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江利チエミファンのひとりごと

江利チエミという素晴らしい歌手がいた...ということ。
ただただそれを伝えたい...という趣旨のページです。

◆ 永島達司さんとチエミさん(その2)

2006年10月26日 | 江利チエミ(続編)
永島達司さんは海外アーティスト招聘事業「呼び屋」のパイオニアで、今から10年前の段階でも「キョードー東京」の取締役会長の職にありました。そして音楽著作権ビジネスの最古参のひとつ「大洋音楽」の取締役社長も勤めいていましたし、また「ポリスター・レコード」の取締役会長をも務めていました。
…レコード会社を除けばこういった「ビジネス」は戦前の日本には存在しないものでした。
昭和41年6月…「ザ・ビートルズ」来日…の際も、イギリスサイドから「日本側のプロモーターは、タツ・ナガシマで」と指名してきたほど、絶大な信用を置かれていた人物だったのです。
キャンプでの様々な経験をつんだ後、彼は「キャノン機関(アメリカ軍諜報機関)の一員だったのではないのか」との噂もある「アルフォンゾ・B・シャタラック」という人物と組んで「S・Nプロダクション」を興し、ジャズ・コンサートの興行、日本人ジャズメンのマネージメント、そしてアメリカからのアーティスト招聘を積極的に手がけた時期がありました。

※アルフォンゾ・B・シャタラック氏について、永島達司さんが音楽評論家/安部寧さんに語った内容は以下の通りです。
>シャタラックは、アメリカ軍の犯罪捜査機関CIDにいたんです。あるとき、テッド・ルィーンを調べろ…と命令が下り、いろいろやっているうちにルィーンにとりこまれていってしまった。ミイラとりがミイラになってしまったというわけです。ええ、S・NプロのSはシャタラックともうひとりアメリカで警官をやっていたダン・ソーヤー、Nはわたしのイニシャルをとったものです。・・・テッド・ルィーンはマニラの居を構え、虎視眈々と日本進出を狙っていた。東京で本格的な賭博場開設を目論んでいたようです。しかし、日本はほかの東南アジアのように甘くありませんからね。政府だって警察だってちゃんと目を光らせている。結局、賭博場開帳まで至らなかった。ただジャックは始終、日本で警察のご厄介になっていた。博打や闇ドルなんかでね… その度に彼の尻拭いをしていたのが、わたしなんです。」(安部寧さん著/ショウビジネスに恋して…より)

この永島氏の手による「ジャズ・ショウ」の興行で大規模なものには、浅草・国際劇場での「国際最大のジャズショウ(出演:江利チエミ/ナンシー梅木/笈田敏夫/東京キューバンボーイズ/ジョージ川口とビッグ・フォア…幕間には有島一郎の音楽コントもあったのだとか)」、大阪・大劇での「大劇最大のジャズショウ」…などがあり、定員5,000の劇場の三倍もの客で会場は三階席まで「満員/すし詰め状態」だったとか。

こういった様々な仕事も経て、永島さんは昭和30年代、新会社「協同企画(のちのキョードー東京)を設立し、より積極的に海外アーティストの招聘に乗り出します。
(30年代半ば、永島さんら「呼び屋」の活躍で大物アーティストが続々来日を果たします。 34年トリオ・ロス・パンチョス、35年/ミルス・ブラザース、アール・グラント、36年/ナット・キング・コール、デルタ・リズム・ボーイズ(江利チエミとジョイント興行)、サム・テイラー、ジューン・クリスティ、37年/ボビー・ライデル、クリス・コナー、ホーレス・シルバー、38年/ザ・プラッターズ、ジルベール・ベコー、ルイ・アームストロング、パティ・ペイジ、アーサー・キッド、カテリーナ・ヴァレンチ、サミー・ディビス・JR、39年/ジュリー・ロンドン、パット・ブーン、フォー・フレッシュメン、フランキー・レイン、ピーター・ポール・アンド・マリー、ベニー・グッドマン、ハリー・ジェイムス(昭和28年、江利チエミ渡米の際に共演した楽団)、ローズマリー・クルーニー…)
日本にショウビジネスが本格的に根付いていったのです。
1$=360円 ましてやまだ高度成長に向かう時期... 興行的には決して「儲かるもの」ではなかった。36年/ナット・キング・コールを招いた永島さんは「大赤字」だったのだそうです。しかし、今日尚「ナッキンコール・ファン」が日本に多いのは、この来日が大きなファクターになっていると思います。
キングコールは「枯葉」「LOVE」など、ニッポン語で吹き込み、ステージで歌っています。どれだけナッキンコールが永島氏に信頼を置いていたのか...の表れのように思うのです。


さて、話を昭和26年頃にもどします...
S・Nプロダクション立ち上げのとき、永島氏は笈田敏夫、ナンシー梅木のマネージメントをはじめます。
  戦後の本格ジャズ歌手の草分け、男女それぞれの巨頭です。

そして昭和28年には「日本人アーティストを米本土へ輸出」し、「レコードを発売してラジオのヒットチャートに邦人として初めてチャート・インする」といった快挙を達成することに大きく寄与します。
これこそ「江利チエミ・初渡米/昭和28年3~5月」なのです。(次章へつづく)

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