江利チエミファンのひとりごと

江利チエミという素晴らしい歌手がいた...ということ。
ただただそれを伝えたい...という趣旨のページです。

【52】 チエミさんの周辺② ジャズ歌手たち その2

2005年09月27日 | 続・江利チエミ(初期記事・後編)
ナンシー梅木
戦後の日本ジャズ界代表する本格派女性シンガー、北海道生まれ。
進駐軍向(FEN)放送などに出演していたが、1948年に上京し、抜群の音楽センスで頭角を現し、スター歌手に。1955年渡米ハリウッドに進出、57年には初出演の映画「サヨナラ」でアカデミー助演女優賞に輝いている。

笈田敏夫    
ベルリン生まれ。慶応大学在学中より、ポス宮崎、大橋節夫らとハワイアンバンドを結成、其の後、ブルーコーツオーケストラの専属歌手として活躍す。コロムビア・レコード、TBS,NHKなどの専属となり、紅白歌合戦等にも長年出演、日本のジャズ界の常にトップシンガーとして活躍し、最近までステージ、TV、レコード制作等と幅広い活躍をしていた。

大橋節夫  
慶応ボーイ。敗戦後復員した海軍少尉大橋節夫は、笈田敏夫達と「スター・ダスターズ・ハワイアン」を結成、渡辺弘氏に「スター・ダスターズ」の名称を譲り、「大橋節夫とハニー・アイランダース」が誕生したのが1948年。大橋節夫はシンガー・ソング・ライターのパイオニアとして、またハワイアンミュージックを含めた日本のポピュラー界の大御所。

ペギー葉山
青山学院女子高等部の頃、家に無断で米軍キャンプでジャズを.歌った。
最初の曲はセンチメンタルジャニー・アゲインなどがある。後年、渡辺弘とスタータスターズの専属歌手となり、昭和27年「ドミノ」「火の接吻」でキングレコードからデビューする。昭和33年「南国土佐を後にして」が大ヒット、その後平岡精二の曲「爪」「学生時代」、そして自身が作詞して日本で定着させた「ドレミの歌」といった「洒落た作品」が彼女のトレードマークになっていく。ジャズから歌謡曲迄、巾広い大歌手。

新倉美子
新国劇の辰已柳太郎が父、父親と同様俳優になろうと、俳優座の養成所へ通ったっが、ジャズに夢中になり、ペギー葉山、柳沢真一らとティヴ釜范校長のジャズ学校へ通い、米軍キャンプのにクラブ出演、当時人気が高かった池田操とリズムキングの専属歌手と成る。
其の後、新東宝より「バラと拳銃」「青春ジャズ娘」等30数本の映画に出演。
マーキュリーレコードより数々のヒ.ット曲を出している。
ホテルニューオータニにて画廊ギャラリー「しんくら」を自営。

ウイリー沖山
昭和8年、横浜に生まれる。セントジョセフ学院に在学中、ウエスタン音楽に興味をもち、ウイリー・ジェイムズの芸名でカントリーボーイズ、チャックワゴンボーイズを経て独立、ウエスタンヨーデル歌手としてトップスターの座を得。 改名してポピュラーシンガーとして現在も活躍中.。.実力派歌手として知られている。 

石井好子
日本シャンソン協会会長東京芸術大学声楽科卒。始めドイツリートに専念、戦後ジャズ
歌手に転向し、1952年パリでデビュー、ドーヴィルのシャンソン・コンクールで技術賞を受け、シャンソン歌手としてギャプシーヌ劇場、ナチュナリスト、シェヘラサードに出演、パリを中心にイタリア、ス・ペイン、ドイツ、べ一ルギー等ヨーロッパ各国の舞台に出演、帰国後日本各地で活躍、90年第32回日本レコード大賞特別賞を受賞している。

マーサ三宅
昭和28年、日本音楽学校卒業、駐留軍のキャンプでアメリカのポピュラーソングを歌い始める。翌年、レイモンド・コンデのゲイ・セプテットの専属歌手となり、当時のナイトクラブ・マヌエラに出演。ジャズヴォーカル一筋に活躍。93年10月ハリウッド録音のCD/SOPHISTICATED LADY」をリリース。プレス枚数は50を越える。
大橋巨泉氏の前夫人。 

伊藤素道 
昭和3年東京生れ。慶応幼稚舎普通部予科、医学部と進学
昭和5年の空襲で父を亡くし、医者になる事を断念。経済学部に入る。(28年卒)
終戦直後、進駐軍慰問、リリオハワイアンズ結成、ハワイアンナンバーよりジャズを多く演奏し注目される。学校…卒業すると同時にリリオリズムエアースと改名し、ジャスコーラスに専念“リトルダーリン"“ローハイド"“谷間に三つの鐘が鳴る"“アラスカ魂"がレコードでヒットする。

黒田美治
東京.青山生まれ。幼少ロンドンで育ち、学習院時代のクラスメートと始めたのが、ウエスタン・バンド(チャックワゴン・ボーイズ)。当時のメンバーには、NTVの井原高忠氏らが一緒で、一世を風びする。
端正なマスクで女性のあこがれの的となる。チャックワゴン解散後は、テンガロン・ハットをぬいでジャズ・シンガーに転じ日劇のワンマンショーに出たりして大活躍をした。

竹平光江 
武蔵野音楽大学卒 見砂直照と東京キューバンボーイズの専属歌手第1号、放送・コンサートで活躍していたが病気の為療養生活を送ったが1965年カムバックしTV・ラジオ・等で活躍を開始、ミュージック・ライフ誌人気投票で女性ポピュラー歌手第1位に選ばれたこともある。

ディーブ釜萢
アメリカ・ロスアンゼルスに1915年に生まれ。
戦前、二世楽団のメンバーとして来日、そのまま日本に在住した。
戦後昭和21年に松竹軽音楽団に入り、22年には当時最高の渡辺弘とスターダスト・オーケストラ(第一ホテル専属)の専属歌手となる。
引退後はジャズ学校を設立、ペギー葉山・新倉美子・柳沢真一・青山ヨシオ等数多くのジャズ歌手を育てた。 かまやつ・ひろしの父。

レイモンド・コンデ 
フィリッピン出身。 昭和7年来日。早稲出国際学院に人学。
ゲイ・セプテットのリーダーとして日本のジャズ界の草分け的存在となる。
当時(昭和25年~28年頃)のメンバーは、「クラリネットと唄・レイモンドコンデ、ピアノーフランシスコキーコ、ギター・角田孝、ドラムージョージ川口、べ一スー小野満、ビブラフォンー平岡精二、唄岡あさ子」の日本最高のオール・スター・コンボでした。
ジャズブームの先達者でクラリネットと独特のヴォーカルで有名。

中原美紗緒
東京都出身。東京芸術大学声楽科卒業。1954年「パリのお嬢さん」でデビュー。「フル・フル」「河は呼んでいる」の大ヒットで一躍シャンソン界のスターとなる。人気テレビ番組「あんみつ姫」に出演してお茶の問のアイドルとなり、映画、ドラマ、ラジオなどで活躍し、「夜は恋人」のヒット、一時芸能活動を休止していたが、1978年カム・バック。自叙伝「唄に恋して」も出版した。

後藤芳子
東京生まれ。新宿の精華学園を卒業、1952北村英二リズムメイツに加わり米軍キャンプ・ 銀座のクラブ等で歌い始めた。作編曲家八木正生夫人となったが結婚したが後に離婚。
60年代後半アメリカに渡りボストンのホテル、ハワイのカワラヒルトン、サンフランシスコの クラブに出演し、スケールの大きな歌手に...現在もバリバリの現役で活躍するのと同時に、マーサ三宅同様にスクールでの後進の指導でも精力的に活動中。

...ざっとチエミさんがジャズコンに出ていた頃、同じステージで歌っていたと思われるメンバーを列挙しても、その出身が「ハイソ」で「リッチ」な匂いを感じます。


もちろんたたき上げの苦労人もおられます...

松尾和子
昭和28年にジャズ・シンガーとしてデビュー。レイモンド・コンデとゲイセプデットの専属シンガーとなり、またナイトクラブ「マヌエラ」の専属シンガーから、力道山の経営する「クラブ・リキ」に転じ、(昭和34年)作曲家吉田正に認められ『グッド・ナイト』でデビュー、昭和35年『誰よりも君を愛す』にてレコード大賞受賞。

フランク永井さんも進駐軍のキャンプでバイトをしながら歌手を夢見ていた...とか。

また、雪村いづみさんに関しては、前掲/本編・江利チエミ の
42) 少し遅れてやってきた歌姫... 雪村いづみさんのこと。 2005-06-12  をご覧ください。

また、もうひとつの流れ...に、「宝塚出身」のシンガーというラインがありました。

池 真理子
宝塚歌劇を出てジャズ歌手となり、昭和20年コロムビア専属となり、「愛のスイング」「センチメンタル・ジャー二一」「ボタンとリボン」等のヒットで「スイングの女王」とよばれる。昭和35年ニューヨークに渡り、ラテン音楽の洗礼を受け帰国、新リズム「ラ・パチャンガ」を出し、ラテン・グループに入る。64年「百万本のバラ」以来ロシア歌曲にも取り組む。平成7年「戦後第1号歌手」としてコロムビア・ゴールデンディスク賞を受ける。

深緑夏代
1944年第13回毎日音楽コンクールで声楽部門第2位入賞。46年宝塚再開第1回公演「カルメン」に出演。
宝塚の舞台のほか、多田玲子の本名でステージやラジオで活躍した。
55年に上京、62年に初めてヨーロッパ旅行をし、63年に第2回リサイタル。
83年10月西武劇場でのリサイタルのライヴ盤を発売。
平成元年(88年)歌手生活50周年の全国縦断リサイタルを行なっている。

注)昭和20年代...「ジャズ」は洋物流行歌全般を指し、ハワイアンもカントリーもラテンもポップスも...「ひっくるめてジャズコンサート」で上演されていました。


※親しくさせていただいているジャズ歌手の方から聞いた話です...
カール・ジョーンズさんのレッスンを受けていた時、カール先生がこんな思い出話をされたのだとか...
「チエミに日本にはどんなジャズ歌手がいるんだい?...と聞いたところ、即座にチエミ(デシちゃん)は『後藤芳子』という名前を出した」と。
チエミさんと後藤さんとではちょっと後藤さんの方がお姉さんですが、デビューが同時期です。
後藤さんとチエミさんの持ち味は全く違いますが、ふっと似てる...って思うときがあります。なによりも歌が好きなんだろうな---っていうムード... そしてなにより「可愛いらしい!」... 今日も後藤さんは元気にステージに立たれています。

(画像は後藤芳子さん)

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2 コメント

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南国土佐を (twig)
2005-09-30 19:49:13
ペギーさんも大変上手な方ですね。おおらかで、素直な方ではないかと察しますが、一度ステージを拝見したことがありましたが、すごい声量があってびっくりしました。そしてテレビで観るよりちょっとほそみで。

大ヒットした「南国土佐を後にして」は、もともと チエミさんのために出来た歌たっだとか。

それが、当時プロペラ機でキャンペーンにまわるのがいやというか、怖いという理由でペギーさんにゆずったと聞きました。 チエミさんが歌ったらまた違った「南国」になっていたでしょうし、ペギーさんはジャズ歌手からこの歌で広い層のファンを獲得したわけですから
返信する
そうですね--- (う--でぶ)
2005-10-01 00:03:27
昭和34年ですから加えて「結婚/休業時期」とも重なっていたのですよね。



作曲者の武政英策さんはこう云っています...

>『南国土佐を後にして』の原曲を耳にしたのは戦後まもないころ。酒が入った席で兵隊帰りの人が時々歌っていた。歌詞を聴いていると、中国派遣鯨部隊(四国混成部隊)の兵隊さんたちの苦労がしのばれるものだった。ただ、曲になると人によって少しずつ違う。結局、採譜した節も一部生かして、私の曲として最終的に仕上げたのが昭和27年頃。それが30年になってNHK高知放送局の電波に乗りレコード化され、ついにペギー葉山が歌って大ヒット。発表当時は、おほめの言葉も受けたが、「戦地じゃあこんな軟弱な歌い方をしなかった」のおしかりもあった。男のバンカラ調から、似て非なる女性的なきれいなメロディーになったから、それもそうだろう。ただ、私は作曲家として私の曲を作った。自分のスタイルの曲だとの自負があった。



武政英策(明治40年愛媛県喜多郡鹿川で生まれる。 昭和57年12月1日高知市宗安寺で没、享年75歳...

戦前から戦中にかけて、NHK京都和洋管弦楽団の指揮者や映画音楽の作曲家で知られた武政英策さんは大阪の空襲で自宅焼失、昭和20年7月に先妻・貴美恵さん(25年没)の養家のある南国市に疎開、終戦後も中央に戻らず高知市内に居を構えた。以来37年余を比類なき音楽家として活動した。



ペギーさんはNHK高知放送局の開局記念番組でこの曲を歌うことになった...

しかしチエミさんが前年33年に「さのさ」の吹き込みを最初は拒絶したように、ペギーさんも「自身の肌合いではない」「私はジャズ!」ということで、とても気乗りがしないままに歌った...というコメントを言われます。

しかし結果的にこの曲との出会いでペギーさんは巧く歌謡曲の世界に入っていけるようになった...と思います。

当時のペギーさんの心境の表れはこのEPのB面に... ドクトル・ジバンヌ(英題/ドクトル・ジバコ)をカップリングしているのですよね。



おそらくNHKの最初のオファーはキングレコード・江利チエミだった...当時は民謡もこなせた時期ですからね。



チエミさんが歌ってたら...

 う---ん おっしゃるとおり「まったく違った南国土佐になっていた」と思います。



元歌の歌詞は...

1)南国土佐を後にして中支に来てから幾とせぞ...



2)月の露営で焚き火を囲み...



3)国の親父が室戸の沖で鯨釣ったという便り

   僕も負けずに元気を出して 歌うよ土佐の...



  ...たしかこうだったと思います。前に(チエミさんも出演した23:30~のTBS/ラスト・オーダーでゲストがペギーさんの時にこの元歌の歌詞で歌った記憶ですので間違ってるいかも知れません。





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