江利チエミファンのひとりごと

江利チエミという素晴らしい歌手がいた...ということ。
ただただそれを伝えたい...という趣旨のページです。

◆ 江利チエミ テネシーワルツ 10 (新宿の戸塚に米軍接収エリアがあったという記述発見)

2010年05月05日 | 江利チエミ(続編)
ネット検索で...

>「昭和27年に接収された、横浜市戸塚区吉田町260付近は米軍「PX中央倉庫」として使用されており、日立製作所戸塚工場の敷地も含まれると推測されるが、実際建物を接収されたのは日本工學工業株式会社の建物であった」... 
          という記述に行き当たりました。

江利チエミさんがメジャーデビューした昭和27年に接収されたエリアはたしかにありましたが、時代も違いますし、また「倉庫」であったということを改めて掲載させていただきます。


また、さきに「深谷通信施設」については掲載しましたが、「上瀬谷通信隊」にかんしては以下のような記述を発見しました。

>米海軍上瀬谷通信施設は、朝鮮戦争のさなかの一九五二年、朝鮮民主主義人民共和国(以下 北朝鮮と略称)、ソビエト連邦および中華人民共和国などの軍事用電波のスパイ通信傍取・暗号解読を主任務として建設された。横浜市瀬谷区と旭区にまたがった、面積二百四十二ヘクタールに及ぶ広大な施設である。上瀬谷基地には多数の各種の受信アンテナ群が林立していたが、都市化が進まなかった一九六〇年代はじめまでは、少数の周辺住民のみが米軍基地の存在を知っているだけで、その危険な軍事機能を知らされなかった。
 そうした状況の中、周辺住民は生活や営農に厳しい制限を押し付けられた。微弱電波傍受のためには、受信の妨害となり得るものをいっさい排除しなければならない。このため、一九六〇年(昭和三五年)三月三十一日、日米合同委員会において、「電波障害防止制限地域」の設定が合意され、施設周辺の広範な地域を含めた九四五ヘクタールが電波障害防止制限地域に指定された。周辺住民は建築物の高さ制限をうけたばかりでなく、電機ミシンの操作から蛍光灯の使用、自動車のエンジンの点火、耕作機械の使用等生活上の細部にわたって厳しい制限を受けたのであった。
 一九六〇年代後期、日本海での米艦プエブロ号だ捕事件やEC121電子スパイ偵察機撃墜事件などから上瀬谷基地の存在が明るみに出された。この当時、スパイ電波傍受施設として上瀬谷は最盛期にあった。

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こちらも1952年=昭和27年、確実にメジャーデビュー後なわけで、進駐軍の慰問を江利チエミさんがその時点で行ったはずもなく、また...

>一九六〇年代はじめまでは、少数の周辺住民のみが米軍基地の存在を知っているだけで、その危険な軍事機能を知らされなかった。
       ↑
.この記述だけをみても通信隊に「ショウ」をひらく施設が併設されていたはずがないと推察できます。
 
またもうひとつ、現在「栄区」となっているエリアもかつては「戸塚区」の区域でした。
(かつて横浜市戸塚区は瀬谷/泉/栄 保土ヶ谷区は旭 南区は港南 港北区は緑/青葉 磯子区は金沢 をふくむエリアだったと思います。戸塚/保土ヶ谷/南/磯子/港北/鶴見/中/西/神奈川区... 横浜市は私が小学校を過ごしたころは9区だったと思います。)
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:FfYtNYnyvC8J:kaminagaya.net/blog/archives/001801.html+%E7%B1%B3%E8%BB%8D%E3%80%80%E6%8E%A5%E5%8F%8E%E3%80%80%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%80%80%E6%88%B8%E5%A1%9A&cd=33&hl=ja&ct=clnk&gl=jp
   ↑
このサイトに詳しい記述がありますが、現/本郷台駅付近に第一海軍燃料廠があったことを付け加えなくてはなりません。
しかし、このエリアの接収も昭和27年からです。
時期的にまったく整合性がありません。

横浜市における米軍接収関連の記載は...
 ~ファミリー版 よこはまの歴史~
 http://www.ne.jp/asahi/koiwa/hakkei/sekaisi14.html
    ↑
 こちらをご参照ください。

またなにより、新宿区の戸山(戸塚)が米軍に接収されていたというはっきりとした記述も発見しました。

●山手線の内側で一番高い山...
 http://members.jcom.home.ne.jp/1210114411/Tokyo/10.Takadanobaba.html
> ....その後復旧されることなく、明治維新を迎えると、軍用地となり、第二次世界大戦が終焉を迎えるまでは陸軍戸山学校や軍医学校などが存在した。大戦中には731部隊が人体実験が行われていたとの噂もあり、そうした経緯からか現在では心霊スポットとしても知られている。実際に箱根山の地下に多数の銃弾が埋まっているのは確かなようだ。

>戦後は一時期米軍に接収され、現在のような戸山公園として整備されたのは昭和29年のこと。箱根山を中心に起伏に富み、多くの緑に包まれた公園となっている。“へびに注意”などという看板もあるほど里山的な雰囲気だ。一方で大久保寄りの平地は“すずかけの広場”として整備されており、すずかけの芳香が漂う西洋風庭園になっている。

>ところで戸山公園というのは、この箱根山地区に加えて、より山手線の線路近い地域にある大久保地区の2地域から構成されている。大久保地区は箱根山地区から徒歩5分ほど。こちらは現代的な公園として整備されている。

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これでなんとか進駐軍戸塚キャンプは横浜ではなく「東京/新宿区のなか」ということを立証できたかと思います。
ウィキペディアさんで「戸山公園」を検索しても...
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E5%B1%B1%E5%85%AC%E5%9C%92
 >1945(昭和20年)、
一連の軍事施設が廃止される。米軍の接収を経て、(昭和24年~)跡地は公園や住宅施設として整備される・・・ などなど。
     
昭和24年まで接収されていたことが読み取れます。

もういいかげん読者のみなさまもこの話題はげんなりされていると思い連載は9で止めるつもりでしたが、このブログのコメントは「私の承認制」とさせていただいております。
今回「戸塚のキャンプ」の件、パティ・ペイジじゃないと思うという件... それに対しての異論やご意見を頂戴いたしました。
恐縮ですが、異論を唱えられる方々のコメントを掲載することはやめ、あくまでも「なぜわたしがそう確信しているのか」という根拠、裏付けを掲載させていただきました。

史実を歪曲される... といったらおおげさですが、さまざまな考察は「歴史の足跡」をきちんとたどればおのずと答えが導き出されるものと思います。
私も簡単に、横浜じゃなく新宿...といった大新聞社(かつ私の愛読している新聞)の記事に異論を唱えたわけではありません。

これに対して、 パティ・ペイジ ではなく ジョー・スタッフォード というのは歌詞以外の考察では「その音源の感じ方」...感覚の問題ですので、あえてこれ以上の「うんちくをひねりだす」ことは控えます。わたしの感じたこと...が根幹のたわごとととらえていただいても構いません。
また、こういったことを簡単に書いていますのも、「著作権」の問題をクリアにしていないわけで、もしこのブログが違法であれば「すぐにデリートしてしまえばいい」個人の日記という気楽さがあります。
マスメディアさんはそうはいかないことも充分理解しています。また今は江利チエミさんのお義母さまが私のブログを容認してくださっていますが、いつまでもご厚意に甘えていてはとも思っています。
私は江利チエミさんのただのファンの一人で、何の縁もゆかりもない人間です。そのような人間のブログを信用してくださるわけもないことも充分理解をしています。
偉そうな表現をしている部分があるかもしれませんが、このブログはあくまで「ひとりごと」であります。

コメントを掲示していない皆様へのレスはこれらの江利チエミ テネシーワルツ/連載記事~10までをもってかえさせていただきます。どうかご容赦ください。


トップ画像は、戸塚のキャンプは横浜じゃない...を連呼しましたが、私は横浜育ち!
                大好きな街ですので、氷川丸の夜景であります。


         


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