カンパのお願い
5月30日に結審があります。
徳永弁護士も手弁当で支援して下さっていますが、
打ち合わせ等をするにも交通費等の出費を無視できません。
カンパは支援している三善会にお願いします。
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ゆうちょ銀行からの振込の場合
【金融機関】 ゆうちょ銀行
【口座番号】 記号:17010 口座番号:10347971
【名 義】 サンゼンカイ
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ゆうちょ銀行以外の金融機関からの振込の場合
【金融機関】 ゆうちょ銀行
【店 名】 七〇八(読み:ナナゼロハチ)
【店 番】 708
【口座番号】 普通:1034797
【名 義】 サンゼンカイ
~轟の壕編~ 8
大塚軍曹ら十四、五人の日本軍部隊は、知事ら県庁首脳部が轟の壕を去ると、直ちに、残っていた県庁職員、警察部職員、避難民ら全員を下流(西側)のジメジメした一帯に追い立て、自分たちは開口部の上流(東側)の乾燥地帯の居心鮑のよい場所を占拠した。そこは隈崎が知事のために用意した「知事席」だった場所だ。そして自分たち兵士と民間人のいる場所の境に石や木材を積んで境界を定めていた。まさに暴力団の言う「シマ(※注)」を設定したのだ。(※注 シマとは本来は仏教語で、梵語に起源する。境界、あるいは領域を意味し、ウチナー口のシマもこの仏教語に由来する)。
その後、大塚部隊は壕の開口部に見張りを立て、壕の中の誰も外へ出られないようにしたのだ。敵に通報するスパイがいるやもしれぬ、というのがその理由だった。ここから地獄の惨状が始まった。
六月十八日の午後、アメリカ軍の馬乗り攻撃が始まった。馬乗り攻撃とは壕の上にドリルで穴を開け、爆薬を仕掛け、出口を封鎖し、壕内の日本兵や住民を生き埋めにする荒っぽいが効果的なアメリカ軍の戦法だった。生き残った八原博道高級参謀も証言しているが、馬乗り攻撃は日本軍が最も恐れた戦法の一つだった。だが、巨大な口を天に向かって開いているような轟の壕は普通の馬乗り攻撃では攻略できなかった。
この壕を封鎖したのはアメリカ第6海兵師団の第22連隊だった。初め、海兵隊員は小銃や小型爆弾で巨大な口の奥の小さな開口部に向かって攻撃していたが、壕の入り口は岩盤が扇のようになって弾丸を遮断し、弾は壕内に届かなかった。三日ほどして開口部の岩盤が爆破されて、大穴が開いた。海兵隊員の投げる手榴弾が壕内で炸裂するようになった。
やがて恐るべきドラム缶攻撃が始まった。ガソリンの入ったドラム缶に爆薬を仕掛けたのをゴロゴロと急な坂を転がして最深部の開口部に落とす。爆薬が爆発すると、点火したガソリンが辺り一面に飛び散り、壕内部に火が流れ込む。それを浴びて兵や住民たちが火傷し、死傷した。兵士も住民も痛さに耐えかねて、壕の中を流れる小川の中を這い回りながら、泣き叫んだ。焦熱地獄だった。
隈崎は見た。壕内の狭い通路に小っちゃな男の子が、丸裸で顔から体まで全身が泥だらけになって立っていた。隈崎が下げた薄暗い重油の明かりでは、よく分からなかったが、目も見えないのか、耳も聞こえないのか、声を掛けても返事しない。想像を絶する事態にすっかり放心していたのだ。その子の足元に男の死体が横たわっていた。父親に違いない。隈崎はタオルを濡らして、その子の泥だらけの顔をふいてやったが、その子は声も出さず、突っ立ったままだった。その子も次の日には父親の死体に折り重なるように死んでいた。
海兵隊が撃ち込む弾で、もろい天井の岩盤がはがれ、落盤する。あちこちで体を半分挟まれた住民が「助けてくれ」と泣き叫ぶ。
伊芸徳一さんはこのままでは全滅してしまうので、女、子供だけでも壕外に出してもらおうと、同僚の国吉と中原と共に、大塚軍曹に掛け合うことにした。「女と子供たちは助けてやってほしい」と言うと、大塚は「貴様たちは日本人か!」と怒鳴った。「食料もなく、このままではみんな飢え死にします」と伊芸が言うと、大塚は「泥を食って生きろ」と言い放った。伊芸は「戦える男たちは日本軍に最後まで協力します。だけど、女、子供は毎日死んで行きます。どうにか出してほしい」と懇願した。「どうやって出すのか」「正面から白旗を掲げて出します」「出たい奴は出せ」
伊芸は「ありがとうございます」と頭を下げて、住民の所に戻ろうとした。そこへ、大塚は部下に命令した。「登り口に軽機関銃を据えて、壕を出て行く奴はみんな撃て!」と言ったのだ。伊芸は「なんて野郎だ」と思ったが、口には出せない。
─つづく