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上原正稔日記

ドキュメンタリー作家の上原正稔(しょうねん)が綴る日記です。
この日記はドキュメンタリーでフィクションではありません。

暗闇から生還したウチナーンチュ 14

2013-04-24 09:32:02 | 暗闇から生還したウチナーンチュ

 

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【金融機関】 ゆうちょ銀行
【口座番号】 記号:17010 口座番号:10347971
【名  義】  サンゼンカイ
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【金融機関】 ゆうちょ銀行
【店  名】  七〇八(読み:ナナゼロハチ)
【店  番】  708
【口座番号】 普通:1034797
【名  義】  サンゼンカイ 


前回の続き

~轟の壕編~ 8

 大塚軍曹ら十四、五人の日本軍部隊は、知事ら県庁首脳部が轟の壕を去ると、直ちに、残っていた県庁職員、警察部職員、避難民ら全員を下流(西側)のジメジメした一帯に追い立て、自分たちは開口部の上流(東側)の乾燥地帯の居心鮑のよい場所を占拠した。そこは隈崎が知事のために用意した「知事席」だった場所だ。そして自分たち兵士と民間人のいる場所の境に石や木材を積んで境界を定めていた。まさに暴力団の言う「シマ(※注)」を設定したのだ。(※注 シマとは本来は仏教語で、梵語に起源する。境界、あるいは領域を意味し、ウチナー口のシマもこの仏教語に由来する)。
 その後、大塚部隊は壕の開口部に見張りを立て、壕の中の誰も外へ出られないようにしたのだ。敵に通報するスパイがいるやもしれぬ、というのがその理由だった。ここから地獄の惨状が始まった。
 六月十八日の午後、アメリカ軍の馬乗り攻撃が始まった。馬乗り攻撃とは壕の上にドリルで穴を開け、爆薬を仕掛け、出口を封鎖し、壕内の日本兵や住民を生き埋めにする荒っぽいが効果的なアメリカ軍の戦法だった。生き残った八原博道高級参謀も証言しているが、馬乗り攻撃は日本軍が最も恐れた戦法の一つだった。だが、巨大な口を天に向かって開いているような轟の壕は普通の馬乗り攻撃では攻略できなかった。
 この壕を封鎖したのはアメリカ第6海兵師団の第22連隊だった。初め、海兵隊員は小銃や小型爆弾で巨大な口の奥の小さな開口部に向かって攻撃していたが、壕の入り口は岩盤が扇のようになって弾丸を遮断し、弾は壕内に届かなかった。三日ほどして開口部の岩盤が爆破されて、大穴が開いた。海兵隊員の投げる手榴弾が壕内で炸裂するようになった。
 やがて恐るべきドラム缶攻撃が始まった。ガソリンの入ったドラム缶に爆薬を仕掛けたのをゴロゴロと急な坂を転がして最深部の開口部に落とす。爆薬が爆発すると、点火したガソリンが辺り一面に飛び散り、壕内部に火が流れ込む。それを浴びて兵や住民たちが火傷し、死傷した。兵士も住民も痛さに耐えかねて、壕の中を流れる小川の中を這い回りながら、泣き叫んだ。焦熱地獄だった。
 隈崎は見た。壕内の狭い通路に小っちゃな男の子が、丸裸で顔から体まで全身が泥だらけになって立っていた。隈崎が下げた薄暗い重油の明かりでは、よく分からなかったが、目も見えないのか、耳も聞こえないのか、声を掛けても返事しない。想像を絶する事態にすっかり放心していたのだ。その子の足元に男の死体が横たわっていた。父親に違いない。隈崎はタオルを濡らして、その子の泥だらけの顔をふいてやったが、その子は声も出さず、突っ立ったままだった。その子も次の日には父親の死体に折り重なるように死んでいた。
 海兵隊が撃ち込む弾で、もろい天井の岩盤がはがれ、落盤する。あちこちで体を半分挟まれた住民が「助けてくれ」と泣き叫ぶ。
 伊芸徳一さんはこのままでは全滅してしまうので、女、子供だけでも壕外に出してもらおうと、同僚の国吉と中原と共に、大塚軍曹に掛け合うことにした。「女と子供たちは助けてやってほしい」と言うと、大塚は「貴様たちは日本人か!」と怒鳴った。「食料もなく、このままではみんな飢え死にします」と伊芸が言うと、大塚は「泥を食って生きろ」と言い放った。伊芸は「戦える男たちは日本軍に最後まで協力します。だけど、女、子供は毎日死んで行きます。どうにか出してほしい」と懇願した。「どうやって出すのか」「正面から白旗を掲げて出します」「出たい奴は出せ」
 伊芸は「ありがとうございます」と頭を下げて、住民の所に戻ろうとした。そこへ、大塚は部下に命令した。「登り口に軽機関銃を据えて、壕を出て行く奴はみんな撃て!」と言ったのだ。伊芸は「なんて野郎だ」と思ったが、口には出せない。

つづく


暗闇から生還したウチナーンチュ 13

2013-04-23 09:14:47 | 暗闇から生還したウチナーンチュ

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前回の続き

~轟の壕編~ 7

 海軍外科壕の解散が決まると、傷病兵らの多くは青酸カリを飲んで死んでいったが、中にはパニックに陥る患者もいた。
 ユキさんが担当していた傷病兵が「お姉ちゃん、どこにも行かないでくれ。僕と一緒に死んでくれ。お願いだ。行かないでくれ」とユキさんにすがりついた。ユキさんは、おっとりと「それじゃ、この人と一緒にここで死んであげようね」と言ったのだ。和枝さんは驚いて「ユキ姉さん、早く行こう。集合だから、早く早く」とせかしたが、ユキさんは「いいよ、この人がかわいそうだから、私もここで死ぬよ」と、どうしても動こうとしない。
 和枝さんら看護婦たちは後ろ髪を引かれる思いで外科壕を後にした。その後、ユキさんの姿を見た者はいない。
 六月七日の夜、看護婦から警察部職員に戻った和枝さんらは海軍壕を出発し、南へ向かった。海軍の近藤曹長が引率した。
 六月十一日、やっとの思いで轟の壕に着いた。その間、同僚二人が直撃弾を受けて即死し、一人は行方不明になった。死んだ二人の同僚の前で、手を合わせ「私にも直撃弾があたるように見守ってちょうだい」と祈った。それは心からの願いだった。これまで海軍外科壕で深手を負って生き残った兵士たちの無残な最期をさんざん目にし、同じ目に遭うのを心底恐れたからだ。
 和枝さんら一行は島田知事のいた最下層の壕に入った。引率の近藤曹長は島田知事の前で「根拠地隊司令部から参りました。お預かりした警察部職員をお届けに参りました。お返し致します」と報告した。和枝さんは知事の前で、情けないやら恥ずかしいやら、小さくなった。「申し訳ありません。死んできます、と言って出た者が死ねなくて申し訳ありません」と消え入るような声で言った。
 だが、闇と静寂が支配する壕の中ではその声ははっきり通り、島田知事は意外にも「よかった、よかった、心配したぞ。よく帰ってきた」と喜んでくれたのである。安心した和枝さんはその後、二、三日知事の前で足を伸ばして寝起きすることになった。戦時下でなければ、あり得ないことだった。
 その夜、和枝さんは知事から離れ、川下の方へ移ったが、六月十五日、水汲みに壕の開口部に出た時、知事が鉄兜を肩に掛けて、壕を出ようとする姿を見た。和枝さんが「長官殿、どちらへですか」と尋ねると、知事は小声で「僕たちはこれから軍の壕に行く。お前たち、女、子供に敵はどうもしないから、最後は友軍と行動を共にするんじゃないぞ。最後は手を挙げて出るんだぞ」と言った。
 和枝さんは「今まではお国のために死ねとおっしゃったのに、今、長官は私に捕虜になれ、とおっしゃるのですか」と言ったが、知事はそれには答えず、後ろも振り返らず、去っていった。
 彼女はガッカリして、気が抜けたように、ずっと寝そべっていた。死ぬ時はみんな一緒じゃ、最後は靖国神社にいくんだ、と知事は直接は言われなかったが、県庁では常々、そう教えられてきたのではなかったか。和枝さんの信じてきたものが、すべて瓦解し、張り詰めていた気が緩み、体力まで風船がしぼむように衰えていった。
 六月十五日、小渡と徳田の両秘書官が島田知事と共に摩文仁山頂の新司令部に向かったことは先に述べた通りである。だが、二人はその日のうちに轟の壕に戻ってきた。島田知事は青酸カリを懐中にし、死に場所が友人であった牛島司令官の近くなら諦めもついたが、小渡と徳田の二人は摩文仁におれば、必ず死に直面することを知っていたので、二人には強く言って、轟の壕に追い返したのだ。
 二人は「私たちは最後まで知事の側にいさせてください」と懇願したが、知事は「あなた方は体を大事にしなさい。しっかり生きてください」と言った。こうして小渡と徳田は轟の壕に戻り、ここで何が起きたか、証言することになった。

つづく


暗闇から生還したウチナーンチュ 12

2013-04-22 09:16:07 | 暗闇から生還したウチナーンチュ

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前回の続き

~轟の壕編~ 6

 今、読者が轟の壕を訪れるとそこで一人の女性ガイドに出会うことになるかもしれない。彼女は若くはないが、魅力的な女性だ。声は張りがあり、表情はいつも穏やかで、明るい。
 だが、彼女は普通のガイドではない。彼女はこの壕で何が起きたのか、はっきり覚えている。歴史の証人なのだ。彼女の名前は山里和枝さん、という。旧姓は伊波というが、ここではファーストネームの和枝さんと呼ばせてもらって話を進めよう。
 和枝さんは一九四三年、当時、女性の憧れの勤務先だったデパート山形屋に就職した。戦争はどこか、遠くで起きていることで、沖縄が戦場になるなど誰の頭にもなかった時だ。
 ところが、一九四四年春から日本軍が続々、沖縄にやってきて、臨戦態勢を敷き始め、山形屋からも戦争協力の目的で警察部へ社員が派遣されることになった。警察部の防空監視隊員として派遣された女子五人の一人が和枝さんだった。週に一度の、現代風に言えば、パートタイムの任務だったが、和枝さんは実直に任務をこなした。
 そんな彼女の仕事ぶりに目を留めた警祭幹部がいた。その人は読者も既にご存じの隈崎俊武輸送課長だった。隈崎課長の勧めで、彼女は正式に警察部職員となり、彼女の運命は急展開することになった。
 十月十日の大空襲を体験すると、他の沖縄の人々同様「お国のために役立って死ねるなら本望だ」と思う気持ちが確かなものになっていた。自覚はなかったが、「立派な軍国少女」になっていた。
 沖縄戦が始まると、警察部は首里城の真南の繁多川に移動した。実際には移動というよりも避難と言うべきだろうが、誰もそんな”非愛国的な”言葉を使う者はいなかった。繁多川の壕には島田知事ら県首脳部、警察幹部にその家族が一緒にいた。和校さんら女子職員は飯炊きや雑用に精を出した。
 五月下旬、敵が首里に攻め寄せると、警察部は知念玉城、豊見城、糸満の三班に分散することになった。和枝さんは豊見城の海軍根拠地隊で看護助手をしてほしいと言われ、命令ではなかったが、「お国のために命を捧げる」決意をした。
 敵の艦砲射撃や追撃砲攻撃の中、和枝さんら二十人ほどは警察部警防課の新垣淑重課長に引率され、海軍根拠地隊へ向かった。海軍病棟に配置された和枝さんは、壕に入ったとたん、死臭などの悪臭で、ゲーゲー吐いてばかりで、看護婦の仕事どころではなかった。四、五日もすると、食事がとれるようになったが、あまりにも多くの負傷者が担ぎ込まれてくるので目が回る。
 外科壕とは名ばかりで、毎日死者が出るので、死体の片付けが仕事になった。刑務所のような死体置き場があり、歯車の付いた寝台に死体を載せ、彼女はそれを後ろから押して、衛生兵二人がゴミのように死体を投げ込んだ。それはまだ”人間的”だった。
 助かりそうにもない重傷兵を死体置き場に運んだ時、その兵士は泣き叫んだ。「僕はまだ生きているよー。頼むから助けて、助けてくれー」。だが、衛生兵は無表情に死体置き場の扉を閉め、振り返ることもなく引き返した。その”生きている死体”は、手もなく、足もなく、腹部から腸が飛び出していた。
 和枝さんら看護婦たちはこのような恐ろしい場面を何度も目撃し、いや、体験したが、人間の優しさは失わなかった。和枝さんが忘れられないのは、きれいで優しかったユキ姉さんのことだ。
 海軍の命運が尽き、大田司令官は玉砕する前に、和枝さんら警察部輸送課長から”借りていた看護婦を返す”ことを決めた。彼女らを死出の旅に連れて行くわけにはいかなかったのだ。和枝さんは「ここで最後まで働かせて下さい」と頼んだが、結局、聞き入れられなかった。

つづく


暗闇から生還したウチナーンチュ 11

2013-04-21 09:26:33 | 暗闇から生還したウチナーンチュ

前回の続き

~轟の壕編~ 5

 轟の壕には沖縄県庁の首脳部が勢ぞろいした。荒井警察部長の下に首里署、那覇署、糸満署の署長以下署員も数多く集まっていた。「県庁壕」と呼んでもよい状況だった。しかし、実際には県庁職員も難民にすぎなかった。
 隈崎は結局、島田知事専用の壕を探すことができなかった。彼が連日、壕探しに喜屋武周辺を歩き回っている間にも、敵は南下を続け、轟の壕には後退する日本軍や防衛隊や避難民がひっきりなしに出入りし、敵の偵察機も注目し、海上の艦艇からも艦砲射撃を受けるようになり、壕内でも死傷者が出始めた。数百人の避難民の悲劇が始まっていた。
 食料に乏しい避難民が夜になると、壕の外の畑に芋堀りに出たが、これを狙うかのように海上から砲撃を受けて死傷者が続出した。
 そんな折、六月十日ごろのことだった。その日の暮れ方、何やら声高に話し合いながら、ドヤドヤと壕に入ってきた一団があった。
 「ここは広いぞ。ここに決めよう」と一団の指揮者らしき者が言った。ローソクの灯りだけでは壕内の様子はよく分からない。隈崎は、軍らしいな、と思ったが、女の声も混じっていた。 この一団は壕内に陣取るつもりらしく、荷物を運び入れ始めた。
 しばらくすると、その隊長らしき男が島田知事と警護の隈崎らの方へやってきた。「お前たちは兵隊じゃないようだが、何者だ」と横柄な態度で言った。「警察の者です」と近くにいた若い巡査が答えた。「警察か戦争中に警察なんか要らんはずだ。責任者は誰だ」
 若い巡査はむくれた様子で「この方です」と隈崎を指さした。「君が責任者か。この壕は野戦病院として軍が使用する。お前たちは立ち退いてくれ」と命令口調で言った。隈崎はむっとしながら答えた。「それはできません。私の任務は島田長官の身辺を警護することです。断固として動くわけにはいきません」「何だと。島田長官とは何者だ」「ここにおられる県知事島田叡殿のことです」
 そうか、と言うと男は島田知事に向かって言った。「俺は軍の命令でこの壕を野戦病院として使用する。お前ら民間人は直ちに立ち退いてもらおう。これは命令だ」。島田は怒りを抑えて聞いた。「それは誰の命令ですか。牛島司令官の命令ですか」「軍の命令は天皇陛下の命令だ。わかったか」 「そうですか。では、牛島司令官に確認の伝令を出しましょう。司令官の指示に従いましょう。ところで、あなたのご氏名は?」その男は「大塚軍曹だ」と答えた。
 島田知事は部下の一人を伝令に選び、摩文仁の司令部壕に送った。島田と牛島は友人だった。前任の泉知事が”公用”で本土に出かけ、戻らない、つまり、沖縄から脱走したので、沖縄の人々から”卑怯者”と烙印を押され、その後がまとして牛島は友人の島田に沖縄県知事の職を受けてくれ、と頼み、島田は死を覚悟して、沖縄に赴任した、という経緯があった。人はこうした”美談”に弱い。特に戦時下の沖縄では島田知事の勇気を無条件に崇拝していた。
 伝令は一日も経たぬうちに牛島司令官の親書を島田知事に届けた。その親書は「そういう事情なら、摩文仁の司令部壕に移ってくるとよい。一緒に最期を迎えよう」というものだった。
 六月十五日、島田知事は県庁職員の「後方指導挺身隊」をその日でもって解散することを宣言し、轟の壕を後にすることにした。だが、彼と共に摩文仁に向かうことができたのは、朝日新聞の宗貞利登、毎日新聞の野村勇三と下瀬豊、荒井警察部長、仲宗根官房主事、平艮県立病院長、嶺井官房、小渡、徳田の両秘書官、佐藤特高課長、中村警部補だった。隈崎は参加を許されなかった。

つづく


暗闇から生還したウチナーンチュ 10

2013-04-20 09:25:29 | 暗闇から生還したウチナーンチュ

前回の続き

~轟の壕編~ 4

 隈崎警視が部下の与那嶺巡査部長と浦崎巡査を伴って轟の壕を探し当てたのは五月二十八日、陽が昇った時刻だった。
 島田知事の警護を担っている隈崎警視としては壕内部を徹底調査せねばならない。東西に走る巨大なトンネルのようは洞窟の中央に幅二メートルほどの小川が流れていた。東側の奥に高嶺署長ら首里警察署員が陣取っているのに気付いた。
 そこに平らな岩があり、畳でも敷けば知事に休んでもらえるに違いない、と考え、隈崎は二人の部下に近くのから床板や畳を運ばせた。島田知事や荒井警察部長がいつ来られても支障のないように準備した。
 それでも知事の身の安全を担っている隈崎は満足しなかった。轟の壕は海岸線まで目と鼻の距離しかなく、艦砲射撃でも受ければ、ひとたまりもない。
 翌二十九日から与那嶺、浦崎と一緒に連日、弁当持ちで喜屋武一帯に安全な避難壕探しを始めた。知事にはそれまで福地森の通信隊壕で我慢してもらうしかない、と隈崎は考えていた。
 さて、五月下旬、具志頭には中頭郡地方事務所長だった伊芸徳一や県会計経理の国吉喜盛、県人口課の中原知光ら県庁職員が集まっていた。彼らは島田知事が軍に戦闘協力するため名付けた「後方指導挺身隊佐敷班」のメンバーだった。
 「挺身隊」つまり県庁職員の役割は”日本軍の大戦果”の大本営発表を住民が避難している壕から壕へ伝え、激励することだった。
 (※注伊芸徳一さんは沖縄戦後史の大間題の一つに深くかかわっていた。というのも、彼は一九四五年三月三十一日、「軍の命令で私は敵に利用されるものは全て焼却するよう各市町村に連絡したのです。住民の戸籍簿や土地台帳を焼却せよ、と言われたのです。ですから、戸籍簿、土地台帳などの重要書類はほとんど自らの手で焼却したり、埋めたりしたのです」と証言しているからだ。このため土地所有権の問題は現在まで尾を引いている。今、沖縄公文書館では戦後の土地所有申請書や一筆限調書の公開をしているので、興味のある読者は公文書館に出掛けるとよいだろう)
 伊芸ら県庁職員は具志頭城(グスク)の大自然洞窟で日本軍に追い出され、避難民が艦砲弾で次々やられていく中で、首里署の島袋警部補に会い、伊敷の轟の壕に県庁職員や警繁の人がたくさん入っているから、そこへ向かったらよい、と指示され、轟の壕に向かった。
 六月四日ごろ、彼らは轟の壕に辿り着いた。そこには沖縄出身の新兵や佐藤特高課長、大宜味衛生課長、高嶺首里警察署長らの姿があった。佐藤や大宜味は島田知事より一足先に壕に到着していたのだ。
 しばらくすると、一般住民もこの壕にドォーと入ってきた。避難民は五、六百人ほどだ、と思われた。
 六月六日朝日新聞の宗貞利登支局長、毎日新聞の野村勇三支局長と下瀬豊支局長の三人は六月六日、轟の壕に着いた。
 宗貞らはこの”県庁壕”で島田知事らと合流することになっていたが、知事はまだ姿を見せていない。そこで野村と下瀬の二人が福地森の島田知事の一行を連れてくることにした。
 その夜、地理に疎い野村と下瀬が散々、福地森を探し、島田知事を見つけ、轟の壕に連れてきた。ところで知事のために立派な壕を探すため、運日、喜屋武一帯の壕を回っていた隈崎らが六月六日の夜、轟の壕に戻ると、島田知事の姿を見て、安心すると同時に自分の仕事を盗られたような気になった。だが、知事が無事なのが何よりだ、と自分に言い聞かせた。

つづく


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