goo blog サービス終了のお知らせ 

プラチンブリの風 第6章

2009年12月20日 | プラチンブリの風

Dec19_00a

プラチンブリの風 (第6章) 在留邦人 By Harry H.

HARRYは、前回2006年8月にチョンブリ県シーラチに赴任した時、タイ在日本大使館に在留届を出し、2007年3月に日本に戻るとき、在留届の変更届を出さないままにしていた。その結果、同大使館からは、治安情報やH1N1に関する同報メイルが、日本に帰国後も届いていた。今回、再びタイに来て、バンコク在の日本大使館に対し、住所の変更届を提出した。 

外務省より2008年度(10月時点)の海外在留邦人(3か月以上の長期滞在者と永住者)の統計結果が出た。内容を見ると、以下のようになっている。 

    総数は、111万6,993人で、前年から2.9%増加

    国別では、1.アメリカ:386,328人 2.中国:125,928人 

3.オーストラリア:66,371人 4.英国:63,017人 

5.ブラジル:60,578人 6.カナダ:50,201人

7.タイ:44,114人

    都市別では、1.LOS:64,734人 2.NYC人:49,659人 

3.上海人:48,179人 4.バンコク人:32,283人

    タイでの都・県別では、1.バンコク:32,283人 2.チョンブリ:2,996人 3.チェンマイ:2,284人 5.アユタヤ:836人 7.プーケット:553人 10.プラチンブリ:347人 11.ラヨーン:325人 

Dec19_01a HARRYAが前回タイに居た2006年10月時点のタイにおける在留邦人は、4万人を超えたところだった。それが今は、10%ほど増えて、44,000人を超えている。やはり日系企業の継続的な進出が続いている結果であろう。東南アジアでは、シンガポールやマレーシアでは、日系企業の駐在員の引き揚げが進んで、在留邦人数が減少しているとのことだ。

 

 

前回のベース・キャンプであったシーラチャ(チョンブリ県)には、約3,000人近い日本人がいるが、今回プラチンブリに来る前、日系企業の数(50社前後)からして、日本人は300人前後かなと思っていたのだが、外務省の統計結果としては、347名という数字だ。〆

(右は届出用紙:クリックすれば拡大します)

 


プラチンブリの風 第5章

2009年12月12日 | プラチンブリの風

Dec6_00a

プラチンブリの風 (第5章) LONG LIVE THE KING  By Harry H.

 12月5日は、プミポン国王の82歳の誕生日である。今年は例年と違うのは、国王が9月19日に疲れ・食欲不振・発熱のため、2カ月近く入院している状況下にあることである。例年行われていた幾つかの行事は中止となった。

Dec6_010a 今回の誕生日には、健康が大分回復したこともあり、国王は病院(SIRIRAJ HOSPITAL)から王宮(GRAND PALACE)まで出向いて、王族・国会議員に謁見し、言葉を述べられた。国王が、11月2日のLOY KRATHONG(タイ式灯篭流し)のとき以来、久しぶりに公の場に現れたことで、国民は例年以上に国王に対する敬愛の念を強く抱く結果となった。

 国王が述べられたメッセージは、以下のような内容であるが、アピシット首相は、このメッセージを国民の今後の指針とすべく、各メディアに対し、国民に伝えるべく要請している。

My happiness and goodness will be preserved if our nation has prosperity, normalcy and stability. You all have an important duty for the country and all Thai people must understand their duty clearly and have in mind firmly to do their duty to the best of their ability for the public benefit and to help develop the country. I ask all of you here who hold important positions in key institutions and all Thais to thoroughly understand their duty and do their best for the public interest for the sake of our country’s prosperity.”

 

 

Kings_birthday_03a 5日の夜は、バンコクのSANAM LUANG広場に、大勢のタイ国民が集まり、盛大な祝賀会が催され、テレビでも中継された。6日付けのバンコク・ポスト紙には、その模様が、大紙面を割いて掲載されていた。全国各地でも同様な催しが開催された。

 

 例年であれば、国民は国王の色である“黄色”のT-SHIRTを着て参列するのが一般的であるが、今年は、黄色に交じってピンク色のT-SHIRTも目立った。聞くところによると、現在の政局は、タクシン派(赤色)と現政権(黄色)との対決姿勢が強く緊張が高まっていることから、“黄色”を避けて、ピンク色にしたと言われている。〆 (12月6日記)

 

 


プラチンブリの風 第4章

2009年11月22日 | プラチンブリの風

 

プラチンブリの風 (第4章) タイの結婚式 By Harry H.

Amonkonsan_03jpg10月後半、HARRYが日本語クラスを受け持っているS社のタイ人社員Mさんの結婚式に招待された。彼の実家SIMAHAPHOT(シーマハポート)のすぐ隣町のKABINBURI(カビンブリ)だが、式は新婦の実家のあるYASOTHON(ヤソトーン)で行われた。YASOTHONSIMAHAPHOT化ら北東に約450Kmとかなり遠い。

 

 

朝7時に彼がHARRYのアパートに迎えに来てくれ彼の実家に向かう。8時には親戚・友人が揃って出発という予定であったが、ここは“タイ”8時と言っても、1-2時間の遅れは当たり前。一時間半遅れの9時30分にやっと全員が揃い、乗用車2台、小型VAN2台の計4台、総勢40-50名で出発した。

タイの一般道は、郊外は空いているので、日本の高速と同じで、車は100-110Kmで走る。途中、スピード違反で、警察官に詰問されるも、警察官にお金(100バーツ≒300円)をそっと渡すとすんなり解放される。ちょっと、日本では通用しない交通違反簡易処理システムである。対向車がライトをフラッシングして、ねずみ採りを知らせるのは日本と同じだ。

Amonkonsan_04jpg現地には、午後5時過ぎに到着してすぐに、新婦の実家のすぐ隣の広場の前夜祭会場へ。椅子が数十個と舞台が用意してある。大きなスピーカーからは、大音響で音楽が流れている。新Amonkonsan_05jpg婦の家族・親戚また近所のおばさんたちが用意してくれた食事を,両家の親戚・知人の皆さんと一緒に頂く。午後7時からは、歌謡ショー。セミプロであろう、男性1人と女性4人のグループが、舞台にあがって、カラオケに合わせて、歌と踊り。会場に来ている人達も、自分のリクエストを書いて、カラオケで歌う。食事をしたり、お酒を飲んだりしながら、遅くまで続いた前夜祭である。

翌日の式当日、朝7時にホテルを出て、式が執り行われる新婦の家に向かう。朝の7時過ぎだというのに、前夜祭で使った広場では、スピーカーから音楽が流れている。結婚通知を貰った近所の人たちが、大人も子供も、封筒にお祝いのお金(100~200 BAHT)を包んで式場の受付に持ってくる。受付の人は、お返しに豚肉(生)の包みを渡す。なぜ、豚肉なのかはわからない。

Amonkonsan_06jpg_2午前7時半から、前夜祭の会場で、お粥の朝食。やはり、近所の人たちが、食事の準備の応援に来てくれている。8時から、14-15人からなるプロの音楽隊を引き連れて、Amonkonsan_07jpg_2新郎は、新婦の家の周りを30分ほど、練り歩く。近所への挨拶周りということであろう。この音楽隊がなんともHARRYには興味深かった。エレキ・ギターが一人で、後はみな打楽器である。ギターは、タイの民族楽器なのであろうか、3弦のダブル・ネックになっていて、単純なリフのメロディーを弾く。それに打楽器がリズムを刻む。

Amonkonsan_08jpg 8時30分、新郎を新婦の家に迎え入れる。二人とも、タイの正装である。居間には、親戚・縁者が数十人集まり、町の長老らしき人物の司会で、式が始まる。お坊さんを呼んでやるのが一般的のようであるが、二人は簡易式にしたようだ。中に入れない人のため、司会者はマイAmonkonsan_09jpg クを使って、外に居る人に、式の進行状況がわかるようにしてある。HARRYは、カメラを持って中に入る。タイ語が、まったくわからないHARRYは、動作からしか意味を解するしかないが、長老が長々と祝の言葉を述べた後、①指輪の交換 ②新郎から新婦への貢物として、現金20万BAHTAmonkonsan_10jpg (≒60万円)と、金のブローチ(25万BAHT)が差し出され、参列者に公開される ③長老が、聖水を二人に注ぎ、白い糸を二人の前腕に巻いて、祝福する ④参列者も、順番に、二人の腕に白い糸を巻いて、二人を祝う ⑤二人から、参列者に、引き出物(膝当て)が渡される ⑥会計係から、集まったお祝い金の集計結果が報告 ⑦参列者との記念写真・・・といった内容で、午前10時過ぎに、無事に式が終わる。

HARRYは、三年前シーラチャに居る時、タイ人の結婚披露宴に出席したことがあるが、それは、一般的な中華料理の会食パーティで、特段珍しいものではなかった。今回は、初めてタイ式の結婚式に参列でき、貴重な異文化経験をすることができた。

 


プラチンブリの風 第3章

2009年11月05日 | プラチンブリの風

Aloy_krathong

プラチンブリの風 (第3章) LOY KRATHONG  By Harry H.

陰暦12月の満月の夜、水の女神(コンカ―)に祈りをささげ、バナナの葉でつくったKRATHONGを川に流し、自らの罪を洗い流し、身を清めるお祭りで、今年は11月2日(月曜日)にあたる。丁度、雨季から乾季への変わり目でもある。

Aloy_krathong_002 川に流すKRATHONGのほかに、チェンマイのような北部では、昔から、コム・ファーイ(KHOM -FAI)と呼ばれる気球のようなもの(FLOATING LANTERN)を空に飛ばす習慣もある。最近では、バンコクのような都会部でも、コム・ファーイを飛ばすことが流行ってきているが、都会部では火事などの事件が、あちこちに起きており、問題となってきている。チェンマイでは、コム・ファーイの大きさ・飛ばす場所を規制しているが、バンコクには、かかる規制がなく、当局は、規制が必要と考えている。

Loy_krathong_0514月の“水かけ祭り”(ソンクラン)は、一週間にもわたるお祭りで、海外からの観光客も期待できるが、このLOY KRATHONGは、祝日でもなく、また、一日限りのお祭りでもあり、海外からの客は少なく、更に、このところの厳しい経済情勢も影響して、バンコクのホテルの予約状況も例年より低かったのこと。

 

 

ただ、今年のLOY KRATHONGが例年と異なるのは、政府が国民に、“国王の健康を祈るように“と呼びかけていた点だ。国王は、健康を害して、病院に入院しているが、KRATHONGの当日、病院ではパンで作ったKRATHONGの蝋燭に火をつける行事に姿を現し、国民をほっとさせた。

Aloy_krathong_018_2夜の8時ころ隣町のKABINBURIのお寺に着くと、境内では、KRATHONG売り場(30~100BAHT)や露天(お菓子屋、ラーメン等)は人で賑わい、広場ではタイの昔のダンスをみんなで輪になって踊っている。その隣では、BEAUTY CONTESTが。その地区の村や町から選ばれた地区代表が、10数人集まっての女王決定のCONTESTあり、また、抽選会ありと、本当に一般庶民のお祭りであることを感ずる。そして、おもむろに川に降りて、KRATHONGを川に流す。この日は、風が強く、蝋燭に火をつけるのに、人々は苦労していた。HARRYも初めてKRATHONGを川に流した。

(追記)LOY KRATHONGの翌日(3日)、ここシーマハポートのホテルで、LOY KRATHONG FESTIVALが開催された。ここでも、BEAUTY CONTESTが行Nov3_012_2 われ、HARRYのいるTHE RESIDENCEも代表を送り込んだ。夜、HARRYAがアパートのロビーで新聞を読んでいると、THE RESIDENCEの代表がCONTESTから帰って来た。結果を聞くと、優勝したと。優勝賞金が500BAHT(≒1500円)と聞き、その金額の低さに驚いた。しかし、THE RESIDENCEにとっては、効果的な宣伝が出来たことになる。 

 

 

 


プラチンブリの風 第2章

2009年11月01日 | プラチンブリの風

0ct8_014a

プラチンブリの風 (第2章) 日本語教育 By Harry H.

HARRYは50歳になったころから、第二の人生として、社会への(小さな)貢献をと考え、地元の国際交流協会で日本語ボランティアを始めた。そして、この活動を海外でもやってみたいと考え、①2002年には、アメリカの大学 ②2004年には、ルーマニアの文化センター ③2006年にはタイ(シーラチャ)で活動してきた。

3年ぶりのタイは、たまたま前回と同じ国になったが、やはり、日本語教育つながり0ct8_009a で、プラチンブリ県シーマハポートにある304工業団地内の日系企業S社における日本語講師である。その企業は、毎年日本の本社工場に研修生を数名派遣しており、その研修生の日本語教育である。日本での研修が、全て日本語で行われることから、事前の日本語能力習得が、必須になってくる。S社としては、日本に研修に出る研修生の一つの基準として、日本語能力試験3級レベルを設定している。3級というと、日本語学習時間としては300時間、語彙数1500、漢字300語が要求される。

この派遣研修生の日本語教育が、主なる任務であるが、これ以外にも、いくつかの日本語クラスを担当している。

 

  NIGHT CLASS(初心者):日本語に関心を持っているタイ人社員の日本語クラスで、会社の勤務時間が終わった、午後5時過ぎからスタートする。日中仕事で働いた後のクラスなので、出席率は決してよいとは言えず、また日時が経つと、漸減してくるのが常である。

  NIGHT CLASS(経験者):初心者のNIGHT CLASSで学んだ社員で、更に続けて勉強したいという社員に対するクラスで、人数は少ないが、知的好奇心の強い社員たちだ。

304market_017a_2  COMMERCIAL SCHOOL:日本でも企業の社会貢献という活動が盛んであるが、S社も、プラチンブリ県内の専門学校へ、日本語講師を派遣して日本語クラスを、無償で提供している。この学校は、コンピューター・会計などの専門学校で、日本語は選択科目の位置づけである。HARRYのアパートからは、車で30分ほどのところにある。週一回のクラスで、生徒は30名前後で、女生徒が殆どで男子生徒は、1-2人と少ない。

  MAN-TO-MANコース:通常は、派遣研修者と一緒に日本語を受講するのであるが、来年日本の本社工場に研修に行くことが決まっている社員は、社内事情で、そのクラスに参加できず、特別にMAN-TO-MANで対応することになった。2009年10月中旬から始まり、2010年3月日本に発つまでの5カ月前後の期間の特別クラスである。

写真は NIGHT CLASS の授業風景、右上は304工業団地の入り口 (10月30日記)