江利チエミファンのひとりごと

江利チエミという素晴らしい歌手がいた...ということ。
ただただそれを伝えたい...という趣旨のページです。

60) ちいさこべ

2005年06月30日 | 江利チエミ(初期記事・本編)
山本周五郎の作品「ちいさこべ」
昭和37年東映で映画化されました。
この作品に萬屋錦之介(中村錦之助)さんと競演したチエミさんは「京都市民映画賞の助演女優賞」を手にします。
江戸の大火で、身寄りを失い「酌婦」にまで身を落としたことのある娘、健気な彼女は見てみぬふりができず孤児達の面倒を見る...最後は幼馴染の大工の棟梁と結ばれ「子供達の家」を作る...
江利チエミのあたり役の1つです。

旧知の演劇評論家の旗一兵さんのインタビューに答えてチエミさんはこう発言しています。
「9歳頃からいろいろな舞台でジャズを歌いはじめたけど、同時に芝居をやりたくてたまらなかったの。小さな時に観たお母さんの好演技に憧れていたのね...」

(このころキャンプの仕事のプロモーターをしていた茂木さんなる人物がいました。白鳥みずえさんの映画出演の橋渡しもしていた人物です。少女のチエミさんは「オジサン、どうしたらアタシを映画に出してくれるの?」といつも「おねだり」をしていたのだとか...これは53年頃の日テレ「ミセス&ミセス」での江利チエミ特番の中のご対面コーナーで茂木氏が登場。そこで語られたエピソードですが、チエミさん自身は「えっ?私そんなこといいました??」と...すっかり忘れている様子でした。)

「でも、すぐにお母さんが亡くなってしまったので大きな目標を失った感じで歌に専念したけれど、そのうち、やっぱり歌とお芝居と同じ程度に熱を上げるようになってしまったわ。だから昭和37年のコマ劇場のミュージカル<スター誕生>で文化庁芸術祭の奨励賞とテアトロン賞を、そして山本周五郎先生の傑作を錦之介さんとの共演で映画化した<ちいさこべ>で京都市民映画賞を両手に花のように頂戴したときの嬉しさは最高のものでしたわ」...と。

これまでの章では「江利チエミは最初、女優には積極的ではなかった」ことを書いてきました。
しかし、この発言も確かに残っている...

チエミさんのお母さん「谷崎歳子さん」は、東京少女歌劇から浅草オペラ、浅草の軽演劇の舞台で活躍し、チエミさんの生まれた後は体調を崩しますが、昭和14年~17年にかけて東宝の代表劇場であった有楽座でベテラン女優として活躍していたそうです。楽屋にはいつも幼いチエミさんを連れて...
音楽劇に特に興味を持ったチエミさんは5歳くらいから一人で有楽座の前の東宝劇場(東京宝塚)に宝塚歌劇を観に行ったり、数寄屋橋の邦楽座で旗揚げした水の江滝子のミュージカル劇団「たんぽぽ」の熱烈な常連となって、舞台に出演中のお母さんをハラハラさせていたのだとか...

そんな少女チエミさんだったわけですから、当然お芝居への興味も溢れるほどに持っていたはず。
しかし、そのお母さんはキングレコードのテストの直前、帰らぬ人となってしまった...
14歳の少女のショックは計り知れません...
キャンプ回りの頃は「映画に出して!」と懇願していた彼女だったけれど...
彼女は無意識に「女優」という「もうひとつの目標」を固く封印してしまったのかもしれない...
私にはそう思えるのです。

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