大鏡には後一条天皇春日行幸の様子が記されている。 「見物に集まった民衆が転輪聖王のように輝く天皇の輿を、仏を拝むようにしている。 京の民衆にとって天皇を見物できる場面となった」 

 ところで、伊勢神宮に対しては天皇は行幸できないが、そのかわりに公卿勅使の制ができた。 その例は奈良時代には多いが9世紀は少ない。後の公卿勅使の先例を開いたのは天慶乱平定祈願の940年の勅使派遣で、その次は一条天皇のときに2例あり、その後は江戸時代まで多くが続く。 一条天皇の初例は997年4月の参議源俊賢の派遣で、このときは伊勢を含めて4社に派遣された。 次は1005年12月で、内裏焼失で神鏡が焼損したことにより伊勢神宮に勅使を遣わすことになった。 当初予定されていたのは参議源経房であったが、急に蝕穢となって参議行成が派遣された。 

東三条院が石山寺に御幸し、道長がお供する様子

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彰子立后時の大原野行啓@1005

2011年09月15日 | 平安時代

 一条天皇の頃の王権と神祇祭祀との密接な関係の構図を踏まえれば、藤原行成の我が朝は神国なり という表現は時代の象徴であった。 行成が彰子立后について第一に問題にしたのは大原野社祭祀で、1005年彰子みずから行啓を行う。 この大原野行啓は盛大な儀式で仁明皇太后・藤原順子の例を持ち出し、実質上は新儀であった。 車を輿にあらため 社頭の作法あたかも行幸儀のごとし と小右記に記されているように行幸を模して行われた。 皇后も立后したら みずから大原野に行啓して守護を仰ぐことが必要とされた。 この行幸については 「舞人には、たれたれそれそれの君達などかぞえて 一の舞には関白殿の君とこそはせさせたまひしか 」 と大鏡に いみじうはべりし 様子が詳しく描かれている。

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平安時代の祭祀:天皇が伊勢神宮や特定の畿内の有力神社に対する奉幣が国家祭祀の中心

2011年09月14日 | 平安時代

 律令国家における奈良時代の祭祀は日本全国の神祇官が登録するすべての官社を対象に行われていたが、10世紀以降は重要性を減らし、かわって天皇が伊勢神宮や特定の畿内の有力神社に対する奉幣が国家祭祀の中心になっていく。 対象となる神社は伊勢・石清水・賀茂を筆頭とした22社が固定し、道長の時代には21社奉幣が普通であった。 これらには石上、大神、大和など大和国の伝統的神社、 春日、大原野、吉田など藤原氏神、平野は桓武天皇の外祖父母氏族の氏神、橘氏の氏神である梅宮、皇室の祖先神である伊勢、石清水などなど貴族社会を構成する氏族の氏神と平安京の守護神の加護によって支えられている。 また祭祀とは別に摂関賀茂詣や摂関春日詣と呼ばれる参詣が恒例化し、私的に奉幣する。 藤原行成などは何度か臨時奉幣の賀茂史を勤めたことが権記に記されている。

伊勢神宮 皇大神宮

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藤原冬嗣の兄、真夏の子孫で、藤原兼家の家司受領・藤原有国943-1011

2011年09月13日 | 平安時代

 藤原兼家の家司・平惟仲と並んでその名を後の世に残した受領に藤原有国943-1011がいる。 有国は摂関家の祖となる藤原冬嗣の兄、真夏の子孫で、実務官人を多く輩出した中級貴族です。 村上天皇御代の文章生二十人の中に名を連ねた二人はやがて官界にデビューし、藤原兼家の家司になる。 その頃の藤原兼家は、兄・関白兼通の台頭により不遇の時代をおくるが、兼家の娘で、円融天皇の女御・詮子が産んだ懐仁親王が、円融天皇から花山天皇へ譲位されたことによって皇太子となる。 やがて一条天皇が誕生すると藤原兼家は孫の即位によって摂政となり、側近である在国(このころの名)にも運が向く。 990年、兼家は摂政を道隆に譲ると間もなく世を去り、摂政を譲られた道隆は、自分を跡継ぎに推薦しなかった在国に対して、復讐をすることになる。 その頃の在国の官職は、蔵人頭兼右大弁兼勘解由長官で、道隆は在国の位階を従三位に昇進させるが、従三位に叙された時点で蔵人頭を辞した在国の後任の蔵人頭に道隆の子息・伊周が任ぜられ、在国の残った官職・右大弁の後任には平惟仲が就く。 さて、在国が復帰をするのは、道隆の死後、道長が内覧になった後で、大宰大弐として大宰府に赴任する。 一方の惟仲も、順調に出世して中納言になり、在国が大宰大弐の任期を終えた帰京後に、惟仲は大宰帥として大宰府に赴任する。 しかし惟仲は、大宰帥の任期途中に宇佐八幡宮と問題を起こして、大宰帥を解官されると翌年に京に帰ることなく大宰府で薨ずる。 因みに、在国の妻は橘三位と言って、一条天皇の乳母であり、 惟仲の妻・藤三位が一条天皇の乳母であったのと同じである。 

藤原有国ゆかりの東三条院址 (藤原兼家邸)

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神国思想の成立

2011年09月12日 | 平安時代

 999年一条天皇の中宮定子の中宮職を皇后宮職とし、彰子を立后して中宮職をおいて一帝二后とした。 このときの蔵人頭藤原行成の活躍が権記に見ることができる。 「日本は神国である。中宮は神事に奉仕するために封戸が設けられ、中宮職には予算が配分されている。 ところが現在三后とも出家していて神事に奉仕しない。 とりわけ大原野祭に皇后宮が奉仕しないのはよくない。 だから彰子を中宮として氏の祭をとらせるのがよい。」 と述べている。 これはもちろん藤原道長の意を受けた奏上であるだけに、行成に感謝した。 たしかに中宮は春日祭や大原野祭に幣帛を奉ることになっており、大原野社は桓武皇后・藤原乙牟漏が春日社を勧請したことに始まっており、851年に勅祭を行い、以降中宮は一定の役割を果たしてきた。 日本書紀 神功記に朝鮮半島側から日本は神国だという表現があり、これは天照大神以来の系譜を引くくらいの漠然としたものであるが、わが国は神国なり という思想は摂関期の日記に多く現われており、この頃に成立したと見られる。

 1031年、伊勢大神の荒魂が伊勢斎宮にのりうつり託宣したという斎王託宣事件がおきた。 託宣では斎宮寮頭藤原相通夫妻の不善を糾弾し、また神事が礼に違い、これは近年の帝王に敬神の心がないからであり、帝王の運は半ばをすぎたとはっきりと天皇を批判した。 大神の託宣は前代未聞のことであり、関白頼通と実資は対応に苦慮した。寮頭夫妻の流罪の決定は内密に形式的に定めた。 そのときの天皇自身の宣命は 本朝は神国なり、中にも皇太神の殊に助け政ごち給う所なり と小右記にあり、伊勢神宮を中心とする神々が加護する神国であると述べ、勅使がこれを神前で読み上げた。 行成の発言もこうした神国観の中にあるが、中宮が神事を進めないのを問題にするだけではなく、藤原氏の氏祭の大原野祭への奉仕も神国思想の中で考えられている。

藤原行成による権記 国宝

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藤原兼家の家司受領・平惟仲944-1005

2011年09月11日 | 平安時代

 摂関家は有能な受領を家司に組織して彼らの財力をもって奉仕させた。  受領の側でも多くの受領を歴任するには権力者の意を迎えることは不可欠であった。 なかでもその代表格といえば藤原兼家の側近として重用された平惟仲を挙げることができる。 平惟仲944-1005は、桓武平氏平高棟流であるが、今で言う「現地妻」の子として生まれ後に弟と共に都に上って大学寮に入り20歳で文章生となる。刑部少丞、右衛門少尉兼検非違使として官僚への道を歩み始めたが、その順調な出世の背景には祖母の藤原元姫が、女官として宮中に出仕して冷泉・円融両天皇の養育係を務めていた経歴によって、摂政・藤原伊尹との関係を持ったことが大きい。 美作・筑後・相模・肥後の受領を歴任し、その勤勉振りを伊尹の弟である摂政・藤原兼家に気に入られたことから兼家の家司となり、同僚の藤原有国と共に兼家の耳目として活躍した。 その後、989年には左中弁から右大弁へと弁官の高位に昇進し、その翌年の兼家薨去の際には長男の道隆を後継に推挙して彼からも厚遇され、992年には参議にまで昇進すると言う、地方出身者としては異例とも言うべき栄達を成し遂げた。また、この時期に、一条天皇の乳母で、兼家の異母妹にして、彼の次男道兼の前妻の藤原繁子と結婚した。道隆薨去の後には、末弟の道長に接近し、996年に道長の閣員として権中納言に昇格、その翌々年には、生涯の極官である中納言にまで到達した。翌年一条天皇の中宮定子の中宮職の長官である中宮大夫を兼務するも、落ち目の中関白家と関わる事を嫌って、わずか半年で辞任する。この後、定子の世話を任された弟の中宮大進平生昌が、清少納言に色々と物笑いの種にされているのが『枕草子』に記されているが、これには中関白家を見限った惟仲に対する清少納言の怒りも込められている。 もっとも、藤原行成の『権記』には、定子の死後にその葬儀を仕切ったのは専ら惟仲であったと記されており、その意図は不明であるとしか言いようが無い。 1001年かつての同僚で大宰大弐を勤めていた藤原有国の後を受けて、中納言兼務の大宰権帥として大宰府に赴任した。 1003年には従二位を叙されるが、宇佐神宮内の反惟仲派との衝突で大宰権帥を解任され、その後病に伏し、1005年大宰府で薨去した。 なお、荼毘に付された惟仲の遺骨を弟の生昌が大宰府から都に持ち帰った事が、『御堂関白記』や『小右記』に記されている。

   藤原成子-1177   
    ┣ 式子内親王1149-1201斎院                 
    ┣ 守覚法親王1150-1202                 
    ┃        藤原友実娘                     
    ┣ 以仁王1151-1180(┣源頼政1104-1180と挙兵)              
    ┣ 円恵法親王  源仲政?-?
    ┃(1152-1184三井寺長官)      
    ┃1078-1162 ┏(養女)━━━━ 藤原呈子シメコ九条院1131-(伊通コレミチ娘)              
    ┃  忠実┳藤原忠通1097-1164  ┃雑子女:常盤御前1138-?         
    ┃    ┃  ┣基実1143-1166 ┃     ┣今若1153-1203
    ┃    ┃  ┣基房1145-1231 ┃     ┣乙若1155-1181
    ┃    ┃  ┗兼実1149-1207 ┃     ┣牛若1159-1189
    ┃    ┗藤原頼長1120-1156  ┃    源義朝1123-1160     
    ┃1115-1161 ┃(保元の乱で死亡) ┃     
    ┃サネヨシ実能┳幸子        ┃    
    ┃  教長┃徳大寺     76近衛天皇1139-1155      
    ┃    ┗公能右大臣     ┃                  
    ┃        ┣藤原実定  ┃     
    ┃        ┣藤原多子1140-1201(幸子が養母 頼長の養子)       
    ┃        ┣ 娘    ┃  
    ┃     藤原豪子 ┗一条能保┃   藤原忠隆1102-1150          
    ┃┏藤原経宗1119-1189      ┃藤原顕頼┣藤原信頼1133-1160後白河寵臣                  
    ┃┗源懿子1116- ┏━━━━━━━┛ ┣ 公子                    
    ┃ ┃  1143 ┃ 伊岐致遠女   ┣勧修寺光頼           
待賢門院┃ ┃     ┃ ┣六条天皇79代 ┣藤原惟方1125-(洛検非違使長)   
  ┃ ┃ ┣二条天皇78代1143-1165藤原惟方母俊子、時子が乳母               
  ┃ ┃ ┃     ┃   
  ┃ ┃ ┃    女朱内親王1141-1176    
  ┣後白河天皇77代1127-1192(紀伊の局が乳母)           
鳥羽天皇  ┃  (藤原通憲(信西)、後白河側近で平治の乱で死す) 
74代┃   ┃     ┣藤原成範
  ┣近衛 ┃  藤原朝子┗小督?-?           
  ┃76代 ┃  (紀伊局) ┃ ┃        
美福門院  ┃      ┃ 藤原隆房        
      ┃      ┃ ┃        
      ┃   葵前 ┃ 清盛・娘四女        
      ┃   ┣-  ┣範子内親王1177-1210斎院              
      ┣憲仁親王80代高倉天皇1161-1181    
      ┃              ┃  ┣高成親王(82代後鳥羽天皇)1180-1239         
      ┃              ┃ 藤原殖子(七条院)          
  藤原祐子┃           ┣言仁トキヒト親王(81代安徳天皇1178-1185)
     ┣滋子1142-1176 平清盛 ┃ 
知信  ┃(建春門院)   ┃  ┃ 
  ┣平時信-1149        ┣徳子1155-1214(建礼門院)
 ┃  ┣時子1126-1185  ┛                      
 ┃  ┣時忠1127-1189院政期の政治家                    
 ┃  ┣親宗1142-1199   ┣讃岐中将時実                  
 ┃藤原家範娘      ┣右大弁時宗                  
 ┃           ┃  ┗娘(敦盛の許婚)                  
 ┃           ┣夕花の君(壇ノ浦後義経凱旋し、妻室に迎えた)                  
 ┗平珍材        ┣ゆかり姫                  
  ┗平惟仲944-1005 師の局(安徳乳母 待賢門院に出仕)

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受領の出世

2011年09月10日 | 平安時代

 受領は4年の任期を終えると公卿による受領功過定において財政上のチェックを受けた後位一階を進められるが、受領に任ぜられるのは容易ではなく、一生に一度だけなれる官人もおおかった。 小右記1018年によると、藤原道長の土御門第再建の奉仕者で有名な伊予守・源頼光の目代として「目代伍倫朝臣」が記されている。 この特徴のある名前から傀儡小目代を使った小野五倫であることは疑いない。 外記をつとめ伊豆守を務めた旧史の小野五倫はその後伊予国目代として働いた。1111年の除目で史巡第二の小槻良俊が陸奥の藤原清衝のもとへ下向していて、五位以上が勝手に機外へ出ることが問題となったが結局大隈守となった。 受領は自らの手足として多くの郎等を従えて任国に下向し彼らは下級官人層とあると述べたが、彼らには受領経験者やその予備軍もはいっていた。 枕草子・すざまじきもの のなかには除目に司えぬ人の家をあげ、今年は必ず国司になれそうだという人の家には多くの人が集まっていたのだが、任命はなく、翌朝人々が帰っていくさまを描くが、ただ受領の富にたかろうとして集まっているのではなく、受領が組織する郎等にしてもらおうと、下級官人層が集まってくるのである。  一方任中となった有能な受領は歴任していく。 枕草子では、受領などもみなさこそはあめれ。 あまた国にいく、四位、三位などになりぬれば上達部などもやむごとながり給めり と、受領を歴任して出世することを記している。

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受領による任国支配

2011年09月09日 | 平安時代

 摂関期の宮廷社会を支えたのは受領国司による任国支配であり、田を耕作する人を負名として把握し徴税する負名体制がその基礎にあった。 負名体制は10世紀前半に成立したのであるが、国司のもとで徴税を請け負っていた郡司が没落したことで、律令制は転換を余儀なくされ、 受領がそれを直接把握して徴税する体制に転換するのである。 これにより負名と受領が対峙するという不安定な支配体制であった。 藤原兼家政権下の988年、上京した尾張国郡司・百姓らは国守藤原元命の非法を列挙して中央政府へ上訴した。 これが尾張国解文といわれ、受領の任国支配の様子がわかる貴重な史料となっている。 極端な増税、種々の横暴、などをはたらきながら元命は国務を遂行したのである。  受領は任命されると赴任にあたって天皇に対して罷申という挨拶の儀を行う。 つまり天皇のことばを受けて地方の統治にあたるわけである。 受領はさらに摂政・大臣・公卿にも罷申をする。 道長のもとには多くの受領が挨拶にきており、実資も右大臣であった1025年にはひっきりなしに受領がやってきている。 餞別として馬が与えられることが多く、こうした挨拶まわりが済むと任国へ下向するのである。  因幡守として任国に赴任した関白師通の家司・平時範の日記・時範記によると、1099年2月に出発すると、摂津武庫 播磨明石 作用 美作に泊まり、1週間後には美作と因幡の国境にいたり、境迎という入国の儀式が行われたあと国務を行った。

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