長篇SF。
すこし長くなるので、余談から。
カバー及びイラストは佐藤道明氏。かれのイラストはSFマガジン系の小説でいくつかカバーやイラストを見るだけなのだが、神林長平の名作「プリズム」のイラストを手がけて以来、気にいっている人だ。
もちろんうまいのは確かだが、さして美麗とも超絶技巧ともセンスがあるとも思わないのだが、なんというのだろうか、かれのイラストの生み出す空気感が、なんというか私の好きなSF観ととてもしっくり来るのだ。未来であり、機械であり、寂しげであり、どこか白茶けていて、ぼやけており、謎めいており、怠惰であり、奇妙な女がいて、表情がない。
このメディア9のカバーもなかなか好きだ。
ただ、一言だけ云わせてくれ。
だれだよこの寝そべっている女。出てないだろこんなキャラ。
ちなみに、気になって、佐藤氏がなにをやっているんだろうと思ってたったいま調べたら、マクロスの川森正治が所属する会社の社長らしい(ぐぐってみただけなので、同姓同名の別人だったらスマンとしか云いようがない。というよりも、もし違うとして、佐藤氏の詳細を教えてもらえるなら、こんなに嬉しいことはない)で、その会社の最新作が剣聖のアクエリオン。
なんかこう、いろんな意味で「待った!」と云いたい。「異議あり!」でもいい。なんでこうなるんだろうか? まあ経営は別問題だからなあ、と無理に納得する。
さて、余談は終え、本題にうつろう。
おどろいた。
この話、十年以上前に一度読んだきりで、その時に「イマイチ」という評価をくだして以来、一度も読み返してもいなければ思い出しもしなかったため、巨大宇宙船の帰還にともなう騒動、という基本設定はおぼえていたのだが、ストーリー自体はまったくおぼえていなかったので、今回、この感想のために頭からしっぽまで完全に読み直した。
感動した。
なんでこの作品のことをすっかり忘れていたのか。そのことにおどろいた。
なんとさわやかで、なんと美しく、なんと青臭い物語なのだろうか!
そう、この青臭さ。人に読ませるだけのテクニックを持った人間となってしまうと、なかなかにこの青臭さを持ちつづけ、それを人に見せようなどという気になれはしないだろう。青臭さとは未熟の証だからだ。しかし、成熟した技術を持って未熟を表現できるのならば、これほど素晴らしいことはない。
改めてあらすじを紹介する。
はるか未来の地球――文明は成熟しきり、生と性は管理され、自らでは新たなるものを生み出すことの出来なくなった停滞しきった人類は、変わりばえのしない日常の中、変革をもちこむ唯一の存在である宇宙船の帰還だけを心待ちにしていた。
主人公であるリンもまた、その一人であり、彼には宇宙船メディア9の帰還を待ち望む特別な理由もあった。メディア9のスペースマン(宇宙飛行士)は彼の父なのだ。
長い旅の果て、十年ぶりにメディア9は帰還した。熱狂してかれらを迎え入れる人々。だが、宇宙港にとどまったメディア9は、決してその扉を開くことはなかった――
メディア9の真意をめぐるミステリー。親と子の愛。一人の青年の成長。伴侶との出会い。テロリストとのアクション。生き方を違えた人同士の確執。そして生命の進化……さまざまな要素がつめこまれたこの物語は、しかしオリジナリティーがあるとは云いがたい。なにせ解説にすらその類のことが書いてある。
ありていに云って、元ネタを指摘することもできる。冒頭はブラッドベリ(ウは宇宙船のウ)であり、中盤はハインライン(夏への扉)で、オチは小松左京(神への長い道)であろう。正直ハインラインは読んだことないので自信がないが、ブラッドベリと小松左京はまちがいあるまい。
要するに、悪くいえば、これら名作のパクリ、二番煎じにしか過ぎない。だが、だ。
だが、書けるか? ほかにいるか? ブラッドベリの詩情とハインラインの闘争と左京のSF哲学と、そのすべてを一つの作品にまとめることができるものが、どれほどいるというのか? そしてこの作品はかの巨匠たちの作品のいずれよりも未熟で青臭く、希望と愛に満ちている。ついでに云えば、格段に読みやすい。
たしかに栗本薫はオリジナリティに欠ける作家かもしれない。だが、この作品ならば彼女にはかの大デュマのように告げる権利があるたろう。「確かにパクッた。だが私の方が面白い」と。
読みながら二度、背筋をはしるものがあり、また二度、涙腺が震えた。そのいずれもが、なにも新しいところのない展開であり、キャラクターであり、台詞であった。
母シーラの親としての愛と女としての愛。恋人ヴァイの、強いからこそ待つという選択。苦しみに満ちた二十年に「後悔はない」と云いきるエリザベートの潔さ。老ゼノの洞察と優しさ。父ロイの信頼深きただ一言「了解」。主人公リンの若さ、あおさ。そのすべて。
そこには愛があった。ならばこれは、一葉のラブレターなのだ。一人の少女が、SFという名の相手に贈った、万感の思いなのだ。
私は愛する。すべてはよく、すべては正しいのだ。愚考も悲哀も残酷さも償われざる罪も、
すべては正しい。そして私がここにいるのだ――私の父よ、母よ、
愛するものたちよ、故郷の土よ、海よ、同胞よ――私はおまえたちをすててゆく。
そして私の足が私の前にさし出された愛をふみつけて通りすぎる刹那にも、
私はそれらを全身全霊のすべてをかけて愛してやまないだろう。
すべてはあるようにあるのだ。かく在り、かく在らしめよ――私はもう迷わない。
そして同時にわれら次代に向けたメッセージでもある。恐れるな。すすめ、変われ、あるようにあれ。なぜなら君もまた人間であるのだから、と。
もし、完成度や新しさをもってはかるのならば、この作品は決して優れていない。ゆえに、傑作とも名作とも云うことはできない。だが、これはいい作品だ。とても、とてもいい作品だ。
この栗本薫全著作感想文をはじめてよかったと思う。未成熟な感性によって看過するところであったこの作品を、再認識させてくれた。面白さよりも、新しさよりも、感動よりも、ただ深く、希望を感じた。ああ、なるほど、私はこの希望を愛する。あやふやな形なき理想論のあおさを愛する。
ただ、愛する。
すこし長くなるので、余談から。
カバー及びイラストは佐藤道明氏。かれのイラストはSFマガジン系の小説でいくつかカバーやイラストを見るだけなのだが、神林長平の名作「プリズム」のイラストを手がけて以来、気にいっている人だ。
もちろんうまいのは確かだが、さして美麗とも超絶技巧ともセンスがあるとも思わないのだが、なんというのだろうか、かれのイラストの生み出す空気感が、なんというか私の好きなSF観ととてもしっくり来るのだ。未来であり、機械であり、寂しげであり、どこか白茶けていて、ぼやけており、謎めいており、怠惰であり、奇妙な女がいて、表情がない。
このメディア9のカバーもなかなか好きだ。
ただ、一言だけ云わせてくれ。
だれだよこの寝そべっている女。出てないだろこんなキャラ。
ちなみに、気になって、佐藤氏がなにをやっているんだろうと思ってたったいま調べたら、マクロスの川森正治が所属する会社の社長らしい(ぐぐってみただけなので、同姓同名の別人だったらスマンとしか云いようがない。というよりも、もし違うとして、佐藤氏の詳細を教えてもらえるなら、こんなに嬉しいことはない)で、その会社の最新作が剣聖のアクエリオン。
なんかこう、いろんな意味で「待った!」と云いたい。「異議あり!」でもいい。なんでこうなるんだろうか? まあ経営は別問題だからなあ、と無理に納得する。
さて、余談は終え、本題にうつろう。
おどろいた。
この話、十年以上前に一度読んだきりで、その時に「イマイチ」という評価をくだして以来、一度も読み返してもいなければ思い出しもしなかったため、巨大宇宙船の帰還にともなう騒動、という基本設定はおぼえていたのだが、ストーリー自体はまったくおぼえていなかったので、今回、この感想のために頭からしっぽまで完全に読み直した。
感動した。
なんでこの作品のことをすっかり忘れていたのか。そのことにおどろいた。
なんとさわやかで、なんと美しく、なんと青臭い物語なのだろうか!
そう、この青臭さ。人に読ませるだけのテクニックを持った人間となってしまうと、なかなかにこの青臭さを持ちつづけ、それを人に見せようなどという気になれはしないだろう。青臭さとは未熟の証だからだ。しかし、成熟した技術を持って未熟を表現できるのならば、これほど素晴らしいことはない。
改めてあらすじを紹介する。
はるか未来の地球――文明は成熟しきり、生と性は管理され、自らでは新たなるものを生み出すことの出来なくなった停滞しきった人類は、変わりばえのしない日常の中、変革をもちこむ唯一の存在である宇宙船の帰還だけを心待ちにしていた。
主人公であるリンもまた、その一人であり、彼には宇宙船メディア9の帰還を待ち望む特別な理由もあった。メディア9のスペースマン(宇宙飛行士)は彼の父なのだ。
長い旅の果て、十年ぶりにメディア9は帰還した。熱狂してかれらを迎え入れる人々。だが、宇宙港にとどまったメディア9は、決してその扉を開くことはなかった――
メディア9の真意をめぐるミステリー。親と子の愛。一人の青年の成長。伴侶との出会い。テロリストとのアクション。生き方を違えた人同士の確執。そして生命の進化……さまざまな要素がつめこまれたこの物語は、しかしオリジナリティーがあるとは云いがたい。なにせ解説にすらその類のことが書いてある。
ありていに云って、元ネタを指摘することもできる。冒頭はブラッドベリ(ウは宇宙船のウ)であり、中盤はハインライン(夏への扉)で、オチは小松左京(神への長い道)であろう。正直ハインラインは読んだことないので自信がないが、ブラッドベリと小松左京はまちがいあるまい。
要するに、悪くいえば、これら名作のパクリ、二番煎じにしか過ぎない。だが、だ。
だが、書けるか? ほかにいるか? ブラッドベリの詩情とハインラインの闘争と左京のSF哲学と、そのすべてを一つの作品にまとめることができるものが、どれほどいるというのか? そしてこの作品はかの巨匠たちの作品のいずれよりも未熟で青臭く、希望と愛に満ちている。ついでに云えば、格段に読みやすい。
たしかに栗本薫はオリジナリティに欠ける作家かもしれない。だが、この作品ならば彼女にはかの大デュマのように告げる権利があるたろう。「確かにパクッた。だが私の方が面白い」と。
読みながら二度、背筋をはしるものがあり、また二度、涙腺が震えた。そのいずれもが、なにも新しいところのない展開であり、キャラクターであり、台詞であった。
母シーラの親としての愛と女としての愛。恋人ヴァイの、強いからこそ待つという選択。苦しみに満ちた二十年に「後悔はない」と云いきるエリザベートの潔さ。老ゼノの洞察と優しさ。父ロイの信頼深きただ一言「了解」。主人公リンの若さ、あおさ。そのすべて。
そこには愛があった。ならばこれは、一葉のラブレターなのだ。一人の少女が、SFという名の相手に贈った、万感の思いなのだ。
私は愛する。すべてはよく、すべては正しいのだ。愚考も悲哀も残酷さも償われざる罪も、
すべては正しい。そして私がここにいるのだ――私の父よ、母よ、
愛するものたちよ、故郷の土よ、海よ、同胞よ――私はおまえたちをすててゆく。
そして私の足が私の前にさし出された愛をふみつけて通りすぎる刹那にも、
私はそれらを全身全霊のすべてをかけて愛してやまないだろう。
すべてはあるようにあるのだ。かく在り、かく在らしめよ――私はもう迷わない。
そして同時にわれら次代に向けたメッセージでもある。恐れるな。すすめ、変われ、あるようにあれ。なぜなら君もまた人間であるのだから、と。
もし、完成度や新しさをもってはかるのならば、この作品は決して優れていない。ゆえに、傑作とも名作とも云うことはできない。だが、これはいい作品だ。とても、とてもいい作品だ。
この栗本薫全著作感想文をはじめてよかったと思う。未成熟な感性によって看過するところであったこの作品を、再認識させてくれた。面白さよりも、新しさよりも、感動よりも、ただ深く、希望を感じた。ああ、なるほど、私はこの希望を愛する。あやふやな形なき理想論のあおさを愛する。
ただ、愛する。
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