【産経抄】
2013.1.9
明治41(1908)年に書かれた夏目漱石の『三四郎』の小川三四郎は上京する列車で「広田先生」と出会う。駅で西洋人夫婦を見かけた広田は「御互は憐(あわ)れだなあ」と、つぶやく。「こんな顔をして…日露戦争に勝って、一等国になっても駄目ですね」とも言う。
▼三四郎は「これからは日本も段々発展するでしょう」と反論するが「亡(ほろ)びるね」と切って捨てる。「漱石は後の大戦の結果を読んでいた」として、自虐的史観の持ち主がしばしば引用する場面だ。「日露戦争に反対した平和主義者」だという「極論」もある。
▼しかしその1年後の明治42年に漱石が広田と逆の考えを書いた随筆が見つかった。昨日も少し触れた「満洲日日新聞」に掲載の「韓満所感」である。漱石はこの年の9月から約1カ月半満州や朝鮮を旅行する。その印象を記したものだ。
▼それによると、日本の内地で跼蹐(きょくせき)(肩身狭く暮らす)している間は「日本人程憐れな国民は世界中にたんとあるまい」と考えていた。だが満州や朝鮮で「文明事業の各方面に活躍」しているのを見て「日本人も甚(はなは)だ頼母(たのも)しい人種だ」との印象を刻みつけられた。そんなふうに書く。
▼日露戦争から4年ほど後のことだ。多くの日本人が新天地で、日本のためだけでなく当地の発展のためにも必死で働いていた。その姿に漱石は素直に自虐的日本人観を捨てたと見ていい。「幸にして日本人に生れたと云う自覚を得た」と胸を張ってもいる。
▼そんな在外の日本人たちも戦後「植民地主義の先兵」とされてしまった。いまだにそのフィルターを通してしか歴史を見られない人たちも多い。それに比べ、時代が違うとはいえ文豪の視線は確かなものに思えるのだ。
2013.1.9
明治41(1908)年に書かれた夏目漱石の『三四郎』の小川三四郎は上京する列車で「広田先生」と出会う。駅で西洋人夫婦を見かけた広田は「御互は憐(あわ)れだなあ」と、つぶやく。「こんな顔をして…日露戦争に勝って、一等国になっても駄目ですね」とも言う。
▼三四郎は「これからは日本も段々発展するでしょう」と反論するが「亡(ほろ)びるね」と切って捨てる。「漱石は後の大戦の結果を読んでいた」として、自虐的史観の持ち主がしばしば引用する場面だ。「日露戦争に反対した平和主義者」だという「極論」もある。
▼しかしその1年後の明治42年に漱石が広田と逆の考えを書いた随筆が見つかった。昨日も少し触れた「満洲日日新聞」に掲載の「韓満所感」である。漱石はこの年の9月から約1カ月半満州や朝鮮を旅行する。その印象を記したものだ。
▼それによると、日本の内地で跼蹐(きょくせき)(肩身狭く暮らす)している間は「日本人程憐れな国民は世界中にたんとあるまい」と考えていた。だが満州や朝鮮で「文明事業の各方面に活躍」しているのを見て「日本人も甚(はなは)だ頼母(たのも)しい人種だ」との印象を刻みつけられた。そんなふうに書く。
▼日露戦争から4年ほど後のことだ。多くの日本人が新天地で、日本のためだけでなく当地の発展のためにも必死で働いていた。その姿に漱石は素直に自虐的日本人観を捨てたと見ていい。「幸にして日本人に生れたと云う自覚を得た」と胸を張ってもいる。
▼そんな在外の日本人たちも戦後「植民地主義の先兵」とされてしまった。いまだにそのフィルターを通してしか歴史を見られない人たちも多い。それに比べ、時代が違うとはいえ文豪の視線は確かなものに思えるのだ。