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歴史認識における事実と経験の問題

2005-01-04 16:26:49 | むかしに書いたもの
                                   2001年12月7日 初稿
                                   2001年12月8日 改訂

 歴史認識において、事実と経験をどうとらえるかという問題がある。
 右翼的潮流の歴史認識=デタラメではなく、一定の事実の反映もあるという視点が、論争を見ていく上で重要だと思う。「ロシアの南下への恐怖」などは、根拠のないデタラメではなく、一定事実を反映しているというのが定説であろう。しかし同時に、大義名分ではなく実際に行ってきたこと・考えてきたこと・その結果をどうだったのかをしっかりとらえる必要がある。いろんな諸事実・視点を総合して見ること、どのような結果につながったのかをとらえる必要がある。右翼的潮流は、個々の点で事実であっても、全体としては一面的な歴史認識であり、都合のいい解釈となっており、デタラメな歴史認識になっている。自虐史観ならぬ自画自賛史観であり、それはもっとも日本を貶める史観(世界から無責任・無反省な国ととらえられることを通じて)となっている。
 経験というものをどうとらえるのか、近現代史を考える上で欠かすことのできない観点といえよう。近現代史の特徴としては、実際に経験した人が多く現存し、証言することのできる歴史ということ、同時代史という性格をもっている。そのような性格をもっているが故に、個々人の「経験」が一つくせ者となってくる。例をあげよう。自分のまわりには従軍慰安婦がいなかった=従軍慰安婦なんかなかった=従軍慰安婦の話はデタラメだ、こういった論理を「経験」を通じて展開することも不可能ではなく、実際に展開されている(某鉄道雑誌での編集長原稿がいい例)。そして、例の新しい歴史教科書を、諸外国が批判することは「不当な内政干渉」という、論理を受け入れる下地になっているのである。私たちが歴史認識を考える上では、ある出来事の性格認定や事実認定を進めていく上で、ある特定の個人の経験を出発点に考えるのではなく、文献や多くの経験を総合して考えることが重要であり必要になってくる。
 15年戦争の指導者たちも娘や妻にとっては、優しい父親・夫だった。これは事実だ。同時に、少なくない日本とアジアの人民から父親・夫を奪ったのも事実なのだ。右翼的潮流は、系統的に前者の「経験」を、文藝春秋社など大手出版社の雑誌や文庫本などの形で流している。この2つの側面をもつ問題をどう考えたらイイのだろうか?。
 これらの問題を考えるためには、歴史を学ぶとともに、また勤労者通信大学などで哲学や歴史観(弁証法的唯物論的な性質をもっている)などの基礎理論も学んでいかないと、「事実」「経験」にだまされてしまうのではないかと、ふと感じた。
追記)三浦つとむ『哲学入門』(仮説社)その2の部分は、非常に興味深い。
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