労働組合 社会運動ってなんだろう?

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「万国の労働者団結せよ!」というコトバが好きです(笑)

いわゆる体罰の問題によせて

2005-01-04 16:38:46 | むかしに書いたもの
                               (1996.5.13~5.15)
                               1996.5.16 一部改訂
                               1996.5.19 一部改定

 最近の雑誌「アエラ」に興味を引く記事があった。それは以前あった福岡の近畿大学付属女子高校で教師の暴力によって女子高生が死亡した事件のその後の記事である。
 教師のいわゆる体罰によって問題になるといつも親とか地域がその教師の助命嘆願をやるが今回もその類に漏れずに起きている。しかし今回は特にそのやり方が汚すぎるのである。それはその女子高生像をねじ曲げ明らかに中傷するようなものがちらほら見え,それは教師の行動を正当化するかのようなものである。それがデマであるのにそれがひとり歩きしているのである。
 日本では昔から何回もいわゆる体罰問題が起きている。しかし親や地域そして学校ぐるみで助命嘆願や真実の隠蔽をはかっている。そしていずれもうやむやになっている。読者はなぜ私が「体罰」という言葉に「いわゆる」という言葉をつけているかと思う人がいるかもしれない。それは体罰という用語が不適切だと思うからである。それは教育の名を借りた暴力あり、けして是認せざるべきものでないからであるある。ただ一般に教師の暴力の多くが体罰という用語で使われており,また学校教育法で体罰という用語が使われているからやむを得ず使っているものである。
 体罰という名の暴力が明らかになったとき、だいたいいつも「教育熱心のあまり」とかいうどっかの答弁顔負けの決まり文句が多用されてきている。しかし学校だから、教師だからといってなぜ体罰という名の暴力が是認されなければならないのか。いかな理由があろうと暴力を振るわないのが近代社会の常識であり、法律の基礎にあるのである。もし町で殺傷事件を起こしたら警察に逮捕され何らかの処分を受けることになる。これは当たり前のことであるが,なぜ学校だから、教師だから特別な扱いを受けなければならないのかである。
 体罰を正当化しようとしている人もいるが,その根拠はどこにもない。反対にしてはいけないとする根拠はいくつもある。たとえば学校教育法,子供の権利条約等々である。体罰という名の暴力を是認するものは法律をわきまえてそう考えているか問いたいものである。
 体罰を禁止した学校教育法ができたのは50年近くも前の1948年のことである。長い歳月がたってもなお消えないのは,それを是認し社会風土に問題があることはたしかであろう。 体罰は一時的には効果があるように見える。しかしそれは本当に問題が解決をしたものではないのである。本当に悪いこと良いこととを理解しているのではないのである。ただ殴られるのが怖いからということで、外見を取り繕うだけである。抜本的に問題が解決をしていないのである。
 教育にとって必要なのは、その人の理性を最大限に伸ばすことである。知性はその後に考えるべきなのである。これは悪いとか善悪をただ教え込むのではなく自分の頭で考えることが必要なのである。形ではなく原理・原則を理解することであり、ドグマではなく精神を理解することが必要なのである。痛い目にあうからやらないではなく、悪いことだからやらないといういう方へ持っていく必要があるのである。それを教育でおこなうためには、暴力ではなく、相互の信頼関係に基づくねばり強く対応していく必要があるのではないか。
いまの日本社会は一方で近代社会のような姿を持ちながら、一方では前近代的な村社会の姿を持ち合わせている。村社会の構造すべてが悪いとはいわないが、村社会の問題点もある。その問題点とは、問題をうやむやにしてしまうこと、反対する人を村八分にしてしまうことである。この福岡の問題も、いわゆる体罰という問題をごまかし、いわんや死亡した女子高生を中傷し、遺族に嫌がらせをかけるというのは、近代社会においてあるまじき姿である。
この事件は「体罰教育論」というべきかな前近代的教育観が根が深く、かつそれを前近代的要素を持つ社会が、それを支えているいるということを示しているのではないかと私は思うのである。

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