uparupapapa 日記

今の日本の政治が嫌いです。
だからblogで訴えます。


こりゃ!退助!!~自由死すとも退助死せず~(24)

2021-02-04 16:08:21 | 日記


  








このイラストは私のblogの読者様であり、
イラストレーターでもあられる
snowdrop様に描いていただいた作品です。


#13イラストのリクエスト〜『板垣退助』 - snow drop~ 喜怒哀楽 そこから見えてくるもの…
 (snowdrop様のblogリンク先)

Snowdrop様
素晴らしいイラストをありがとうございました。
心から感謝いたします。









  第24話 東北遠征

 菊、里、展子、鈴・・・。
退助の女性遍歴を見ると、
あるひとつの傾向がある。
 それは容姿ではなく、
退助に対する態度というか、
相対的な立場にあった。
 好みというより、
接し易さが重要なのだ。
 常に影のように付き従う
撫子のような女性は苦手だった。 
 それは上級武士出身の生い立ちと
親譲りの性質にある。

 退助の両親も、退助自身も、
身分の上下を厳格に守るような
人付き合いは好きではない。
 常に畏(かしこ)まれ、指示待ちの者は疲れる。
自分の意見や感じたことを
正直にぶつけて欲しい。
 退助に対し物怖(ものお)じせず、
何でもズケズケ言ってくるような性格。
 自分より強い立場で追い込んでくる女性。
 つまり最初の女性(ひと)、お菊に原点があった。

 女性に追い込まれると心地よいのだ。

少々変態じみて聞こえるが、
追い込むことで自分(退助)という男に興味を示し、
言葉のゲームを楽しむような
そんな時間を共有できる女性。
 そういう人を面白いと思う。
知らず知らず好きになる。

 でもそんな女性の好みを
当の退助は気づいていない。




 退助と鈴の簡易婚礼は滞りなく終了したが、
新居が決まっているわけではない。
 まだまだ江戸の治安は悪く、
そんな時なのに、すぐ遠征に出なければならない。
 本格的な新居探しは、凱旋後と云う事になる。

しかし何故深尾はこんな大切な時期、
強引に婚姻を推し進めたのか?
 
 それは退助がしばしば単独行動や
少ない供しか引き連れず、
危ない目に遭っていたからだった。

 指揮官としてあまりに自覚が足りない。
無謀な行動や、隙のある行動をとり過ぎる。
 まだまだ戦いは続くのだから、
もっと慎重に行動させるべく、
もう一人妻を持つことで
責任感を自覚させようとしたのだった。

 深尾の狙い通り、二人目の妻を持ち、
これ以降の退助は、鬼神のごとき
獅子奮迅の活躍を見せながらも
慎重に行動する司令官の風格を身に着けていた。

 深尾の策にまんまとはまる
実は結構単純な退助であった。

 そんな退助は休む間もなく迅衝隊を率い、
宇都宮戦争第二次攻城戦の援軍として遠征した。
それは江戸城開城以降新設された
『奥羽鎮撫総督府』という組織の新政府軍が、
第一次攻城戦で旧幕府軍に負け、
宇都宮城を奪われたからであった。

 壬生城の戦い、野洲戦争を経て
退助率いる迅衝隊は
ここでも当然のように
鮮やかな手柄を立て勝利する。

 宇都宮城奪還後、戦の舞台は日光に移った。
退助ら迅衝隊は、旧幕府軍の大鳥部隊を追う。
 その結果旧幕府軍と今市付近で交戦、
追われるように大鳥隊は徳川家の聖地である
日光廟を背に陣を張った。
 
 決戦準備を整えたその時、
日光山僧たちが退助のもとに嘆願書を提出した。
 日光東照宮を戦災にまみれさせないで欲しい
との申し入れである。

 退助は真摯な態度で訴えに耳を傾ける。

 そして日光という土地は
初代領主である山内一豊公を
土佐に封じた御恩を
何代も後に続いた豊信公が
未だ忘れていない事。
 そんな主君の意を汲み、
土佐藩の代表として敬意を表すべきである。
東照宮の文化遺産である建築や宝物を守りたい。
そんな聖地を戦災で失うのは愚かな行為である。
故に日光山を戦場にするのは是非避けたい
との思いを旧幕府軍の大鳥に向け使者を送り、
日光山を下山するよう説得した。 一方旧幕府軍は多数の負傷者を抱え
疲労も限界にある事。 また物資不足も深刻化していたため一旦下山し
会津での決戦を決めた。

これにより、日光は戦火を免れた。

6月10日会津藩・仙台藩連合軍が白河城を占領。
(第一次白河城攻防戦)
 退助の新政府軍の別動隊は、
長引く白河の戦いの間、
1868年(慶応4)6月24日(新暦8月12日)
僅か一日で棚倉城落城させ、
その後も続き次々と城を落とした。
 しかし注目すべきは
驚異的な退助の迅衝隊の動きで
棚倉の戦いの前、何と5月15日(新暦7月4日)
上野戦争に参加しているのだ。 時系列上、第22話の上野戦争が
先に紹介された形になり混乱するが、
宇都宮戦争から東北へと
戦場が移る間に上野戦争があったのだ。
(ややこしくてすみません。)
 1868年(慶応4)6月21日
宇都宮城の戦い、とんぼ返りで
7月4日に江戸にて上野戦争、
更に東北に移動、8月12日に棚倉城戦。

 まさに退助が率いる
迅衝隊や断金隊はスーパーマンであった。

9月2日三春藩、奥羽越列藩同盟を脱退。

その陰にはある人物の活躍があった。
 三春藩郷士河野広中である。
河野は棚倉城落城の知らせを聞くと、
退助率いる断金隊に赴き直談判をする。
 三春藩は東北の小藩。
石高5万石でしかない。
周辺の奥羽越列藩同盟への
諸藩の参加の動きに抗しきれず、
止む無く同盟に引きずり込まれたが、
元々勤王の志に重きを置く藩であった。
 河野は云う。
「奥羽越列藩同盟を脱退、新政府軍に加盟したい。」
そして三春藩の窮状と、
そもそも勤皇の藩であることを訴えた。
河野の言を聞き退助は、
「貴殿の申し出は嬉しいが、
それは仲間への裏切りではないのか?」
しかし退助の反応に臆することなく、
正面からしっかり見据え、
「錦の御旗に背く事こそ大罪であり
造反の極み。
 我らの意思は勤王にあり。
それこそが三春武士の本懐です。」
と言い切った。
 ここで退助の側近
断金隊隊長、美正貫一郎が執り成す。
「ひとりで訴えにきたその心意気。
この者、信じるに足る人物とお見受け致す。」
すると退助は、
「美正殿、あい分かった。
貴殿が言う通り、
ワシもこの者の胆力と誠実さを信じよう。」
かくして三春藩は戦禍を免れ、
奥羽越列藩同盟を脱退、
新政府軍への加入が認められた。
 そして河野達三春藩は
会津藩攻略のため、
最大限の協力を自ら買って出る事になる。
 

磐城平攻略を果たした新政府軍と
断金隊が合流。
 退助は高らかに宣言する。
「次の敵は三春藩!者ども進め!!」
三春藩の造反を列藩同盟諸藩に悟らせないよう
三春藩攻略の進軍のポーズを取り続けた。

 三春藩領に到着すると、
重臣たちが出迎えていた。
 互いに頷きあい、
かくして三春城無血開城は成された。
 これはあくまでも三春藩が寝返ったのではなく、
雄々しく戦ったがダメだったと諸藩に思わせるため。
三春藩の名誉を守るための心遣いだった。

 その後河野は退助と行動を共にし、
その人柄に惚れ、
自由民権運動の強力なメンバーとなった。
 
でもそれは別の話。



三春藩の案内にて徹底底抗戦にあいながらも
二本松城を撃破した。
 

進軍する度、味方を増やす退助。
いよいよ会津攻防戦に臨むのであった。

   

   つづく





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5 コメント

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いい奴 (wd)
2021-02-09 12:22:24
坂本龍馬の偉業よりも、
お龍さんへの接し方に尊敬です。

板垣退助にもそれは共通なのですね。

追伸 いつも、閲覧ありがとうございます。
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Unknown (uparupapapa)
2021-02-08 07:14:15
kaminaribiko様
おはようございます😃
コメントありがとうございます。
男性も女性も『蓼食う虫も好き好き』と言いますが、主人公退助はあの時代には珍しく、分け隔て無く人と接し、女性関係も盛んでした。
でも物語の創作上、カッコよく描くより、少々ズッコケた人間像を織り込めたいと思ったのです。
創作の中に、実際にあったエピソードをできるだけ交え、新解釈の退助を描いていきたいと思います。
これからもどうぞ宜しくお願いいたします。
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Unknown (uparupapapa)
2021-02-08 06:57:06
@rubberboots おはようございます😃
コメントありがとうございます😊
また、お返事遅くなりまして申し訳ございませんでした。
板垣退助という人は調べてみると、実際に何度も失脚を繰り返す不屈の人でした。
決して安易な妥協をせず、自分に厳しく、人に優しい男らしい人です。
もうすぐ明治維新後の政治参画編に移ります。
私が一番描きたかった時代です。
もしよろしければ、今後もお付き合い願えたら幸いです。
どうぞ宜しくお願いいたします。
返信する
Unknown (kaminaribiko2、)
2021-02-08 05:49:28
おはようございます。

そういう女性を嫌う男性が大半だったと思いますが、珍しかったですね。
返信する
Unknown (rubberboots)
2021-02-07 10:15:24
こんにちは😃いつも、ブログ見ていただいてありがとうございます☺️
私も、板垣氏のように意思を強く持ちたいと思います。( 〃▽〃)
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