江利チエミファンのひとりごと

江利チエミという素晴らしい歌手がいた...ということ。
ただただそれを伝えたい...という趣旨のページです。

◆ 昭和35年~36年 江利チエミ セミリタイア のころ  美空ひばりさんとの確執

2014年12月06日 | 江利チエミ(続編)

この時期...どのようにセーブしていたのかがよくわからなかったのですが...
ひばりとジャズそしてシャープ 原信夫が見つめた美空ひばり...の記事に記述がありました。
http://tower.jp/article/feature/2013/06/20/borw104

デルタとの共演の前...長期休養していたんですね~。


>昭和36年(1961年)
江利チエミの舞台でジャズを歌う 

江利チエミは休暇をとっていたアメリカから帰国した。少女ジャズ歌手として衆目を浴びた彼女だったが、高倉健との結婚を機に引退をほのめかし旅立った、久々の長期休暇だった。ただ8年前と同じくその時もデルタ・リズム・ボーイズを伴っての凱旋で、いくつかのコンサート会場で共演することも決まっていた。こうしてごく短かかった「引退」の喪は明け、再び舞台への情熱をたぎらせていった。開催されたチエミとデルタの共演コンサートには専属バンドの原信夫とシャープス&フラッツ(以後「シャープ」)が伴奏につき、すぐに『江利チエミ&ザ・デルタ・リズム・ボーイズ』とタイトルされたLP盤に成型された。昭和36年(1961年)初頭の素描である。

同じ年の4月。デルタのカール・ジョーンズが今度は単独でやってきて、チエミとスタジオに入りシックスレモンズやキング・オールスターズと『チエミとカール・ジョーンズ』を収録。オールスターズとは原信夫、伏見哲夫、大西修、竹内弘、武藤敏文らシャープからの選抜隊で、全編で趣向を凝らしたじつに粋なジャズ・アルバムに仕上げられた。師匠のジョーンズは一連の舞台と録音につき合い、秋にもチエミの公演について廻り、京都花月劇場では飛び入りした美空ひばりのピアノ伴奏までやってみせた。チエミのことを本当の姉妹のように思っていた美空ひばりは、ちょうど京都で映画撮影に入っていて、時間を調整しこの公演を覗きに来たのだった。そして《さのさ》に続きジャズもひと節、チエミとの共演でやってみたりした。

そんなチエミの舞台へひばりの陣中見舞いがあったある夜、ひばりの母・加藤喜美枝と連れだち祗園で名物の懐石料理屋で腹ごしらえすることになった。もちろん原信夫も誘われたが、この同行がのちに原にとって人生の転機となる大事件へと発展する。食事をしていると、やおらお嬢(=ひばり)のママ(=喜美枝)が「ねえ原さん、たまにはお嬢の伴奏もしてやってよ」と切りだした。少し酔ったチエミも調子良く「そうよツカさん、やってあげなさいよ(本名を塚原といって、親しい者からは〈ツカさん〉の愛称で呼ばれた)」と重ねた。場の空気を乱さぬよう「はいはい、分かりました」と言い流しそれで終わった、つもりでいた。・・・


この後、シャープは美空ひばりさんの専属バンドとなります(チエミさんのバックはしましたが)...

 https://www.youtube.com/watch?v=vfUVKOYRwEA

この動画でも語られていますが、ひばりがチエミのバックバンドを横取り...などと、いろいろ ひばりvsチエミ 不仲説 は、よく週刊誌を騒がせていました。

昭和36年
 チエミ&デルタ・リズム・ボーイズ ジョイント・ライブ盤
 

同年 チエミとカール・ジョーンズLP
  


>昭和36年(1961年)5月
ナット・キング・コール初来日

昭和36年5月、ナット・キング・コールの初来日が実現する。東京を皮切りに名古屋、大阪、福岡での公演も決定し、赤坂ニュー・ラテンクォーターでのショー以外、その全行程にシャープはついて廻った(2年後の再来日時はニュー・ラテンで伴奏し、同音源が先頃、奇跡的CD化を果たした!『ライブ・アット・ニュー・ラテン・クォーター』[マースミュージック MMV-1002])。自身のピアノ・カルテットにトランペットのルノー・ジョーンズを加えただけの軽装で、日本でビッグバンドとストリングスを調達したのである。ピアノ奏者リー・ヤングの采配は歌と演奏を聴かせるだけでなく、エンタテインメントを演出するための無駄なく的確な指示であり、《トゥー・ヤング》での心憎い進行には会場が割れんばかりの拍手に包まれて、原はその効果にぞっこん驚いてしまった。キング・コールは若く逞しい日本の楽団のことを賞賛してくれたが、この興行のどこかでやはり日本を代表するエンタテイナーである美空ひばりが客席側でひっそりと感慨に耽り、その歌唱に浸っていたことになる。

 同じ年の9月、ひばりはシャープを伴奏に、はじめてジャズだけで1枚のアルバムを吹き込んでいる。少し前に江利チエミのショーに飛び入りし一緒にジャズを歌ったことが、ある強い衝動をもたらしていた。もともと心に温めていたことだったが、「いつかジャズに挑戦したい」という思いがその衝動とともに弾けたのだ。親友のチエミと高島忠夫が案を持ち寄り、ジャズの有名曲をすべて日本語で歌うという趣向に意見はまとまった。《セ・マニフィーク》など大好きだった曲から10曲を選び、そこに水島哲による日本語詞を付して山屋清、前田憲男、狛林正一に編曲を任せた。そして日本都市センターホールを2日間借り切り、30人を擁する高珠恵ステレオ・ストリングスも加えて録音は敢行された。

本人もうっとりメロディに乗り、ジャズでありながらその枠にとらわれず、ひばり独特の歌世界が開扉されていた。10曲を最後は8曲にしぼり、収録された『ひばりとシャープ ─虹の彼方─』は意欲と努力はもちろん勘のよさが全面に匂い立ち、それまでの歌謡スターと比較にならぬグルーヴを盤に刻み込んだ。「聴けば聴くほど手離しがたい」という作品評は、ひばりファンというよりむしろジャズ評論家のほうから出てきた言葉であった。

 後日、ひばりの母・喜美枝から「来年の日程を押さえたいんだけど」と原のもとに連絡が入った。ずっと先のことだから空き日はいくらでもあったし、祗園の夜に交わした軽い約束もあった。しかしそれが尋常な日数ではなく、スケジュールを書き込みながら不安になっていった。そして案の定、その事件は勃発する。少しして江利チエミも原にスケジュール調整の連絡を入れ、その大部分がひばりの公演のために押さえられていることを知らされるのだ。一瞬無言で落胆の意を示し、やがて本気に近い怒りへ態度を硬化させていった……ほんの電話の上での口論であったが。

>昭和12年(1937年)5月29日
美空ひばり誕生

美空ひばりは、はじめから天才であった。

昭和12年(1937年)5月29日。横浜市磯子の新開地で屋根なし市場の魚屋「魚増」を営む父・増吉と母・喜美枝の間に、加藤和枝は誕生する。蘆溝橋事件が発生し、日中戦争へ突入するひと月半前のこと。これが第二次世界大戦につながる長い戦いとなり、日本中を疲弊させていった。そんな戦争が終わってすぐ、まだ8歳だった和枝は父親が作るミソラ楽団を伴奏に、美空和枝の名前で磯子区滝頭の町内演芸会に出演し歌いだした。客席は近所づきあいの顔なじみであるから、《小雨の丘》や《チンライ節》などを歌って大喝采を浴びたのはいうまでもない。やがて芝居小屋のアテネ劇場や杉田劇場への出演機会を得て《旅姿三人男》をやってみれば、小学生の女の子がはやり唄をしっかり暗記し声を張りあげて歌うのがいじらしいと、大人たちをのきなみ興奮させていた。近隣ではすでに人気者だったがNHKのラジオ番組「のど自慢素人音楽会」の横浜大会で《長崎物語》と《悲しき竹笛》を歌った時は、「幼子が大人の節回しで歌うなど、じつにゲテモノである」との批判も受ける。ただそこで耳のある興行主や浪曲師に見出され、横浜国際劇場での前座出演を足がかりに、やがて大劇場へと進出していった。荒んだ世をかたくなに生きる少女……もはや国民にとって彼女は「廃墟の中の希望」であった。

敗戦から10年。すでに美空ひばりは、押しも押されぬ歌謡界のトップスターだった。昭和30年(1955年)には年間39曲の録音と12本の映画出演があり、江利チエミや雪村いづみとの「三人娘」も大当たりした。有名になり過ぎたことの代償として、31年の大阪劇場では多くのファンを動員し過ぎて死者を出してしまったし、32年の浅草国際劇場ではそんなファンのひとりから塩酸を浴びせられる事件にも遭った。爛れた肌とともに、心理的に受けたダメージはあまりに大きかった。が、そんな痛ましい諸事をすべて心の裡に納めてしまえば、歌手としての度量はひとまわりもふたまわりも逞しいものとなっていた。

そんなことを経た35年末、第2回日本レコード大賞で《哀愁波止場》を歌唱賞に輝かせる栄誉を得る。36年には通算して発売されたレコードが500万枚を突破し、記念リサイタルを開催。秋には初のジャズ・アルバム『ひばりとシャープ ─虹の彼方─』にも挑戦し、表現の幅をより意欲的に開削してみせた。そして37年は浅草国際劇場と大阪劇場において、人気楽団シャープス&フラッツをバックに控えた1週間ずつの正月公演からはじまっていた。

チエミは努力の人、対するひばりは圧倒的な芸力を持つカリスマ的存在。洋楽に基本を置くチエミと異なり、演歌や歌謡曲を主体に才を披瀝するひばりは、まさに国宝的存在であった。原信夫はそんなふたつの個性の間に立ち、当面は相互をうまく両立させながら差配した。ただどこで嗅ぎつけたか、週刊誌が「チエミと原が大ゲンカ!」と書きたてたのである。チエミとは受話器をはさんで多少の遺恨は残したものの、けっして喧嘩などしていなかった。しかしマスコミの無慈悲な操作で世間の目が変われば、当人の気持ちとは裏腹にその関係は徐々にねじ曲げられるもの。

原は4年前(昭和33年)、ラジオ番組「チエミと歌えば」の収録につき合っていた。その番町スタジオにゲストでやってきた少女が、初めて顔を合わせる美空ひばりであった。そこで思わず感心させられたのを覚えている。曲の途中で演奏を止め歌だけ残すやり方をブレイクといって、ジャズでよく試みられる手法がある。永井荷風の著作をもとに作られた《日和下駄》の伴奏をしていた時、ひばりがブレイクで「おっとどっこいそこはみずたまりー」とやってみせた。もちろん編曲の時点で効果は狙われていたが、聴かせたみごとなタメと節まわしは並の流行歌手にできる種類のものではなかった。そこにジャズの雰囲気を見出し、その印象が原の中に長くとどまっていた。

かつて塩酸事件の時も、もともと小野満とシックスブラザーズが伴奏をつとめていた。小野とは秘かに婚約まで交わした仲で、ひばりの伴奏といえばシックスブラザーズと決まっていた。にも拘わらずそれを引き継ぐように、37年の浅草国際劇場における新春公演「姉弟ショーべらんめえ初姿」以来、シャープが専属バンドとなっていた。京都祗園で切り出されたママの言葉がその端緒で、原にすればあの《日和下駄》の才能により近くで触れてみたくもあった。『ひばりとシャープ ─虹の彼方─』の成功があり、週刊誌に書きたてられたいわれのないケンカ記事も拍車をかけ、活動の場はひばりの側へ急接近していった。

ひばりはチエミと違い、ジャズでなく歌謡曲に力点を置いてきたが、流行の兆す新しい音楽=ジャズを模索したこともなくはなかった。8年前(昭和29年)、まだ16歳だったひばりが新宿第一劇場のアトラクションでジャズを歌ったのがその最初の機会だった。次の年、エリントン楽団の専属歌手ベティ・ローシェの歌唱を真似て《A列車で行こう》を歌いこなし、ただ感性の良い少女歌手ぐらいに見ていた周囲を唖然とさせたこともあった。その扱いは群を抜き、そのことを本人も気づいていた。収集するレコードといえば洋楽のジャズやポピュラーばかりで、一昨年のハリー・ベラフォンテの公演も昨年のナット・キング・コールの公演にも駈けつけ、歌といわず舞台運びといわず研究し尽くして帰った。ただ母・喜美枝はそれを理解しながら、あえて娘にはジャズをやらせなかった。お嬢には巷に欲する者の多い演歌を歌わせ、その世界で日本の頂点に立たせたかったのである。ただシャープとの出会いがあり、この数年間だけは母娘ともにジャズも表現のひとつに加え大切にした、希少な時期を過ごすことになる。

>昭和38年(1963年)
日本ポップス・シリーズ第一弾『ひばり世界をうたう』発表

五輪の開催をひかえ、日本中が沸きかえる昭和38年。この年の春、ひばりは再びシャープの伴奏で1枚のアルバムを制作する。この計画は原と、日本コロムビアの雨森康次ディレクターとの間で秘かに練られたものだった。雨森はコロムビアから社員が大量流出するというレコード界でも稀な事件が起こった時、姿を消した前任者を引き継ぎ社長に直訴してひばりの担当をかち取っていた。二人で話すうちイタリア、韓国、フィリピン、ロシア、メキシコ、スペイン、スコットランドなど、世界各地の民謡を歌わせてみようとなり、連絡するとひばりも乗り気になってくれた。そして日本語詞を付し、ひばり仕様の和風ジャズ・スタイルでいくことに意見は一致した。

4月の2日間が録音日に当てられ、今回も1日に6曲ずつを録音する強行軍となった。そこで原は、ひばりの驚くような才能に触れることになる。世界の民謡12曲を取り上げ、佐伯亮、山屋清、前田憲男、服部克久たちの手でストリングスも加えた綿密な編曲がなされた。ひばりはその譜面を眺めたかと思うと「さあ、やりましょうか」と立ち上がった。が、誰もがそれをリハーサルの合図だと思った。

 1曲歌うごと、細を穿ったひばりの歌唱にスタッフ全員が心を奪われていく。ただ歌うとすぐ次へ移り、通常歌手がやるようにミキサー室へ向かい録音状態を確認するような素振りはない。初見ながら一度も間違えることなく、歌い終えるとその曲はもうそれでお仕舞い。「さあ次へいきましょう」と言って6曲歌い終えると、その日はそれで引き上げてしまった。次の日もまた同じ要領で他6曲を歌うと、それで録音はすべて終了していたのである。みな呆気にとられたがそれがいつもの彼女のやり方であり、楽団に何度も同じ箇所をくり返させたチエミとは正反対だった。一度録り直しの機会があったが、それはシャープ側のミスで「あら、シャープさんが間違えるなんて不思議ねえ」と可笑しそうに言うと嫌な顔もせずまた録音に戻り、同じように完璧に歌ってみせるのだ。

どの曲も情趣にうったえかける上質な仕様で、コロムビアの日本ポップス・シリーズ第1弾『ひばり世界をうたう』として、雨森の手でみごとなレコードに仕上げられた。・・・



しかしこのころ...
 ひばりさんとチエミさんは多くの共演がありました...

いろいろな問題で幻になった企画もありました...

◆ 東映でも企画されていた三人娘共演映画  
   
昭和37年/美空ひばり主演で公開された映画「三百六十五夜」。
劇中でひばりさんが♪ツイスト ツイスト ツイスト 三百六十五夜... あんたのことばっかり!...と歌いだしたりする「美空ひばり映画」です。

    

   劇中歌「恋の曼珠沙華」:https://www.youtube.com/watch?v=n1lWhrRN40E(二葉あき子さんのカバー)

>有望な技師として嘱目されている川北小六には大きな悩みがあった。父佐吉の会社が経営不振の時、六百万円の大金を貸してくれた小牧商会の一人娘蘭子が、結婚を迫っているのだ。小六は下宿の大江家の一人娘照子と相思相愛の仲である。その話を聞いた照子の母しづ子は、川北家のため金を用立てしたが、不意に訪れたしづの前夫坂本東吉のために持ち去られてしまった。東吉はその金で小牧商会支配人津川のインチキ賭博にひっかかった。津川は蘭子にプロポーズする傍ら、遠縁の照子にもモーションをかけていた。家屋敷を抵当に入れ三百五十万円を借金し、小六の父へ送るように頼みに来た照子を津川は箱根へ誘うが、ままにならぬ照子に業を煮やし、インチキで大江家を乗っとり親娘を追い出してしまった。
職を求める照子は、津川の経営するエロ会社とは知らずに危うく就職しようとしたが、宮島画伯に助けられた。照子をモデルにした画伯の傑作が展覧会の話題になると、津川は赤新聞を使い画伯の失脚を図った。そんな照子を津川は冷笑し、蘭子は同情した。
度重なる不幸のため床に伏したしづ子の前で、小六は照子との結婚を誓った。小六は津川の不正を追及し、照子が津川に手渡した借用証書の返済を迫った。小六を追って来た照子は津川に捕えられ手ごめにされかかった。だが、東吉の短刀が津川に突き刺さり、彼もその場で息を引きとった。
東吉こそ照子の父親で、満洲時代にしづ子の夫であったが、身持が悪いため離婚していたのだった。来合わせた蘭子は、自分も小六を深く愛していながら、二人が強い愛の絆で結ばれているのを見て、潔よく身をひき二人の幸福を心から祈った。
二人の手許に宮島画伯の書いた例の絵と、一千万円の約手が届いた。蘭子が二人を祝福しての心からの贈りものだった。そして、また、小六への最後の愛の表現でもあったろう。
>キャスト(役名)美空ひばり (小牧蘭子) 高倉健 (川北小六) 朝丘雪路 (大江照子) 山田五十鈴 (大江しづ子) 鶴田浩二 (宮島画伯) 平幹二朗 (津川厚) 田崎潤 (坂本東吉) ...この映画はリメイクものでした。
主題歌「恋のまんじゅしゃげ」も美空ひばりのオリジナルではありません。
最初の映画化は昭和23年。
>キャスト(役名)上原謙 (川北小六) 山根寿子 (大江照子) 高峰秀子 (小牧蘭子) 堀雄二 (津川厚) 野上千鶴子 (乾マユミ) 大日方伝 (宮田龍之助) 吉川満子 (大江しづ) 河村黎吉 (坂元東吉)

蘭子は「幸せな結末を迎えられない役」であります。どちらかというと(お決まりのパターンでいけば)照子が「ヒロイン」です。美空ひばりよりも朝丘雪路の方が「いい役」でもあるのです。(もちろんリメイク版では「お嬢/ひばり」を中心に物語りは進行しますが...)
なぜ「ちょっとかわった役どころをこの映画で美空ひばりがしたのか」... (朝丘が随分と「もうけもの」の役に抜擢されたのか...)
読者の方にお送りいただいた『風雲映画城/松島利行著』という本で謎が解明されました。

>昭和37年に当時東京撮影所の所長だった岡田茂さんは、市川昆監督が戦後すぐに撮ってヒットした小島政二郎原作の『三百六十五夜』の再映画化を企画した。高倉健、鶴田浩二に美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみの三人娘をからませる、というものだった。・・・ 
岡田さんはチエミさんと会って出演交渉をするが、『亭主の高倉の実績を残すためにも』という殺し文句も通用せず、チエミさんからニベもなく断られる。
仕事と私生活を混同したくないというのが、チエミさんの言い分だった。
そこで岡田さん憤懣を健さんにむけ「おまえ、女房になめられてるじゃないか。おまえには悪いが、今後、ウチではチエミを一切つかわんからな。・・・おまえが大スターになって見返さんと、駄目だよ」などと言ったらしい。・・・

おいおい!この岡田なる人物はいったい何者??偉そうに!
(おえらい方ということは存じていますが...) 判ってないのは「アンタ」の方じゃないでしょうか??
当時の世間の認識は『江利チエミの亭主=高倉健』であった。それゆえに「ただでさえ美空ひばりの相手役」のような亭主の映画で共演したくはなかった...
 ひばり・チエミの添え物にしたくなかったのでしょう。

また「チエミは使わん!」などと偉そうなことをいえるような仕事を当時の東映/東京はしていません。ヤクザ映画が成功するまで「安直な現代劇」しか生み出しておらず、江利チエミさん自身も東映にはなんの「恩義もない」はずです。
時代劇の京都東映とは比べ物にならないような会社だったくせに...

このとき江利チエミが共演を快諾していたら・・・
 それこそ夫婦仲が巧くいかなくなってしまったのでは??
これからの3年・・・東映の路線変更によって「健さんには新境地」が開けだします。そして昭和40年には「網走番外地」と出会うのです。
 江利チエミの旦那・・・から脱皮します。
またこのとき、主題歌のレコーディングの影の功労者はチエミさんです。プロデューサーに『アタシ高倉の歌いいと思うのよ!』と影で助言し、レコーディングの際もまさに『口移し』で寄り添ったとか・・・ のちに健さんはキングで吹き込みますが、最初の頃はテイチク?だったと???
 これも「公私混同したくない」の現れだったのだと思います。当時芸能界での主導権は、圧倒的に江利チエミだった。ゆえに「なお更」女房は影の功労者でいたかったのだと思うのです。
 ほんとうはセーブしたかったのでしょう・・・ しかし、それを世間が許さなかった!喉をいためたとき・・・ひょっとしたらそれをきっかけに「暫く仕事をセーブ」して家庭にはいり喉も充分に休める時間がとれたのかも知れません。
しかし・・・ その時すでに夫君は役作りのために家庭を顧みなくなっていた・・・
一部の記述では夫君はその入院中一度も彼女を見舞うことがなかった・・・とも言われています。
この夫婦はスターであるがための「不幸」を、悪い言い方ですが「直ぐに離婚をしなかった」ので13年の長きに渡って苦しみ続けた・・・ともいえます。


岡田茂 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用

>岡田 茂(おかだ しげる、1924年3月2日 - )は昭和後期・平成期(1950年代-)の映画プロデューサー。元東映・東急レクリエーション社長、現相談役。松竹の城戸四郎、東宝の森岩雄が一線を退いてからは「日本映画界のドン」であり、戦後の日本の娯楽産業を創った一人である。広島県賀茂郡西条町(現・東広島市西条)出身。

>中学の頃から身長が180センチ近くあり、遊びと喧嘩に明け暮れた番長だった。一族は酒問屋など事業を手広く行い映画館も持っていた。旧制広島一中(現・広島国泰寺高校)では柔道に熱中。卒業後は旧制広島高校(現・広島大学)に進学。この頃たくさんの本を読む。早く読む能力が身に付き、のちシナリオを読むのに役立ち、自ら「売り物」と言う仕事の速さにも役立った。
1944年東京帝国大学経済学部に入学するも待ち構えていたのは学徒出陣。特別幹部候補生として岩沼陸軍航空隊(現在の仙台空港内)で戦闘機の整備の任務に就いた。当地はグラマンに爆撃され古川町(現在の大崎市)に疎開。
1945年8月15日、終戦を告げる天皇陛下の玉音放送を小学校の校庭で直立不動で聞く。日本が負けた悔しさと命を落とした多くの学友の無念さを思い生まれて初めて涙した。
終戦後復学。東大では猛者を率いて大学の左傾化を阻止した。卒業後、多くの同期生とは異なる道、「活動屋」の世界に飛び込む決意を固める。決め手となったのは、東横映画(現・東映)の社長で広島一中の先輩だった黒川渉三の「鶏口となるも、牛後となるなかれ、だよ。岡田君」という一言であった。
その言葉に違わず当時の映画業界は豪放磊落な人間が集う場だったという。当時の東横映画は従業員が100人程の新参者で、その存在も知る人は少なく、リスクの大きい映画会社に銀行は融資を渋り、黒川社長は街の金融業者から資金を調達。そのため毎日社長室の前には、取立ての業者が列をなしていた。現場も独特の雰囲気があり、監督や作家などの文化人と一緒に、普通にヤクザやチンピラも混じっているような世界だった。 雑用係からキャリアをスタートさせたが、まわりは岡田を大学出の文学青年ぐらいにしか思ってなかったようで、よく言いがかりを付けられたが、売られた喧嘩は絶対に買った。
当時、製作のトップにいたマキノ光雄に師事。1948年、進行主任に昇格。以前から温めていた企画、戦死した学友達の話を後世に残さなければならない、と戦没学生の遺稿集「はるかなる山河」の映画化を決意。東大全学連の急先鋒・氏家齋一郎(のち日本テレビ社長)がクレームを付けたり、会社の看板スターで役員でもあった片岡千恵蔵、月形龍之介とも「会社が潰れかかっているのに、この企画では客は来ない」と猛反対されたりした。当時は大物役者がノーと言えば映画は作れない時代だった。絶対にこの映画は当たると大見得えを切り、マキノの助け舟もあって1950年、映画は完成。タイトルを「日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声」に変更し公開。珠玉の反戦映画、と評価を得て大ヒット。しかし当時まだ配給網を持っていなかった東横映画には、あまりお金が入ってこなかった。
1949年、借金の膨らんだ東横映画は東京映画配給、大泉映画と合併し東映として新しくスタート。社長には東急専務で経理のプロ・大川博が就任しコストダウンを推進。同年入社4年目、27歳で京都撮影所製作課長に抜擢される。撮影所製作課長は撮影現場の総指揮者である。更に大川社長に呼ばれ「今後、製作の予算は私と君で決める」と高く評価され、自分の上にまだ多くの上司がいるのにも関わらず、予算の全権を握り制作費から役者の出演料まで決める実質東映のゼネラルマネージャーのような存在となった。
1954年から他社に先駆け大川の断行で二本立て興行を開始。現場は多忙を極めこの年世界一の103本の映画を製作。その甲斐あって東映の専門館が増え会社は大きく飛躍した。当時の少年誌に掲載された人気の冒険活劇を題材に中村錦之助、大友柳太郎主演の「笛吹童子」シリーズ、東千代之介主演の「里見八犬伝」シリーズなどをヒットさせ“時代劇の東映”の地位を確固たるものとした。
また当時、山口組の田岡一雄組長がマネージメントをしていた美空ひばりをマキノとともに引き抜き、ひばり&錦之助のコンビで大いに売り出した。
1956年には年間配給収入でトップとなった。この年には本格的な動画(アニメーション)の製作に乗り出すため、日動映画を買収し東映動画(現・東映アニメーション)を設立。さらに他社に先駆け、日本短波放送、旺文社などと東京教育テレビ(現・テレビ朝日)を設立、テレビ放送事業にも乗り出した。この頃東映は系列40社、従業員7000人の企業グループとなった。
1960年、拡大路線を推進する大川が第二東映を設立、大量生産は限度を越え現場の不満、鬱憤は爆発寸前で勢いに翳りが出始めた。翌1961年、第二東映は吸収。この年京都撮影所長。山城新伍主演でTV制作した「白馬童子」が大きな人気を得ると、将来のTVの普及を予想しTV制作を増やす。
1962年取締役東京撮影所長に就任すると低迷していた東映現代劇をアクション路線で復活させる。佐伯清などのベテラン監督を切り深作欣二、佐藤純彌、新東宝からきた石井輝男、渡辺祐介、瀬川昌治、降旗康男ら若い才能を抜擢した。
その後、東映を『時代劇』路線から俊藤浩滋と組んで「人生劇場 飛車角」を初めとする『任侠映画』路線に転換させる。日活など他社も追随した。
この頃藤純子主演の「緋牡丹博徒」など、タイトルの大半は岡田が考えたもので「大奥○秘物語」の○の中に秘を書くマークは今は一般的に使われるがこれも岡田が考えたものである。「人生劇場 飛車角」で鶴田浩二を「網走番外地」で高倉健を「不良番長シリーズ」で梅宮辰夫を売り出す。筋金入りの清純派、佐久間良子の裸のシーンを売り物に田坂具隆監督で「五番町夕霧楼」を大ヒットさせた。
1964年、大川の命で時代劇の衰退した京都撮影所長に再び戻る。揉めに揉めたものの大リストラを断行し2100人いた人員を一気に900人に減らした。
この年テレビ用時代劇の制作を行う東映京都テレビプロダクションを設立。大川橋蔵の「銭形平次」や「水戸黄門」を生んだ。当時他の映画会社はテレビを揶揄し、おかげで東映のシェアは50%超を占め現在も40%台を確保し大きな柱となっている。東映はこの年、東急グループを離脱した。京都でも任侠路線に転換し北島三郎の「兄弟仁義」、藤純子の「緋牡丹博徒」などを大ヒットさせた。俊藤プロデューサーの娘・藤純子を映画界入りさせたのも岡田である。
1966年常務、1968年映画本部長、1971年、大川の逝去により社長に就任すると不採算の東映フライヤーズを、大川の息子・毅が経営していた全国32あった東映ボウリングセンターの大半を売り合理化をさらに推進した。
一方では多角化を推進しTVの普及で苦しむ他者を尻目に、TVに吸い込まれないお客を取り込み〔不良性感度〕映画を標榜。「仁義なき戦い」を初めとする『実録路線』や『エロ・グロ映画』を他社に先駆け量産した。抜擢した天尾完次プロデューサーが、石井輝男や鈴木則文とのコンビで初めて“ポルノ”と言う言葉を作り、谷なおみらの「徳川女系図」、杉本美樹、池玲子、大信田礼子らの「女番長・ずべ公番長シリーズ」、梶芽衣子、多岐川裕美、夏樹陽子らの「女囚さそりシリーズ」などのエロ映画・ピンク映画を量産した。タランティーノの影響からか、これらは近年プログラムピクチャーと称され、海外で続々DVD化されており再評価(初評価)が進む。
1970年前後には他社の二倍近い興行収入を上げた。これらが飽きられると「トラック野郎シリーズ」や角川映画と組んで「人間の証明」、「セーラー服と機関銃」、「魔界転生」、「麻雀放浪記」など、フランスで大ヒットした「新幹線大爆破」、カンヌ国際映画祭でグランプリを獲った「楢山節考」など、フジテレビを退社した五社英雄を起用し「鬼龍院花子の生涯」、「極道の妻たち」シリーズなどの名作、「バトル・ロワイアル」などの問題作を生んだ。また苦戦していた系列の東映動画に中学時代から進学も就職も一緒だった親友の今田智憲を社長に据え巻き返しを図り「マジンガーZ」、「宇宙戦艦ヤマト」、「ドラゴンボール」など優れた作品を生み日本アニメの海外進出の大きな推進役となった。またここからは、宮崎駿、高畑勲など優れた才能を生んだ。
TV制作では「暴れん坊将軍」・「遠山の金さん」などの時代劇、「さすらい刑事旅情編」に始まる刑事シリーズ、初の2時間ドラマ「土曜ワイド劇場」や「仮面ライダー」、「人造人間キカイダー」などの特撮変身ヒーローもの、「秘密戦隊ゴレンジャー」などのスーパー戦隊シリーズ、「宇宙刑事ギャバン」から始まるメタルヒーローシリーズなどを生み出した。
仮面ライダーから始まった版権ビジネスは、現在キャラクター商品の名称で一般的によく知られ、今も大きな収益源となっている。また安い制作費で映画を作るため東映ビデオ、 東映セントラルフィルム(現・東映セントラルアーツ)を設立。ここからはカラオケビデオや『Vシネマ』、松田優作の「遊戯シリーズ」、「ドラマ探偵物語」、「泥の河」、「竜二」、「ビーバップハイスクール」などを生んだ。東映製作では「柳生一族の陰謀」、「二百三高地」などの大作を生んだ。
1975年には日本でのテーマパークのはしりとも言うべき『東映太秦映画村』をオープンした。戦後の日本の娯楽産業を創った一人である。 親分肌で豪放な性格で知られ「仁義なき戦い」の広島弁は岡田の社内での罵詈雑言を脚本の笠原和夫が参考にした、という逸話を持つ。また付き合いの広さでも知られ、映画・芸能界のみならず多く経済界と交流を持った。早稲田大学出身で縁の無い小渕恵三の後援会が無いと知ると、可哀そうだと早大出身者に呼びかけて作った。また岡田を慕う人達が多く岡田一家と呼ばれたりした。映画産業団体連合会会長、テレビ朝日会長、(株)東急レクリエーション代表取締役会長など多くの要職に就く。最近は各地の映画祭などで、このような東映映画史を面白おかしく講演して好評である。
長男は「赤頭巾ちゃん気をつけて」や「実録三億円事件・時効成立」の名演などで知られる元俳優で現東映社長の岡田裕介。生命倫理学者、高木美也子は娘。

※暴れん坊将軍では「女医/君島志乃」役でチエミさんを準レギュラーで使ってますけど...

トップ画像はミュージックライフ誌37年3月号... 人気投票「トップ1」になったチエミさんと坂本九さんの対談のページ。江利チエミは絶頂期を迎えていました。



また、ひばり&チエミ 共演映画も...

【249】 沢島忠監督は語る...(1)
  https://www.youtube.com/watch?v=rpPpt1SqciA

沢島忠 著/ 沢島忠全仕事・ボンゆっくり落ちやいね を入手。
この本から「弥治喜多道中」「おしどり千両傘」について掲載されている箇所より抜粋、ご紹介いたします。

沢島忠さんとは...東映の黄金期の監督です。
作品には...
巨人軍物語 進め!! 栄光へ(1977)
幻の殺意(1971)
女の花道(1971)
新選組(1969)
ボルネオ大将 赤道に賭ける(1969)
北穂高絶唱(1968)
のれん一代 女侠(1966)
冒険大活劇 黄金の盗賊(1966)
小判鮫 お役者仁義(1966)
いれずみ判官(1965)
股旅 三人やくざ(1965)
新蛇姫様 お島千太郎(1965)
人生劇場 新・飛車角(1964)
間諜(1964)
人生劇場 飛車角(1963)
一心太助 男一匹道中記(1963)
おかしな奴(1963)
おれは侍だ 命を賭ける三人(1963)
ひばり・チエミのおしどり千両傘(1963)
人生劇場 続 飛車角(1963)
美男の顔役(1962)
サラリーマン一心太助(1962)
酔いどれ無双剣(1962)
ひばり・チエミの弥次喜多道中(1962)
富士に立つ若武者(1961)
白馬城の花嫁(1961)
若さま侍捕物帳 黒い椿(1961)
水戸黄門 助さん格さん大暴れ(1961)
家光と彦左と一心太助(1961)
右門捕物帖 地獄の風車(1960)
海賊八幡船(1960)
暴れん坊兄弟(1960)
ひばりの森の石松(1960)
森の石松鬼より恐い(1960)
殿さま弥次喜多(1960)
江戸っ子判官とふり袖小僧(1959)
お染久松 そよ風日傘(1959)
殿さま弥次喜多 捕物道中(1959)
一心太助 男の中の男一匹(1959)
右門捕物帖 片眼の狼(1959)
お役者文七捕物暦 蜘蛛の巣屋敷(1959)
一心太助 天下の一大事(1958)
ひばり捕物帖 かんざし小判(1958)
江戸の名物男 一心太助(1958)
若さま侍捕物帳 紅鶴屋敷(1958)
殿さま弥次喜多 怪談道中(1958)
若君千両傘(1958)
忍術御前試合(1957)  ...と、美空ひばりさんがらみのものが多い方で、1964年からは商業演劇(美空ひばり特別公演...)の脚本・演出をてがけた方です。

「ひばり・チエミの弥次喜多道中(1962)」
♪車がないから歩いて行こう!...のテーマ曲の最初のフレーズは沢島監督の作だそうです。
著書から「ひばり・チエミ」の部分を引用します。

>僕は大好きなんです。二人が競っているから、余計そうなる。「もうとにかくお嬢と一緒だったらどんなにしても私は負ける」って、負けず嫌い同士だから仲良くやってるようで演技に火花が散っている。
>きき手:完全に対等ですからね。
>だって対等に撮っていかなきゃならない。それは、こっちも、そのようにキャメラを持っていくし。・・・
 負けず嫌いでね。二人とも、ひばりが出たらチエミがこういくと二人が負けず劣らずやる。そこが監督の狙いどころ。やっぱり二人がいたから出来たんです。

ひばり・チエミの弥次喜多道中(1962)...この内容をgoo映画から引用します。
キャスト(役名)
美空ひばり (お君)
江利チエミ (おとし)
千秋実 (片山軍次兵衛)
花房錦一 (三太)
堺駿二 (六助)
山形勲 (和泉屋多左衛門)
田中春男 (清十郎)
加賀邦男 (地獄の熊吉)
河野秋武 (神楽の勘次)
堺駿二 (五助)
夢路いとし (一助)
喜味こいし (二平)
中村時之介 (南町奉行)
中村錦司 (辰五郎)
大丸巌 (玄七)
片岡半蔵 (源蔵)
尾上華丈 (半次)
東千代之介 (法界坊)
東千代之介 (秋月七之丞)

スタッフ
監督 : 沢島忠
脚本 : 鷹沢和善 / 高島貞治
企画 : 栄井賢 / 神戸由美
撮影 : 山岸長樹
音楽 : 米山正夫
美術 : 鈴木孝俊
編集 : 宮本信太郎
録音 : 平太郎
スチール : 杉本昭三
照明 : 安田与一

あらすじ
チャキチャキの下町娘、お君とおとしは芝居小屋の下足番だが、ひょんなことから、奈落に地獄の熊吉、三太、法界坊などの麻薬密売団が、巣喰っていると知った。折も折、南町奉行所与力片山軍次兵衛配下の手入れがあり、一網打尽となった一味の中に、まきぞえを喰ったお君とおとしがいた。法界坊こそは、密売団根絶を狙う南町奉行が放ったオトリで、実は筆頭与力秋月七之丞なのだ。法界坊は更に捜査をつづけるため熊吉を欺いて破牢を図った。お君とおとしは民間協力の表彰状を貰ったが、密売団と関係のある者は雇っておけないと、小屋をクビになった。世の中の矛盾に愛想をつかした二人は奮起一番、名も弥次郎兵衛、喜多八と変えて、東海道を西へ。とある茶店で水割り酒に酔って大トラになったり、花嫁行列にオセンチになったり……。そんな二人と前後して、マーケットの拡張をはかる熊吉、三太、法界坊、それを尾行する軍次兵衛たちが行く。お君とおとしは街道はずれの古寺で密売団一味と再会、大立ち回わりの最中、軍次兵衛らが駆けつけて大さわぎ。その夜、三島の旅篭で、眠れぬお君とおとしは法界坊から「娘に返って江戸へ帰りなさい」と訓され、心のときめきを覚えるのであった。そんな二人に、東海道で評判の薬屋和泉屋多左衛門と番頭清十郎が、鎮静剤を与えた。お君とおとしが三日三晩も眠り続けたのは、和泉屋に眠り薬を盛られたからである。どうやら和泉屋も麻薬団と関係があるらしい。しかし、今のお君とおとしはそんなことには無頓着で、初恋の人へのつのる思いに胸を焦がしながら、法界坊の姿を追うのであった。そして、軍次兵衛や法界坊に協力麻薬密売団を捕えたことはいうまでもない。

フィナーレは、またまた下足番として勤める「角座」で、ひばり&チエミの「二人三番叟」の演舞で『終』。

【250】 沢島監督は語る...(2)

 
ひばり・チエミのおしどり千両傘(1963) 
https://www.youtube.com/watch?v=vVWxegyI7rI

昭和37年に撮影され、前の「弥次喜多」があたったので、38年の「正月映画」として公開されました。

このクランクインを前に、チエミさんはこう監督に話しているそうです...
>チエミちゃんがひばりちゃんとず--っと一緒の弥次喜多というのはとてもしんどい。
どのカットでも全部が負けてる気がするから、少し離してくれんかっていう。それもそうだな、両方の持ち味が相殺されてはいかんから、別々のシーンに登場させて、二人の持ち味を対照的に出そうと、こういうことになりました。・・・
負けず嫌い/神経質で繊細・・・江利チエミという人の素顔の二面性を垣間見るように思えます。二人三番叟を踊る・・・など、(チエミさんも日舞は上手でしたが)早くから名取となっていたひばりさんと「歌舞伎狂言」や「日舞」で同じシーンを1カットで撮っていた「弥次喜多」は確かに真面目なチエミさんには しんどい 部分もあったのでしょう。
この映画で、ひばり=お君 チエミ=お登志...
これは、ひばりママ=加藤喜美枝 チエミママ=芸名:谷崎歳子 から命名したものだったそうです。

ひばり・チエミのおしどり千両傘 goo映画から引用します。
キャスト(役名)
美空ひばり (貴美姫)
江利チエミ (登志)
水原弘 (巳之吉)
安井昌二 (堀込一馬)
千秋実 (土橋進左衛門)
北龍二 (梶川主膳)
清川虹子 (岩風)
由利徹 (三村文之進)
尾形伸之介 (黒田主水)
中村時之介 (落合太郎左)
紫ひづる (お八重)
喜味こいし (与吉)
森三千代 (女中A)
高橋漣 (女中B)
矢野幸男 (茶店の親爺)
五里兵太郎 (駕篭屋A)
夢路いとし (温泉宿番頭)
青柳竜太郎 (力士風の男)
藤本秀夫 (岩風の従臣)
波多野博 (岩風の従臣)
戸塚新八 (岩風の従臣)
中村錦司 (家臣)

スタッフ
監督 : 沢島忠
脚本 : 笠原良三 / 沢島忠
企画 : 神戸由美
撮影 : 山岸長樹
音楽 : 米山正夫
美術 : 井川徳道
編集 : 宮本信太郎
録音 : 中井秀夫
スクリプター : 平井稔乃
照明 : 井上孝二


あらすじ
美人で評判の鶴岡藩二十五万石の貴美姫に縁談がもちあがった。相手は八十万石の大名松平相模守で、家柄といい、禄高といい非のうちようのない良縁なのだが、貴美姫は気乗りがせず嫁入り準備のため江戸へ向う途中、日毎にふさぎ込んでいった。姫の様子を心配したお守役の進左衛門は、原因は食欲不振の栄養障害として賄役堀込一馬の責任を問うた。が、姫と乳姉妹の腰元お登志が姫に代り食事を平らげていたことが分り、お登志はかねてから好意を寄せていた一馬に非難され気持ちが転倒し大騒動を起した。その騒ぎに乗じ貴美姫が脱走してしまった。そこへ松平家の使者三村文之進が来たので、家老梶川主膳と進左衛門はお登志を姫の身替りにしてその場を繕った。これから、一行はお登志を姫に仕立てたままで旅を続けることに決め、このためにお登志の珍妙なお姫さまぶりが連日くりひろげられるのだった。一方、貴美姫はある田舎町の青年に見染められ、強引に嫁にされようとしたところを江戸の若旦那、巳之吉に助けられた。これが縁となって、貴美姫は、巳之吉と道連れになり木曽の山中から三島の宿へと明るく楽しい旅を続けた。三島の宿で貴美姫は、巳之吉に求婚されたのでやむなく自分の素状を白状した。そして、貴美姫を見つけた進左衛門にうながされ悲しい別れを告げた。三島の宿へ着いた偽貴美姫一行を松平家の二度の使者老女岩風が花嫁の人物鑑定のために出迎えた。そして、お登志に多彩な試験を試みたが、お登志の愛敬たっぷりな立ち振舞が意外な好印象を与えて良い結果をもたらした。折も折、鶴岡藩との縁組みに同意しない松平家反主流派の刺客が、貴美姫と松平家二番目の使者岩風の命をねらって来た。が、主繕は二人が死ねば当然縁談は立ち消えになり、そうなると、貴美姫に家出をされた藩の落度も不問になると考え、刺客に手出しをしない。そこへ、包丁持つ手に大刀を握った一馬が駆けつけ捨身の活躍をした。そして、一馬は人間性を無視した武士の生活に愛想をつかして大小を捨てようと決心した。お登志もその後を追った。鶴岡藩の豪華な花嫁行列が江戸の町を進んでゆく。花嫁姿の貴美姫は駕篭で揺れながら深い瞑想に沈んでいた。が、見送りの中にいる魚屋姿の一馬とお登志の幸福そうな姿に女の幸せを呼びかけられ、巳之吉に対する狂おしい愛情にかられた。次の瞬間、貴美姫は駕篭から飛び出していた。「巳之さーんッ」貴美姫の声が明るくこだましている……。
フィナーレは鳶の棟梁となった「ひばり夫妻」と、魚屋となった「チエミ夫婦」がからむコミカルな喧嘩シーンで 『終』。
  
江利チエミさんは確かに「美空ひばりと唯一張り合ったライバル」だったかもしれません...
 そして高倉健さんのために尽くした奥さんでもありました。ひばりさんと健さんと...このお二人との出会いが彼女にとってどうだったのか... なんともいえません。
  チエミさんもひばりさんも...そして健さんも... いまごろあちらの世界で談笑されているのかもしれません。




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3 コメント

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Unknown (twig)
2014-12-06 14:29:42
ひばりさんにとって、チエミさんは唯一のライバルでした。
そして、三人娘があったからこそ、ひばりさんはひばりさんでいられたのです。もしも三人娘がなかったら、ひばりさんは全く違った方向にむかったと思います
返信する
ひばりさんとチエミさん (う--でぶ)
2014-12-06 18:11:29
お互いにかなり切磋琢磨があったでしょうし... でも本当に同じ昭和12年にチエミさん、いづみさん...そしてひばりさんが生まれ、小学生でひばりさん、チエミさんがデビューして、いづみさんが中学卒業してデビュー... すごい縁ですよね!
音楽的には...
http://blog.goo.ne.jp/udebu60827/e/7d49a0ce992ab5eaae91b8b39d3ec663
  ↑
こう思っています。
返信する
なが~い補足です。 (う--でぶ)
2014-12-06 18:27:02
27年...デビュー当時の江利チエミを扱う雑誌の多くに次のような内容が多く見受けられます。

ジャズ(厳密にいえばPOPSだが)を歌う15歳の少女...のファンですから、都心部の高校生ファンが多い...という記載があります。

ジャズ=歌謡曲とは違ってハイブローなもの...と捉えられていたかと思います。
高校生=当時の世情を考えれば高校進学率もまだまだ低い...都心部の恵まれた家庭の子息が多い、といえるでしょう。

それゆえ、大映映画への出演などによる「母子鶴」のテーマなどの吹き込みには...
「テネシーワルツ以外(テネシーなどの洋物以外)は歌うな!」というファンの声が多くこれを今後どう対処していくのかが課題である・・・といった記載が多く見られます。

これも過去に何度か掲示している部分ですが、江利チエミの歩んだ道は、新しいものへのトライでもありましたが、ある意味それは「ファンの予想を裏切り続けた道」であったともいえます。

デビュー当時...は、彼女の意志が反映されていないままに周りが動いてしまった。

ジャズ歌手
 --->レコード会社としてはマーケットを広げたい!
        契約した映画会社が「お涙頂戴」の大映だった...
「カバーもの7を歌う天才少女ジャズ歌手」と「2の線の演技で美空ひばり同様に主演映画の主題歌を歌ってヒットさせる」...といった二足の草鞋。

  ...当初のこの思惑は見事に外れます!江利チエミのカラーではありませんでした。

しかし...それが、最初は絶対にイヤといっていたことでも「本人も納得した上」となると話は違っていきました。

乗り気でなかった「三人娘映画」「サザエさん映画」への出演に踏み込む...
これまた「最初は固辞した」民謡のレコード化を実現する...
自分のカラーではないとこれまた最初は雪村いづみさんを説得した「マイフェアレディ」への出演を承諾する... 
  自身の納得してはじめたものは「成功」を収めるのです。

自分で納得した以上頑張る...
これが、江利チエミが江利チエミたる由縁...十年に一度の努力家たる由縁と思います。

しかし...

※ジャズのチエミが好きな(当時の)高校生ファンにとっての「サザエさん」「3の線を生かした三人娘映画やコミカルな役どころの映画」が、全面的に受け入れられたか??

※洋楽ファンが全員「チエミの民謡」を受け入れ喜んだのか??

※逆に「サザエさんでファンになった大衆」が、「ジャズ歌手江利チエミのファン」に抵抗なくなれたのか??

※チエミの民謡で「親しみやすい」と思いファンになった人が、江利チエミということだけで「チエミのジャズ・ポップス」を受け入れられたのか...

江利チエミという人本人にも、そして「ファンにとっても」...
    これはジレンマだった...とも云えます。

しかし...展開が読めない!!という部分では、とても興味深い進路を採った!と云えます。

映画ではアイドル映画で主演をする傍ら、マンガの主人公サザエさんも演じる一方、文芸大作にも出演し評価され、テレビドラマでも多彩な役を演じ、司会も出来てクイズ番組でも活躍...
舞台では、ミュージカルからシリアス劇だけでなく喜劇も座長公演をこなし、
本業の歌でも「歌わなかったジャンルはない」といえるほどに、ジャズ・ポップス・ラテンから端唄・俗曲/民謡、そして歌謡曲まで歌い、亡くなる前日までステージに立っていた...

昭和27年1月のメジャーデビュー当時、これは本人も予想すらできない道筋だたっと思います。多彩な活動を継続していく中には相当のジレンマもあったと思います。
 
映画の出演は「思ったほど多くはない」のですが、その出演作品は多彩です。
 ロードショウ映画の「題名だけ」ですが、その多彩さ...が想像できます。

巣立ちのとき 教育は死なず(1981)
幕末(1970)
ど根性物語~銭の踊り(1964)
ひばり チエミ いづみ 三人よれば(1964)
スター誕生(1963)
この首一万石(1963)
独立美人隊(1963)
ニッポン珍商売(1963)
ひばり・チエミのおしどり千両傘(1963)
咲子さんちょっと(1963)
ひばり・チエミの弥次喜多道中(1962)
銀座の恋の物語(1962)
東京さのさ娘(1962)
ちいさこべ(1962)
福の神サザエさん一家(1961)
サザエさんとエプロンおばさん(1960)
サザエさんの赤ちゃん誕生(1960)
唄祭ロマンス道中(1960)
ふんどし医者(1960)
サザエさんの脱線奥様(1959)
サザエさんの新婚家庭(1959)
サザエさんの結婚(1959)
ロマンス祭(1958)
希望の乙女(1958)
サザエさんの婚約旅行(1958)
青春航路(1957)
歌う不夜城(1957)
サザエさんの青春(1957)
森繁の僕は美容師(1957)
続サザエさん(1957)
ジャズ娘誕生(1957)
大当り三色娘(1957)
ロマンス娘(1956)
力道山男の魂(1956)
江利チエミのサザエさん(1956)
恐怖の空中殺人(1956)
チエミの婦人靴(1956)
チエミの初恋チャッチャ娘(1956)
裏町のお転婆娘(1956)
花笠太鼓(1956)
大暴れチャッチャ娘(1956)
ジャンケン娘(1955)
ジャズ娘乾杯!(1955)
陽気な探偵(1954)
ハワイ珍道中(1954)
青春ジャズ娘(1953)
紅椿(1953)
新やじきた道中(1952)
母子鶴(1952)
猛獣使いの少女(1952)
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