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現代教育の諸問題 -形式の教育から意味の教育へ―

2005-01-04 16:40:23 | むかしに書いたもの
                                     (1996.6.6)
                             上記の一部改定(1996.6.8)

 最近問題になっているニセ宗教オウム真理教に、いわゆる一流大学の理系学部を出た優秀な学生がオウムに入り、その悪行にかかわっていたことが問題になっている。
 これは現在の学校教育の問題点が目に見える形で現れたものである。なぜ優秀な学生がオウムなんかのインチキ宗教に引っかかってしまったか。それはいまの学校教育が考える力を成長させずにただ正しいとされていることを教え込んだだけであるのではないのだろうか。オウムみたいなインチキでも百パーセント、インチキで塗り固められるわけにはいかないのである。もっともらしいところを持っているからこそ成り立つものなのである。ただすべてではないのである。そこに論理の飛躍が出てくるのである。ある問題が正しいのだからすべて正しいという風に論理を立てる。しかし一部が正しいからといってすべてが正しいということは論理上あり得ないのである。ウソをついてウソをつく、これは誰でもわかる。しかし本当をいってウソをつくとなると、はたしてそれを見抜けるかが問題になるのである。
 その壁を乗り越えるために必要なのが意味の教育、つまりものの見方考え方の教育である。科学的真理とされていることをドクマ的・教条的に教えるのではなく、科学的真理を基礎にしていかに見るべきか・考えるべきかを教えることが必要であるのだ。ドクマ的・教条的なものはそのことを完全に自分のものにしておらず、受け身の姿勢であって主体性を持って自分で考える段階に至っていないのである。
 もっとも自分の頭で考えるといっても科学に基づかない思弁的なものではいけないのである。当然のことだが現代の科学的真理が基盤である。しかもこれからの社会は昔みたいに、どこかの国がお手本で追いつけ追い越せというものではない。日本は曲がりなりにも手本としてきた国に並ぶ国になった。そうなるとどこかの国の物まねではなく、自分たちの目標に向かって進んでいく必要がある。そうすると自分たちで考える必要があるのである。どこかの誰かさんが答えを知っていて教えてもらうのではなく、自分で答えを見いださなくてはいけないのである。だれも答えを知らないのである。参考意見・考えはあるがそれがそのまま当てはまるという保証はないのである。最終的には自分で考え答えを導かなくてはいけないのである。
 いま必要なのは受け身の暗記中心でなく、科学的真理を基盤とする、主体性を持ち考えることを中心とする教育なのである。知識の量ではなく、それについてのどう見るかや見解を持つことが大切なのである。
 教育はすべての教科において科学的方法論によって貫かねばならない。諸科学の枠を超えたつながりを大切にする必要がある。それは自然科学と社会科学は違った種類の科学ではあるが、お互いにつながりのあるものである。たとえば科学の害悪ということがあるが、それは科学自身が悪いのではないのである。それは社会がその科学を悪用したのである。その問題について突き詰めて考えると自然科学は社会科学と結びつく必要があるのである。お互い違うものであるが、お互いに成果を生かし社会の進歩に役立てる必要がある。
 今日の複雑な社会の諸問題を解決するためには、各人が主体性を持って自分の頭で考えることが求められているのである。そのためにドクマ的思考ではなく、科学的真理に基づく原理・原則を基本を大切にしそして主体的に展開していく必要がある。そのために学問のグローバル的展開と確固たる科学的方法が必要がある。幅広い視野を持って主体的行動ができるようにするのがこれからの教育である。それを通じて自己に主体的世界を切り開かせる必要があるのである。もっとも科学的真理が基本であり、詭弁は排除されなければならないが。
 新しい教育は基本を大切にし主体性を持ち科学に基づく思考を作り出す方向に進めるべきだと思う。

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