うらうら楽しい日

花々楽しい日の妹ブログです。
トイプードル☆アンディ&チェリーの育児日記でもあります

またまた不思議な話

2016-01-05 | フォト日記

すっかりご無沙汰しているこちらのブログですが
新しく「着物」のカテゴリーを作ったので
時々備忘録に使いたいと思っています

さて表題の「またまた不思議な話」ですが

まず1つめは「おみくじ」

去年と同じ神社に行きおみくじを引いたのですが…

最初の短歌に見覚えあり


箇条書きの方にも見覚えあり

あれ?去年も打ち出の小槌じゃなかったっけ?

帰宅してブログをさかのぼってみると

 

これは去年のブログに使った写真ですが
全く一緒でした

去年のブログを読んでみると 

書かれている内容と短歌が
以前どこかで引いたおみくじと
全く同じだったような気がしてならないのですが…

結論だけ言うと
「他人のために尽くしなさい」
とのことです

なんども他人に尽くしなさいと言われている私です
返す言葉もございません。。。

 


不思議な話の2つ目

元旦に実家へ行った時のこと
今度は殿が一人でマンション(オートロック)の自動ドアの前に立った途端
す~~~っとドアが開いたのだそうです

開けたのは間違いなく母だと思います

 夏は殿以外の3人の時に同じ現象が起きました
その時殿は「なんで俺の時は開けてくれなかったんだろう?」と言ってたので
お正月は殿の時だけ開けたんだと思います・・・

 亡くなっても存在感のある母です(笑)

 


また、不思議な話

2015-08-14 | 母のこと

母の新盆でもあるので、うちの家族4人と2匹で実家に行き
父と一緒に食事をしてきました

実家はマンションの1階です
オートロック式なので、いつも玄関のインターホンで
「開けて~」と言って解錠してもらっています

殿は車を停めに行ったので
私と子ども2人と犬2匹でマンションの入口から入り
自動ドアの前に立ち、インターホンを押そうとした時

誰もいないのに!
私たち以外の人が誰もいないのに!

す~っと自動ドアが開いたのです


父が解錠したのかな?とかも考えましたが
父は奥の部屋にいたし
私たちが家に入ってきてから着いたことを知ったぐらいなので
自動ドアの解錠なんて、そんなことはできません


たぶん

おそらく

母が開けてくれたんだと思います

 

母が元気だったころは
インターホンを押すと母が出て
「いらっしゃい!」と解錠し
玄関のドアから数歩出てきて
私たちを迎えてくれていました

よく来たね~ 大きくなったね~
って。。。


なので、今日のドアも
絶対母が開けてくれたんだと思います

よく来たね~ 大きくなったね~って

 

お花を飾り
(仏花はいやだったので黄色やピンクのかわいい花束を作ってもらいました)
お供えをして お線香をあげながら 母に言いました

今ここにいるでしょ? って(笑)

お盆の間はきっと
母も実家に住んでいると思います

 

TOP画像は母が白木のテーブルに
アクリル絵の具で描いたお人形の絵です
テーブルの脚の部分は
こういう風になっています


不思議な話

2015-07-23 | 母のこと

私の実家はマンションの1階なのですが、小さな庭があります

このマンションを(母が)買った理由は
関西から連れてきたマルチーズ2匹と
ゆっくり暮らせるお家がほしかったから

当時は犬2匹と一緒に住める賃貸マンションなどほとんどなく
内緒で飼っているのが見つかり、追い出されたこともあったので
母が決意して、縁もゆかりもない埼玉県に
「ここで暮らそう!」と、マンションを買ったのです

私は住み始めて数か月後に
結婚してそのマンションを出ました

若がお腹に入り、胎動を感じ始めたころ
麻衣ちゃん(マルチーズ・13歳)が亡くなりました
紫陽花の咲く6月でした

麻衣ちゃんのことを話すと長い長い話になるので
今回は書きませんが
私は「麻衣ちゃんごめんね」って謝ることがいっぱいありました
でも、最後はいっぱい抱っこして
いっぱい謝って いっぱいお礼を言って
母の腕の中で息を引き取る瞬間まで
麻衣ちゃんを見つめていることができました

小さな庭の隅っこに植えたガクアジサイの下で
麻衣ちゃんがよくおしっこをしていたから…と
母はそのガクアジサイのことを
「麻衣ちゃんの木」と呼ぶことにしました

毎年花をいっぱい咲かせてくれる紫陽花の木
「今年もいっぱい麻衣ちゃんの紫陽花が咲いたよ」って
母が切って持たせてくれていました

2010年6月のブログにも
その紫陽花を窓辺に飾っている写真(TOP画像)があります

先日父に会いに実家に行った時
麻衣ちゃんの紫陽花を思い出し
「今年も紫陽花咲いた~?」と聞きました

すると父が
「それが一つも咲かなかってん。。。」

え?どういうこと?

急いで庭に出てみました
葉っぱの緑は青々としていて
新芽もたくさん出ていて
元気そのものの紫陽花の木なのですが

花らしきものも つぼみらしきものも
ひとつもありませんでした

枯れてしまっているわけではないのに
毎年毎年咲いていたガクアジサイなのに
どうして今年は全く咲かなかったのでしょうか?

紫陽花も母がいなくなって寂しかったのでしょうか?
主を亡くした紫陽花が喪に服して
花を咲かせることを控えたのでしょうか?

でもきっと天国で
母と麻衣ちゃんは楽しく暮らしていると思います
紫陽花の花がいっぱい咲く庭で

*******

もう1匹のマルチーズの夏ちゃんは
若が歩き始めたころに亡くなりました
麻衣ちゃんが亡くなってから1年後でした

とても不思議なのですが
アンディは性格が麻衣ちゃんにそっくりです
アンディの中に麻衣ちゃんが入っているんじゃないかな?って思うほど
本当によく似ています(これは殿も言っています)

そして、チェリーは夏ちゃんによく似ています
チェリーの中に夏ちゃんが入っているんじゃないか?って思うほど
本当によく似ています(これも殿が認めています)
しかも、チェリーのお母さんの名前が「夏」
なっちゃんなのです!

アンディとチェリーをかわいがることは
麻衣ちゃんと夏ちゃんの供養にもなると思っています

科学では証明されない不思議な話ってありますよね

あなたは信じますか?

私は結構信じています


サクランボの季節

2015-06-15 | 母のこと

今年 初のサクランボ

スーパーで見つけた時
母が好きだったなぁと思い
涙が流れてしまいました

1パック買って帰り、3つだけガラスの器に入れて
母の写真の前にお供えしました

美味しいねって食べてくれたかな?

去年の今頃はこんなに早く別れるとは思ってなかったのに
寂しいなぁ。。。


亡くなる1年くらい前から物が食べられなくなっていました
でも、お豆腐と温泉卵とさくらんぼだけは
おいしいねって食べることができていました

そのサクランボも季節が終わるとどこにも売っていなくて…
缶詰のサクランボ等も買ってみたりはしたけれど
甘いからって食べてくれなかったし

桜が咲いて、桜が散って
早くサクランボの季節になるといいねぇ~って
亡くなる直前まで話していたのを思い出し

今ならいっぱい持って行ってあげられるのにって
涙が流れてしまったのです 


美しき工場の夜~川崎工場夜景

2015-06-01 | フォト日記

前半の話はコチラ(記事の最後)で

人生初のはとバスツアーの主目的は
船の上から川崎の工場夜景を観ることでした

川崎工場夜景と言えば
大好きだったドラマ「きょうは会社休みます。」で
綾瀬はるかさんと福士くんが

船上で自撮りしていた背景の工場
ココ ↑ が


この『東亜石油さん(東亜石油京浜製油所)』ですね!
川崎工場夜景の名物スポットだそうです


夜の川崎工場は
とても幻想的な異空間した



「K」というマークが目立つように立っています
これは川崎の「K」
横浜の工場と近いために(空からでも)
識別しやすいように立てられているそうです
横浜には「Y」が立っている
かと思えば、違いました(何も立ってないそうです)

 
私たちは羽田にある天空橋から乗船し
多摩川を通り運河をクルージングしつつ見学したのですが
一人ずつベンチコートを貸していただけて(けっこう寒いんです)
ゆったりした時間を過ごしました
運河だったのでちょ~っと臭かったけどね(笑)

夜の川崎工場といえばもう一人!
セカオワの深瀬くんがこのあたりを
6時間くらい自転車で回って作曲するとかって
聞いたことがあります

セカオワの歌のファンタジーな世界が
ここから生まれているのかもしれませんね


ちなみに、この日の大きな地震
 私は船に揺られていたので
全く気付きませんでした


母のこと(記録として)

2015-03-17 | 母のこと

早いもので、亡くなってから四十九日が経とうとしています
空を見上げると、なぜか母のことを思い出し
夕焼けの空に向かって
もうスイスイ歩けるようになった?
おいしいものいっぱい食べられるようになった?
天国ではお姉ちゃん(私の姉)と一緒にいるの?
などと、話しかけたりしてしまいます

私宛に、父宛に
母と友好のあった方たちからお手紙やメールを頂いているので
記録として、ここに書き写しておこうと思います
※文章は抜粋したり、一部変えたりしているところがあります


母の知人のTさんからの手紙(一部)
ご生前にお交わり頂きました折の
しなやかなお考え方と美しい笑顔
そして、朗らかなお話し声が偲ばれ
地上が寂しくなった思いを深くしております
紙面ではありますが慎んでご逝去をお悔やみ申し上げます

 

母の友人のYさん(中国人)からのメール(抜粋)
今度こそ時間を取って会いに行こうと思っていましたが、
心のゆとりがなく実現できなかったことを
いまになって後悔しています
寂しさで悔しくて悔しくてたまりません

お母様はいつも背筋がまっすぐで
踊り子のようにしなやかに歩き
いつも明るさいっぱいの笑顔で
ご相談に頼むたびに心と心の会話ができ
人生のアドバイスをしてくれました

音楽や芸術の感受性が高く
またいつもロマン溢れる夢を持っている
少女のような方でしたね
お母様は大連が大好きで
「私の第二の故郷だよ」という声が
今も私の耳に残っています

お母様は私が付き合っている友人の中で
一番尊敬でき、一番羨ましく、大好きな方でした
彼女のプラス思考を習って、彼女のように優しく
陽気満々の人生を送りたいです

 

以前同じマンションに住んでいたYさんの娘のHちゃん
父からのメール
ピンポンが鳴りました
出て見ると、子供2人を連れたHちゃん(ご主人も)が
「あーちゃん(=母)いますか?」と立っていました
その後、Hちゃんから送られてきたメールを転送します
 
 久々に会えるとワクワクしながら ビンポンしました
子供2人を連れては、なかなか遠出をすることもなくなっていました
あーちゃんから「元気してた?」と電話をもらっていて
「こっちに来たら 顔出してね」と言われていたのに
なかなか行く機会がありませんでした
 
昨日は近くで結婚式に呼ばれていて
その帰りに、時間も遅くないので
今だったらと思い 寄らせてもらいました
 
あーちゃんが描いてくれた 蝶やピンクのぞうさんの瓶
今でも 使わせてもらっています
とても残念で仕方ありません
お泊まりさせてもらったこともあり
私が遅く起きたら もう家に あーちゃんが来ていたりしたこと
まだ この間の事のようです
 
おじちゃん1人で寂しくなりますね
大丈夫ですか?
かなさんが近くにいるから来てくれますよね?
私もいますからね!
また連絡します

 

 


今月末に家族+父とで関西に行き
納骨してきます

20年以上会っていない父方の親戚(関西在住)の方々も
たくさん来てくださる予定です
皆様と私の家族とは初対面です
こんなことでもないと
なかなか会えないもんなんですね

母が残してくれた有形のもの 無形のものを
ひしひしと感じています

四十九日の法要で住職さんが言っておられました
亡くなった方はどこに行くのでしょうか?
浄土真宗では、
自分を生んでくださったご両親の元へ帰ると言われています

母は祖父母の元へ
姉は母の元へ
みんなで仲良く暮らしていることと思います 


愛の挨拶

2015-02-07 | 母のこと

式で流す曲のご希望はありますか?と聞かれたので
エルガーの「愛の挨拶」と
アルビノーニの「アダージョ」をリクエストしました

聞かれたのがお通夜の直前だったにもかかわらず
奏者の方が弾いてくださり
静かで美しいメロディーを流してくださっていました

出棺の時はエルガーの「愛の挨拶」でした
甘く美しいメロディーが
母の旅立ちにぴったりの曲だったと思います

祭壇はピンク色の花でいっぱいでした

式に来てくださった方に見て頂こうと
前日に母の作品を持って行き部屋の片隅に置いていたのですが
当日式場に入ると


母の作品を展示してくださっていました


お人形がお花を持って座っています


刺繍の作品はイーゼルに立ててくださっていました
これ以外にも油絵やアルバムやパスポートなど
まるで母の個展の様


母の遺影はとびきりの笑顔の写真

※これは遺影の元写真(一部)です
まだ赤ちゃんの若を抱いている写真でした
かれこれ19年前(笑)

告別式では
色々な方からいただいたメッセージや弔電を抜粋して
読んでいただきました

素敵な言葉をたくさんいただいたので
ここに記させていただきます

* * * * * * * * * * *

 

かなちゃんちでお会いしたお母様の優しい笑顔を、       
今でもくっきり覚えています。       
私の拙い恋の終わりを見守ってくれたお母様は       
かなちゃんとともに、私の人生の中で重要人物のおひとりなのです。       
たくさんの愛につつまれて旅立たれたお母様は、       
大空でご家族皆様を見守ってくださっていると思います。       
Hさん(私の高校の同級生)


いろいろお世話になりました。       
人生の節目節目でかけてもらった言葉を思い出しています       
その時は深く考えなかったけれど、今にして思えば私の心の中を       
見透かしての励ましの言葉だったのだなぁと胸が熱くなります。       
母もたくさんのことをお母様から学んだと感謝していました。       
ご冥福をお祈りいたします。       
Sさん(私の小中高の同級生)    
       
       
感性の鋭い華やかな方       
学ぶことが多くすばらしい方       
さみしくなります       
ご冥福をお祈りします       
Fさん(母の友人)
       
       
家庭訪問でお目に掛かった若い日の素敵なお姿が思い浮かびます 
岩倉のお部屋もとてもいいセンスが行き届いていて
感心したのも忘れません。      
私が26歳の時でしたから、41年前です       
なるほど「おっかなえ(先生が私につけた愛称)」のご家庭だと思ったものです       
ご冥福を心よりお祈りします       
F先生(小学校の時の担任の先生)
    
       
       
驚きと悲しみでいっぱいです。       
いつも明るく、バイタリティ溢れた方で、       
太陽のような叔母ちゃん。       
信じられない思いです。       
お通夜も告別式も行けず、叔母ちゃんとお別れできなくて       
申し訳ありません       
京都の地で叔母ちゃんのご冥福をお祈りしております       
Cさん(母の姪)      
       
       
晩年のお付き合いはありませんでしたが       
はつらつとしたお姿しか浮かびません       
ただただ寂しい限りです       
Mさん(母の姪)


いつまでもピュアな気持ちを持ち続けたあーちゃん。       
私の心に沢山の思い出を残してくださいました。       
お話した膨大な時間を決して忘れません。       
本当にありがとうございました。       
Hさん(私の小中高の同級生)  
       
       
お母さんの茄子の煮物が美味しくておかわりしました。       
たくさんほめてもらえたことも忘れません。ありがとう。       
Nさん(私の大学の同級生)


驚きました。電話でお話ししたのはいつだったでしょうか
また電話頂戴と言っていただいていたのにそのままになって
その時はとてもパワフルな感じでしたのに
私が知っていたころは岸恵子に似た華やかなきれいな方で凛として
お父様とお似合いだといつもうらやましく思っていました
なんでもおできになって…
お母様のご冥福お祈りいたします
K.Mさん



他にもたくさんの優しいお言葉を頂きました
本当に本当にありがとうございました

母のことですので
きっと天国でも大好きな人たちのことを
全力で守ってくれると思います


追悼(母の過去記事のまとめ)

2015-02-02 | 母のこと

私の母は、私なんて足元にも及ばないくらいの
ハンドメイダーでした

幼少の頃から、私の服は母の手作り
リカちゃんの服から傘などの小物まで母の手作り
「ロンパールーム」や「おかあさんといっしょ」で使われていたおもちゃがほしいと言えば
家にあるもので似たようなものを母が手作り
幼稚園に寄贈したぬいぐるみは数知れず

ドライイーストなどがない時代からパンを焼き
デラックスなケーキを焼き(ピンク色のクリームの薔薇の花の飾りなどがついていました)
マドレーヌにシュークリームにキャラメルも手作り
籐でできた籠や籐製の各種小物入れ 
 畳くらいの大きさのパネルに貼ったフランス刺繍の大作
アートフラワーで豪華な花を作り 油絵を描き トールペイントをし・・・

「どんだけ器用なんだ?」という疑問さえも起きないくらい
ありとあらゆるハンドメイドで行きつくところまで行っては
次へ次へと移っていました

私が中学生の時はお人形の先生でした
布製のお人形を作ったら友達から「教えてほしい」と言われ
ちょっと教えてみたらクチコミで広がり
芋づる式に生徒さんが増え
火曜と木曜は私が学校から帰ると
生徒さんとお土産のお菓子で部屋がいっぱいでした

ご近所に住んでいた宝塚スターさんのお母様も
母の人形教室の生徒さんで
その方経由で母の人形はたくさんのタカラジェンヌの元へも
嫁いで行きました

でも ある日「もうやめるわ」と言ったかと思うと
人形教室をフェードアウト
今度は自分で作りたい人形を作ることに没頭し始めました

過去に1度だけ有名な雑誌のハンドメイド大賞に応募したことがあるのですが
その時「ファインワーク賞」をいただいたのがこの子です
※ 人形教室で教えていたのはこのタイプの人形ではありません


ほとんどの人形は嫁いでしまっていますが
この子を含め数人だけが
今も実家の母の部屋で座っています

 


ベルト部分はグログランのリボンにお花の刺繍をしたもの
チロリアンテープじゃないところが母らしい(笑)

 


靴にも刺繍
靴下もペチコートも帽子もアクセサリーも
全部母が作っています

 


目もまつ毛も唇も・・・

これらのお人形は昔からずっと家にいましたが
自分がハンドメイドにはまった今見ると
改めてその凄さがわかります

この後、母は更に進化します

ジュモーやブリュといったヨーロッパのビスクドールに憧れ
クラフト用の粘土で顔や手足を作る人形の制作に打ち込み始めました

その頃作った人形も少しだけ残っています
(欲しいと言った方にどんどんあげていたので、ほとんど残っていないのです)

 


ガラス製の目と、カールした髪の毛は買ったものですが
ほかはすべて母が作っています


最初は次々と新しい人形が生まれていましたが
そのうち「違う!バランスが悪い!」と
顔を作っては壊し 作っては壊し・・・

そのうち、作ることをやめてしまいました


先日実家へ行った時
「作りかけのお人形をそのまま取ってあるんだけど
あんたが続きを作ってみない?」と言われました

箱を開けると・・・

作りかけの顔 そして手足

これを私にどうしろと言うのでしょうか?

あまりにもすご過ぎて・・・
「無理」としか言えませんでした

2010 3.14 記

 

人形は作るだけでなく、油絵でも描いていました


この頃母は油絵を習っていましたが
先生(洋画家)とは作風が違ったので
教室で描いてくる絵(主に静物画)と、家で自由に描く人形の絵は
まったく別物でした

後にトールペイントを習ってからは、アクリル絵具で描くようになりました
お人形の絵は今でも(実家に)いっぱいあります
トイレにも飾られています(笑)

2010.4.21 記

 

母の手編み






どんな精神状態でこれらを編み続けていたのか
私にはさっぱりわかりませんが
私がOL時代、会社から帰ってくると
確実に猛スピードで編み進められていました
手編み経験者の方ならわかると思いますが
横に糸を切り替えるのって、大変ですよね
これだけ入り組んでいると・・・

2010.4.17 記

 

母の刺繍

これは私が関西に住んでいた時に(25歳まで関西在住)
応接間のアップライトピアノの上に飾られていたものです
大きなパネルに貼られていたのですが
引っ越しの際に、母がザクザクと切り取ったのでしょう(笑)

母によると「大阪万博(1970年)のどこかの国のパビリオンの壁画を参考にして刺繍した」そうです
ということは、少なくとも「どこを何のステッチで縫うか」などは
オリジナルということになるのですよね
ちょっと信じられませんが・・・


寄って写真を撮ってみました

不思議な形の花
刺繍糸のグラデーションがとてもきれい



40年近く前の作品なので、スパンコールが取れていたり
刺繍糸がちぎれていたりしていますが
それでも、丁寧な手仕事がよくわかります



フレンチノットがいっぱい
右側↑の網目のようなのは・・・



袖の部分です
刺繍の上に刺繍糸を編んだものをかぶせているみたいです
すごいなぁ・・・



左の女の子(妹かな?)



右の女の子(お姉さんかな?)


そして

このきらびやかな衣装を着ているのが



お母様かな?



お母様のおカバンも
なんだかすごい技が使われているような気がします



どの国のパビリオンの壁画なのか?
それをどうやってこのような図案に起こし、刺繍に再現したのか?
今となっては謎ですが(母は覚えていないと思うので)
自分がハンドメイドをするようになった今
作品としてじっくり見てみると、その凄さに改めて驚嘆しました

2010.5.16 記

 

カーネーションの時代
先日偶然テレビで見た番組
歴史秘話ヒストリア「”カワイイ”に恋して~中原淳一と"カーネーション"の時代」→
普段は「ながら族」の私が、この番組は珍しく集中して見てしまいました
過去に何回か書いたことがありますが
私の母は私なんて足元にも及ばないくらいのハンドメイダーで
興味を持ったことはとことん追求するタイプ
その母が「尊敬する人も、ライバルも、中原淳一さんだけ」と申していました

そんな母から「これはあんたが持っておいた方がいい」と
押しつけられるように渡された画集があります

中原淳一画集
「何で私が…」と思いながらもとりあえず保管していました

母は1933年生まれ
糸子よりはずいぶん若いけれど、しっかりカーネーション世代です
その当時に熱狂して読んでいた本が


「それいゆ」だったそうです
本は捨てられなかったので全部友達に預けたそうですが
それから50年以上も経っているので
もう所有権も何もないですね(笑)


当時、中原淳一さんの書いた記事は
少女たちを熱狂させたそうです


髪の結い方が図解されていたり


ちょっとしたハンドメイドも興味を引きそう


昭和ならではのアイデアですね

こういう時代に手作りに熱中していた母は
ネットで色々な資材が買えてしまう現代にはない楽しみ方で
あれこれ作っていたんだろうなぁと思いました

2012.2.18 記


2015年2月1日 母(彩子)永眠


スロ女。

2014-12-13 | フォト日記

徒歩5分のところにジョギングコースのある公園があります

今の家に引っ越してほぼ1年になりますが
(若は時々走っているようですが)
私はアンチェリの散歩に行くだけ

なんとも もったいない話です

この公園・・・

写真に撮ると外国の湖のように見えますが
別所沼という名前の沼です

略して「べぬま」

「べぬま」は、朝も昼も夜も
いつ行っても誰かが走っています

埼玉スタジアムでサッカーの試合があるときは
近くのホテルに泊まっている日本代表の選手たちも
この「べぬま」を走っているそうです

二足歩行しかしていないような私だったのですが
同級生たちに誘われて
1月18日 横田基地で5kmを走るという大会に
エントリーしてしまったため
ちょっと走っておかねば!と焦り始め
少し前から
スロージョギングをはじめました

スロジョは名前の通りゆっくり走るのです

通常のランニングよりも更に遅く
姿勢はやや前傾姿勢気味に
背筋を伸ばしながらゆっくりと

べぬまは特にライティングをしているわけではないのですが
街灯がきれいなオレンジ色の光を夜に滲ませていて


まるで外国の公園のように
美しいのです

i-phoneで普通に撮って

こんな写真が撮れるなんて
ちょっと感動です

一周940mを3周
それに家と公園の往復の距離を足すと
だいたい3km
私にはちょうどいい距離です

最初は1周何分かかるか測ったりしていましたが
途中でスマホのストップウォッチが
止まってたりしたのでやめました

次は何も考えずに走ると飽きてくるので
頭の中で歌を歌うことにしました

歌詞を覚えている曲って意外と少ないんです
そこで

得意の石川さゆりちゃんシリーズ
飢餓海峡…間が合わない
暖流…リズムが合わない
天城越え…これはすごくいい!走りやすい!!!

童謡シリーズ
地下鉄ゴーゴーゴー…走りづらい
はしれちょうとっきゅう…ゆっくり走ってるのに
ビュワーンビュワーンはちゃんちゃらおかしい
森のくまさん…軽快に走れるナイスな曲!

歌だと
天城越えか森のくまさんが
スロジョにはいいという結果が出ました(笑)

今日はイヤホンを持って行って
ラフマニノフのピアノ協奏曲を
爆音で聞きながら走ってみました

1番走りやすかったのは
ラフマニノフのピアノ協奏曲1番の1楽章
ヨーロッパの公園を走っているような
麗しい気分で走れました

ラストにサビが来るような曲を選ぶと
気持ちが漲り(笑)
いい効果が出るように思えます


いつまで続くかは疑問ですが
できれば1日おきぐらいに走りたいなと思っています

 ゆっくり走っているので 
どうぞみなさん、遠慮なく抜かしてくださいませ


19歳

2014-11-12 | 子ネタ

11月12日は若の誕生日

日付が変わった直後に
おめでと!ってLINEで送ったら
さんくす!って返事が来た
(この時ご本人は未帰宅)...

昨日(11日)の朝、生まれる前の日の話をした
あまりにもお腹が重かったので
「もう出てきていいよ~一緒に頑張ろう!
こっちに出ておいでよ」って
お風呂でお腹をさすりながら言ったら
予定日より10日も早く生まれたんだよね~って

呼吸法とかまったくわからなくて
へったくそな妊婦で
結局 吸引分娩になり、
頭を引っ張られてこの世に出てきた若くん

4歳の頃「お母さんのおなかにいた時のこととか
覚えてる?」って聞いたら
「ここが痛かったの」って頭をテンテンって叩いた時は
びっくりした
そういう記憶ってあるのかなぁ
痛かったんだろうなぁ。。。(笑)←笑うのも変だけど

写真はけっこう長く使っていたキーホルダーです
8ヶ月くらいかな?
これでもちょっと痩せたんです
6か月頃は肥満児だったから

いい笑顔だなぁ


この笑顔の写真を
「お誕生日おめでと!」と一緒にLINEで送ったのですが
今日LINE見てビックリ

若のプロフ画像がこの写真になってる!
ひとことコメント欄には「もどった」 と書いてある

なんだかよくわからないけど
ちょっとうれしかった

ちょっとだけ戻ってくれてもいいな
この頃の若に・・・

19歳おめでとう!