上原正稔日記

ドキュメンタリー作家の上原正稔(しょうねん)が綴る日記です。
この日記はドキュメンタリーでフィクションではありません。

暗闇から生還したウチナーンチュ 10

2013-04-20 09:25:29 | 暗闇から生還したウチナーンチュ

前回の続き

~轟の壕編~ 4

 隈崎警視が部下の与那嶺巡査部長と浦崎巡査を伴って轟の壕を探し当てたのは五月二十八日、陽が昇った時刻だった。
 島田知事の警護を担っている隈崎警視としては壕内部を徹底調査せねばならない。東西に走る巨大なトンネルのようは洞窟の中央に幅二メートルほどの小川が流れていた。東側の奥に高嶺署長ら首里警察署員が陣取っているのに気付いた。
 そこに平らな岩があり、畳でも敷けば知事に休んでもらえるに違いない、と考え、隈崎は二人の部下に近くのから床板や畳を運ばせた。島田知事や荒井警察部長がいつ来られても支障のないように準備した。
 それでも知事の身の安全を担っている隈崎は満足しなかった。轟の壕は海岸線まで目と鼻の距離しかなく、艦砲射撃でも受ければ、ひとたまりもない。
 翌二十九日から与那嶺、浦崎と一緒に連日、弁当持ちで喜屋武一帯に安全な避難壕探しを始めた。知事にはそれまで福地森の通信隊壕で我慢してもらうしかない、と隈崎は考えていた。
 さて、五月下旬、具志頭には中頭郡地方事務所長だった伊芸徳一や県会計経理の国吉喜盛、県人口課の中原知光ら県庁職員が集まっていた。彼らは島田知事が軍に戦闘協力するため名付けた「後方指導挺身隊佐敷班」のメンバーだった。
 「挺身隊」つまり県庁職員の役割は”日本軍の大戦果”の大本営発表を住民が避難している壕から壕へ伝え、激励することだった。
 (※注伊芸徳一さんは沖縄戦後史の大間題の一つに深くかかわっていた。というのも、彼は一九四五年三月三十一日、「軍の命令で私は敵に利用されるものは全て焼却するよう各市町村に連絡したのです。住民の戸籍簿や土地台帳を焼却せよ、と言われたのです。ですから、戸籍簿、土地台帳などの重要書類はほとんど自らの手で焼却したり、埋めたりしたのです」と証言しているからだ。このため土地所有権の問題は現在まで尾を引いている。今、沖縄公文書館では戦後の土地所有申請書や一筆限調書の公開をしているので、興味のある読者は公文書館に出掛けるとよいだろう)
 伊芸ら県庁職員は具志頭城(グスク)の大自然洞窟で日本軍に追い出され、避難民が艦砲弾で次々やられていく中で、首里署の島袋警部補に会い、伊敷の轟の壕に県庁職員や警繁の人がたくさん入っているから、そこへ向かったらよい、と指示され、轟の壕に向かった。
 六月四日ごろ、彼らは轟の壕に辿り着いた。そこには沖縄出身の新兵や佐藤特高課長、大宜味衛生課長、高嶺首里警察署長らの姿があった。佐藤や大宜味は島田知事より一足先に壕に到着していたのだ。
 しばらくすると、一般住民もこの壕にドォーと入ってきた。避難民は五、六百人ほどだ、と思われた。
 六月六日朝日新聞の宗貞利登支局長、毎日新聞の野村勇三支局長と下瀬豊支局長の三人は六月六日、轟の壕に着いた。
 宗貞らはこの”県庁壕”で島田知事らと合流することになっていたが、知事はまだ姿を見せていない。そこで野村と下瀬の二人が福地森の島田知事の一行を連れてくることにした。
 その夜、地理に疎い野村と下瀬が散々、福地森を探し、島田知事を見つけ、轟の壕に連れてきた。ところで知事のために立派な壕を探すため、運日、喜屋武一帯の壕を回っていた隈崎らが六月六日の夜、轟の壕に戻ると、島田知事の姿を見て、安心すると同時に自分の仕事を盗られたような気になった。だが、知事が無事なのが何よりだ、と自分に言い聞かせた。

つづく


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