私説三国志 天の華・地の風 完全版〈10〉 (fukkan.com)江森 備ブッキング |
と、いうわけで自分でもすっかり忘れていたが、天の華・地の風、最終話の感想。
前回の感想で「記憶がいい加減すぎ」というツッコミをもらったので、あらすじを調べなおしてみた。同人誌で。そしたら本当にいい加減すぎて、自分の記憶力にビックリしたね。
まあ、それはいいとして。
南蛮征伐の後から、五丈原における孔明の破滅を描くのがこの最終章。
このくだりは、一言でいえば孔明が魔から人へと戻る章だ。
そして人へと戻ったがゆえにこそ、孔明は破滅することになる。
正直な話をいえば、この最終章は無駄に長い。
四冊あるが、二冊が妥当な長さだろう。
というか、孔明のギシアンページが多すぎるし、史実の説明が無駄に丁寧で鬱陶しい面も強い。
が、それを耐える価値は確実にあるる
まず面白いのが、六巻以降、孔明はほとんど知謀を見せることはない。
後継者である姜維を見出し育て、恋人である魏延とは心を通じ合わせ、長い年月をかけてゆるやかに安寧を得ていく。そうすることと並行して、孔明の鬼謀はなりをひそめていく。
彼の才は愛憎の果てにのみ発現する能力であり、彼の知謀は彼の苦しみ、あがきの副産物でしかないのだ。この段にいたって、読者はようやくそのことに気づいていく。
すごいと思ったのは、この辺りに出てくる徐庶の台詞。
というか徐庶のあつかい自体がけっこうすごいんだが、この作品は。
三国志演義では劉備の最初の軍師であり、母を人質にとられて曹操のもとに下った孝の人として有名だが、本作ではもちろんまるでちがう。
孔明より魏での諜報活動を任じられたスパイにして、同時に孔明の命を狙う異民族の暗殺集団「赤眉」のリーダー、それが今作での徐庶だ。
冷静に考えれば、たしかに徐庶の去就というのは胡散くさいことこのうえないのだが、それを二重スパイにまで仕立て上げるってのが、なんというかよくやるわー。
で、その徐庶が、曹丕だか司馬懿だかに孔明の才をたずねられてこう答える。
「己の地位を守ることだけに必死な凡人の俗物だが、数年に一度神がかる」(意訳)
これは嫉妬やらの複雑な感情が入りまじった末での言葉であろうが、しかしここで読者はハタと気づくわけだ。
たしかに。たしかに数年に一度神がかるだけで、普段はくだらない政敵つぶしやってるだけの俗物で凡人だ、と。
元からある孔明のイメージと文章の流麗さ・展開の巧みさで、神に選ばれた天才そのものにしか見えなかった孔明が、この一文によって作者自らの手で俗物だと暴かれる。
(ところでいま気づいたが、これ云ったの徐庶じゃなかったかもw まあいいや)
いままで数年かけて築き上げてきた孔明のイメージを自ら崩すその所業には恐れ入る。
この孔明の虚飾に、多くの人間が気づいていくのが最終章だ。
そして孔明もまた、己の矮小さを受け入れていき、その果てに破滅がある。
愛するがゆえに奪われたいと願い、しかし奪われれば殺さずにいられないという孔明の屈折した性の最大の理解者にして被害者は、もちろん魏延だ。
脅迫という形で孔明を繋ぎとめ、愛ではなく利害の一致による関係であることを建前としていた魏延だが、実際はそういう「仕方ない」という態をとらせないと、短絡的に殺すか殺されるかという話になってしまう孔明の歪みきった性格にあわせていただけで、実体は単なるいい旦那さまだった。
そんな魏延が面白おかしいのが歳とって勃たなくなってしまうこと。
普通は「歳だし疲れてるんだからしょうがない」で済むのだが、孔明とは肉体目当てで付き合っていることになっているため、勃たないのに執着してたらおかしな話に。
かといって「好きだから」とぶっちゃけたら孔明は殺すの殺さないの云いだすし……で、困った魏延はこっそりと自分のナニとまったく同じ大きさの道具を特注で用意して、それでやってるふりをするという。
そして速攻でばれるという。
ばれたらばれたで部下と3Pしてごまかしたり自分は参加してるふりだけになったり。
アホかこいつは。
そんな魏延さんの疲れに気づいた孔明は、無理矢理やられているという態を捨てて、自分からしゃぶってあげるのでした。で、そんな孔明さんに激萌えした魏延は一瞬でEDが治って、二人はいままで以上に激しく夜の仕事に精を出すのでした。
そんないっちゃらいっちゃらしたシーンがとても多いです、この最終章。
ラブラブいちゃいちゃが好きな人にはたまりませんね。
読んでて頭がフットーしそうになるので、おれは適度に読み飛ばしたんですけどね!
つうか、6~9巻の間のほとんど、孔明さんはエッチしかしてないです。
で、孔明の周りの人間を描くことによって、孔明のそれまでの人生を総括しつつ、いろいろな葛藤から解放されて人がましくなった孔明さんの破滅を描いていくわけです。
その中でやたらとページ数を取っているのが、最大の宿敵たる司馬仲達が孔明の調査をするくだり。
董卓の慰み者であった時代から探り、孔明の半生を知っていく仲達は、次第に孔明に同情的になっていく。
というのも、仲達の息子もまたホモで、仲達は「おれが父としてもっと周囲の人間に気をつけていればこいつはホモにならなかったし、うちの家も安泰だったのに……」という忸怩たる思いを抱えていたのでした。
息子がホモで悩む独立を考えている中年、という、そんなものを丁寧に描写してどうしたいんだってくらい、この辺の司馬懿の描写は丁寧だ。
そして最終的に、蜀の内部で孤立するはめになる孔明に救いの手を伸ばすのは皮肉にもこの司馬懿だけなのだ。
三国志でも屈指の「いいとこだけ持っていくいけすかない野郎」司馬懿を「苦労人のいい人」にするあたり、本当に江森はひねくれている。
ひねくれているといえば姜維の扱いもだ。
孔明に見出され、その後継ぎとして育てられるのは従来の三国志通りだが、その実、暗殺集団「赤眉」の刺客であり、孔明の監視者であるというのが姜維の設定だ。
しかし任務とはべつに姜維は孔明に惹かれており、ついでに孔明の私生児にも惚れていて、孔明殺すほどでもないんじゃないかなあ、という気持ちになっていた。
が、結局最後の引き金をひくことになったのはこの姜維。
ではなぜそんな風に吹っ切れたのかというと……
孔明と魏延のエッチを見て「孔明がおれかわいがってるのってそういうこと!? こ、このままじゃおれも掘られる!とパニクって思わずやっちゃったのであった。
この「ホモにだって好みはあるだろ」とか「そもそも孔明は受けだから掘らないだろ」とか、いろいろツッコミたくなる姜維のアホっぷりは、しかし現実世界で知り合いがホモだと知ると途端に貞操の危機を感じるノンケのようで、ありがちだ。
なのでこの暴走も「アホか」と思いつつ「男ってこうだよね」という気持ちにさせてくれる。
特に姜維は周瑜に顔が似ているという設定のため「あのプライド過剰なアホと同じ顔してるなら、そういう暴走もするか」と納得してしまうのであった。
こうして家庭の安定すると同時にただの人に成り下がった孔明は、内部の政敵に追いつめられ、五丈原において、だれがどう見ても毒入りとしか思えない杯をすすめられるはめに。
江森備のすごいところは、この段にいたってなお、孔明の心理を描写しようとはせず、かれがなにを考えているのかわからぬままに、あっという間もなく毒を飲み干させているところだ。
全九巻にもわたり、十年近くの歳月をかけて紡いできた主人公の最後の気持ちを、敢えてまったく語らない。
この断固たる意思こそが、江森備の物語作家としての最大の力だろう。
普通なら、どうしたってお涙頂戴の独白を入れたくなる。
台詞でなくとも孔明の心理を思わせる描写をいくつも入れたくなる。
しかし江森はあくまでもさりげなく、あくまでも一思いに孔明に毒を飲ませた。
権勢欲の魔であったかつての彼ならば、まず飲むことのなかったであろう毒を、無言で受け入れる。それだけで十分であると彼女は考えたのだろう。
そう、この長い物語につきあってくれた読者を信じるならば、それだけでいいのだ。それで正しいのだ。それだけでわかってくれるのだ。
かつて今作の第1話が中島梓の小説道場に投稿された際、道場主は孔明に逃げられた周瑜のわずか一行の描写を「万言に勝る」と激賞した。
はじめに認められた彼女の特性は、物語の最後でより強力になり生かされた。
不粋に語られないからこそ、孔明は最後まで孔明のままであった。
毒により知能を廃人となった孔明を連れて魏延は逃げる。
初対面で「こいつ裏切るからね。絶対に裏切るよ」と孔明に云われまくりながら、孔明が死んだらほんとに裏切ったという上島竜平のような生き様でのみ知られていた魏延を、孔明の相手としてクローズアップしたのは、この「孔明の死体をもって逃げる」という史実
よってだろう。
あまりにも見事に史実と空想はつながり、この私説三国志は鮮やかに幕を閉じる。
だれも救うことなく、だれも報われることなく、ただ歴史を語り終え、物語は終わる。
そこにあるのは喜劇ではない。だが悲劇でもない。無常感ですらない。
すべてを内包した「物語」という化け物だ。
かくあるものがかくあるよにうしてかくあるべき場所におさまる。
それこそが、物語であるのだ。
すべでか終わったとき、読者の脳裏には輝く黄金の翼のきらめきだけが残される。
それで、いいのだ。それだけで、いいのだ。
三国志に入門したいなら、まず横山光輝の三国志を読むといい。読みやすいしわかりやすい。。
もっと知りたいなら、次は吉川英治の三国志で基本を抑えるべきだ。
そしたら次はもう江森三国志を読め。
男くさい浪漫の世界はいらん。江森三国志によって、三国志という物語の見方を変換させるべきなのだ。
断言する。
面白い三国志、珍妙な三国志作品はたくさんあるだろう。
だが今作品ほど、奇想と史観を両立させた三国志は、他にない。
JUNE作品としても三国志作品としても、間違いなく金字塔である。
えっと、ちなみにここまで褒めといてなんですが。
個人的にはもうちょっと雑で勢いのある書き方した作品の方が、好きではあるんだよねw
だからうな印がついていないという。
あとまあ、孔明さんの性格っていうのは結局「女の業」としか云いようのないもので、やっぱり男としてはその辺がいまいち理解は出来ても共感できねーなー、というのが率直な気持ちだった。
いやまあ、好みの問題ですよね、結局はw
押すと死んだ後、生首でリフティングされます
結局3~4巻あたりで脱落してしまったんですが、その後、こんな展開になっていたとは知りませんでした。江森女史が(師匠とは違い)、立派にストーリーと世界を完結させたと知り、思わず感動してしまいました。
実はわたくし、三国志については、人形劇三国志→吉川英治→江森というルートを辿ったのですが、横光の代替が人形劇(見やすいしわかりやすいという意味において)と考えれば、まさにうなさんオススメのルートを辿っておりました。
実際にこのルートを辿った者として思うのは、間違いなく、このルートが一番「三国志」を理解できるルートなんじゃないかと思います。「男くさい浪漫の世界」が、実はどれもこれも「独自のキャラクターを構築できなくなった老残の男性作家が、自分のかつての売れ筋路線の世界観に、既存の人気人物を混ぜて作っただけの、売れればいいだけの作品」に堕しているのに対し、江森女史は彼女だけの世界観を築き上げ、しかも奇想と史観を両立させていると、私も思います。三国志に惚れ込んで、さんざん「男臭い浪漫」を見たから思うけど、ほんとどれもこれも「要はオリキャラが創れなくなったから三国志に手を出したんでしょ?」という出来で、ほとほと嫌になります……。
しかし、いわゆる「男くさい浪漫の世界」の正体が、「オリキャラ書けなくなったから売れ筋ネタ(三国志)に手を出した」と見破れたのは、あの江森女史の世界に出会い、物語の見方を変換させてありあまる強烈さ、そして卓越した文章の上手さを知ったからだと思います。で、それに気付いたのは、うなさんの感想文のおかげです。ありがとうございます。
……それじゃあこの江森三国志を他の人に迷い無く勧められるかと言われると、ちょっとそれはためらってしまうところが、この作品の唯一の短所なんですが、その短所こそがこの作品の強烈なパワーの源(つまり最大の長所)なんだよなあ……。
そっすねー、基本としては人形劇もいいよね。クオリティも評判も高い。
ただDVD化されているとはいえ、あまり見つからないのが難。
三国志作品は多いし、面白いものも多いけど、奇想と史観を満たした「私説」の冠に足る作品はほんとに江森三国志くらいしかないんじゃないかと思うね。
なので、いまからでも遅くはないから五巻以降を読むべきだと思うね! 是非そう思うね! もったいないね!